【LIVE・震災特番】阪神・淡路大震災から29年「きょう初めて母の墓参りに行く」遺族代表が涙流し言葉述べる 発生時刻に合わせ黙とう 能登半島地震受け灯籠の文字は「ともに」追悼式典「1.17のつどい」

[音楽] てき た 行 てない と た ましたり ます使い終わられました長い食ございます たこちらの方でいたし ます今そこのあのロソさした方それささ ないでくださいさないで終わったら消あの 回収して場行てくいなるほど て たたい てちょっと橋元移動し ますあそういうこと かです ね DET K [音楽] はいはい栗本ですはいお疲れ ます はい配信中のCM中ですよ ねあマジすかあ そうマジすかちょっとはいはいちょっと もうあの収録とかもしてたんですいません すませんはいじゃあちょっともあの中継の スタート の了解 ですなりました長いございましたら回収し ており ますあの使いられた長いロソは竹の中には 入れないで くださいおになります長足ございましたど にありがとうございますりのた長ござい まし たああ回収じゃないです ねありがとうござい ます が はい はい 前 前 で とから戸のを戻せるように しは変わってきたで 最近 どれ ぐらいこのタイミングでさけてさなって ある から しておりますられた願いし ます入ないくださいありがとござい ます夜になりまし た長速回収しております ド くさい 皆様のご協力によりだんだんと灯に明りが ってまりました濡れるなどして転化でき ない路内のロソは取り外していただき 新しい路用のロソをお入れください白く 長い速は専用ですのでの中には絶対に入れ ないようにお願いいたします火を消して 会場内回収ボックスかロソ配テトにご選を お願いいたし ます関西電力様のご協力により今年も関西 電力ビルに1.17の文字が浮かび上がっ ていますまた北川の六甲山には今年も文字 と夜明前の追会場に武の明りがとりまし た 今年明りがかる文字 は共 につい2週間余り前の2024年 元日石川県のの半島で最大震度7の地震が 発生しまし た にせていいています どの皆様のお気持ちをお願いいたします東 がかる共にという言葉にはこの地震で被災 した人たちに 対し1人では ない共に助け合おうという思いが込められ ているということ ですおはようござい ますMBSアナウンサーの前田はかですあ 追悼が行われています神戸市の東遊園地 から生放送でお伝えし ます現在の気温は 0度武灯ろの周りに2層3層人々が多く 集まってきてい ます阪神淡路大震災から今日で29年 ですまだ世のけらない5時46 分淡路島を震源とする王子が起き災害関連 士も含め 6436人が犠牲となりまし た地震が起きた時25歳の私はまだ生まれ ていませんでし た私のように実態験として阪神淡路大震災 を知らない若い世代が増えてい ます 被災した方に話を聞いても来年で30 年世間に忘れられるのではないか風化が 怖いという話をしてくれまし たそして被災者の高齢化も進んでい ますいかに震災を語り継いでいくかが 大きな課題となってい ます今後もが発生するリスクは高まる ばかり ですそれに備えるためにも29年前の 悲しみや教訓記憶を今に語り継ぐことを 絶やしてはなりませ んこうした思いから今回震災で幼い弟と 2人をなくしその思いが今の生き方に つがっているある男性を取材しまし たなちょっと商店街の方回っていきますな 1 列神戸市長田区に住む柴田大輔さん飲食店 を営む方月に2回程度地元の消防団の活動 を続けてい ます柴田さんは29年前の今日2人の弟を なくしまし た 被災当時小学1年だった柴田さんは アパートの1会で両親と弟2人の家族5人 で寝ていまし たそして午前5時46 分ほとんどちょっと信じられないような私 も状況でえちょっとえ混乱しております けれど ももう揺れた瞬間に僕突き上げられてその 瞬間に2階が落ちてきたんで天井が落ちて きたからもうだから上から畳とか降ってく のが見えたんでもうまパってもう見たら もうもう下敷き 状態柴田さんと両親は火の手が迫る中なん とか助け出されましたが弟の3歳の弘明 ちゃんと1歳の友幸ちゃんは助からず 変わり果てた姿で見つかりまし た1番下の弟はもう骨の状態で出きてた から何もなく うん何の思かけもなく出てきたんでねだら 真ん中のね3歳の次男 が顔ハムだけ残っとったんでうんうんうん もそれを見た瞬間ももうそっから僕もん パニックなったんかわかんないですけど うんそっからの記憶があんまりないですよ ね母親と自にったはでほとんどが焼けうん 見つかったのはこの4枚の写真だけですね 震災時のもし再び地震が起き たらそんなトラウマから柴田さんは一時 自宅に引きこもるようになってしまい ますしかし地域の人やボランティアが声を かけ続けてくれたことで前を向けるように なりまし た18歳の時次は自分が地域の人の力に なりたいと消防団に入団しまし た家事の匂いとかするとやっぱり震災の時 の匂いと一緒なんで恐怖にはなるんすけど ねただ自分もやっぱそこは ね助かった命がやっぱ自分自身もあるんで でいろんな方にやっぱ助けてもらった次は 自分がやる番やなっていう思いでうんのが あった から消防団は普段仕事をしながら ボランティアとして防災パトロールなどを 行い災害時は消化や救助活動を行う団体 です阪神淡路大震災でも道路が分断され 消防隊が駆けつけられない中活躍しまし た長田消防なが1番プロですはいえ 震災当時から消防員を続ける高橋俊明さん もその1人 です近所はね大体分かりますが私がおった はやったらそこを声かけてねみんな声も 避難しとかどうかも分かりませんのでねだ からま近所の一に聞いていう形です ねしかし齢と不足を 背は減り続けてい転柴田さんの消防団でも 最も多かった18人から今年は10人ほど に減る見込み です柴田さんは災害時に地域の支となる 消防団の存在を絶やしてはいけないと言い ます消防な想の相がねあんまり知られて ないからうん地域の人に声をかけてねなん とか消防団うん入ってもらえますかね なんせも声かけしてうん続ささんと うんこの日柴田さんは消防団の詰所である 若者と待ち合わせていまし た藤原ゆさん柴田さんと同じ長出身で若者 らで作る震災語団体の代表を務めてい ます柴さん活動して およそ1前からがありましたが消防団に 入ってもらえないかと初めて声をかけまし たあ地元一緒やな思ってあこれちょっと 消防団誘いたいな思ってうん戻ってずっと 戻って喋りたかったけどあんまり時間が なかった1番あの火災がひどかった神戸の 長田の町で生まれ育ってま高校入ってから も震災学習というの続けていってまたその ボランティア活動震災関連のボランティア 活動したいなと思ってうん俺もそうやね ボランティアをしたいっていう気持ちが めっちゃあって地域を守れるって聞いた からうんほんでそれで俺もうんあこれで 入りたい思でうん僕でよければっていう ところはあるんですがまあまああの確定は またおってていう感じですねうん了解です ありがとうござい ますまたLINEしますおいよせおいす 頑張っ てうん消防弾活性かうんしてねうん 盛り上げていくうんもうそれが一番ねうん 僕の思いですはい安心をねこうしてできる 消防団としてねそれを引き継いでいきたい んでね [音楽] うん災害時多くの命を救う消防 団これからも地域の力として [音楽] 継VTRに登場しました柴田大輔さんにお 越しいただきましたよろしくお願いいたし ますよろしくお願いしますあの消防団の 活動を見させていただきましたけれども 人員を確保するというのは難しいことなん でしょうかそうですねえま年々え全国的に あの人員がやっぱ消防団の大数が減ってき てるやっぱ特に長もえかなりちょっと人数 が減ってきてますのでかなりちょっと困難 な今状態になってきておりますはいま そんな中でやりがいというのはどういった ところにあるんでしょうかそうですね やりがいはですねえ僕の中ではあの やっぱりこう地域と交流をえ深めてえ いろんな方とやっぱりこうあの話し合いが できるほんであねえコミュニケーションを 取ったりとかねえそういうのやっぱりあの できたりとかあといろんな活動がやっぱね できるんでんやそれのではやかなのあり ますね今回VTR見させていただいて本当 に地域に密着した存在が消防団としていて くれるんだなとま本当に心強く感じて見 させていただきましたで今回の番組の テーマがですね絶やさないなんですけれど も29年前の阪神淡路大震災を絶やさない ためにどんなことが必要だと思いますか そうですねやっぱ絶やさないっていうこと でやっぱりあのも29年も経ちますんで やっぱりこう災がこうね記憶が薄れていく まその中でも僕もえ語りべをしていろんな ね若い世代に伝えていくっていうことが やっぱ大事かなと思ってますんでやっぱり それをずっとえ世代世代で残していくて いうのをねやっぱやっていただきたいんで ま僕もこれでねずっと活動できていったら なと絶やさないようにしていきたいなとは 思っておりますはい若い世代もそういった ところに足を運ぶことが大切かもしれませ んねはいここまでは柴田さんでした ありがとうございましたありがとうござい ました そしてこの後は野半島地震の被災地に援助 に当たりました神戸市消防局の単位の方に お話を伺い ますご自身でできることそうです ねなんかあんまりりはそうですねちょっと 遠かっ た 記憶 はすごい 優しい男性あ女性 女性てそのまさん関連言われるようなもの なのかなというとろ で あ からで [音楽] も 神戸市の東遊園地から生中継でお伝えして い ます会場ではたくさんの竹に明りがされて い ますつつの領には作った人たちの思いや 願いが書き込まれてい ます今年はの半島自身で被災した人たちへ のメッセージもありまし た例えば共に 歩む生きるといった言葉 ですそこからは震災を知る神戸からの 寄り添いたいという思いが伝わってき ます 野地方を中心にここ神戸からも多くの人が 救援に向かいまし たここからはその1人神戸市消防局航空 機動隊の山田俊介さんにお話伺います よろしくお願いいたしますよろしくお願い します山田さんは今回どういった救援に 当たったんでしょうかはいえ私は今回 ヘリコプターを使いましてえ救助活動救急 活動そして生活用品などの物資の搬送 そして孤立落に降りての情報収集活動を 行いました実際に被災地に行ってみてまず どんなことを思いましたかそうですね ヘリコプター上空から確認できます多くの 家国の東海であったり道路の寸断そういっ た被害の状況を全て確認することができ ましたあの今日神戸市もまレドという寒さ ですけれども雪の状況寒さというのは被災 地いかがでしたかそうですねやはり向こう はえ切もすごくて被災者の方はやはり寒い とで灯油が足りないとそういうことを強く 訴えられていましたあの被災地の方と どんなコミュニケーションをとってどんな 言葉が印象的でしたかそうですねえっと 私自身物資の方を搬送させていただいたん ですけどもそういったえ被害を受けている 状況の中でもありがとうございますという 風に言っていただいたことが非常に印象に 残っております今田さん自身も29年前の 今日阪神淡路大震災で被災されたという ことなんですよねそうですね私自身もえ 小学1年生の時に帰宅でえ震災の方被災し ましたえ家の中の家具であったりとかそう いうものが倒れまして非常に怖い経験をし たことを覚えておりますあのまそういった 経験をした山田さんが野半島自身の被災地 どういった思いで行かれたんでしょうか そうですね阪神淡路大震災を経験してまた 熊本震災ではえ緊急商防炎除隊として活動 しましたそういった意味でえ震災の怖さ辛 さをえ目を持って感じているつもりです うんですので被災者の方に少しでも力に なれるよう全力を尽くしたいそういう思い で活動をしてまいりました今後山田さんは またこれからも野半島自身の再地に行か れるということなんですよねはいそうです ま改めてですけれどもこの29年前の思い を絶やさないためにどんなことが必要だと 思います かそうですねやはりこの 震災あったことを絶対に忘れずにこれを 繋いでいって支え合ってみんなで協力して 救助していくことが大事だと思いますここ までは山田俊介さんにお話伺いました ありがとうございましたありがとうござい ましたはいさんとからはい はい はいあうう 来年 の や から [音楽] かな目が動いたからびくり し 阪神淡路大震災の追悼が行われれている 神戸の東遊園地からお伝えし ます発生時間の5時46分を前に会場には 徐々に人が集まってきまし た竹灯ろの周りには人が通れるスペースが ほど人が集まっています今年自発生から 29年半世紀を超える年月が過ぎまし たした方々の人生に は色々なことがあったと想像ができ ます亡くなった人に思いをせあの時から 今日までのことを語りかけているの でしょうか避難生活を送っている 方の友に向い じ手を合わせる姿が見られまし た会場を訪れた人たちにお話を伺いまし たニったんです下宿の1階が潰れて命を 落としました宝塚に雨がおるんですけど兄 のところまでお友達 がで息子を運んでくれ て荷台後ろの荷物のと荷物んですかそこ にあの子 が寝かされてたというの かもうそれは本当に忘れられなかっ [音楽] た本当ね生きてくれてたらどんだけ頼りに なったらと思い ますどんどんどんどんこう圧迫されてって も意識が亡くなっていたんですねでその時 は気づかなかったんですけど全身にから その辺が刺さっててでも気づいたらあの どこかの病院のその簡易ベットのところで もう体が包帯でくれぐれでミイラみたいな 状態で看護師さんがあのお名前分かります かって言うてあの自分の名前を伝えてそれ で初めてあ生きてるんだっていうなんか あともっと行きたかった人がいてたのに なんか自分が生き残って良かったのかなっ ていうそれが あのごめんなさいあのそれを思い出して今 でもずっと辛いです ねえっとねま知合の方はちょっと神戸に おったんですけどねちょっとまえたんです けどね幼馴染の子なんですけどね やっぱりまもっとあっておけばよかったか なとやっぱりそれは後の後悔ですけど ね助かって欲しかったですねやっぱり1回 また飲みにとかも行きたかったかなって いう思いはありますねなんな忘れて行っ てるのがあるんですね29年目いうことで ねでも忘れてはいけないことかなと思うで はい 石川県の和島から来ましたさしましたはい 使えなければどういったああの前回です私 避難所にいたんです けどボランティアの方がもう炊き出し てその私の地区に死場所こう避難所あるん ですけどそこへ何回も何回もこう出して いいたんですそのあの団体から最終的にご 寄付いただいてえでもうそあれで感謝の 気持ちで来ました震災があって29年も こう続けていけるって一体背景に何がある んやろっての興味があって来たんですだ からもう実際自分は悲してるあの避難中に いるわけですからで何かあるやろとで分の でて自分の言でこれを持って帰っ ての復にやっぱなんか手助けできればいい なと思っ て私がお話を伺った当時明市で被災した 50代の男性は1.17のことを思い出し たくない とっていまし た ったした命友と仕事今何してると話すこと ができるとそういった場所になってると 話してくれまし たそして当時両親が被災したという60代 の男性は29年経って初めてこの場所に足 を運ぶことができたと言います近くを通る ことはあってもここ東遊園地に足を 踏み入れることが辛くてなかなかでき なかったと言いますここには人の思いが 集まってい ますこの思いを今自分が取り組んでいる 演劇演技を通して伝えていきたいとしてい ますまもなく午前5時46分です29年前 のあの時と同じ時刻を向えますをお知らせ し ます午前5時45分50秒をお知らせし ます午前5時46分ちょうどお知らせし ます 北斗 ます [音楽] なく [音楽] なさい 皆さん催した人たちの本当の辛さや苦しみ 金は当者にしかわかりませんおりしてえお 話させていただきますしかし願辛い状況の 中今被災地で起きていることを テレビやSNSなどを通して伝えてくれる 被災者の方々がいます私の挨拶を始めさし てそのおかげで私たちは今何が起こって いるこ何が起こっているかを知ることが でき ますそんな私たちがやるべきことは次に 備えることですえ震災の今回の自身を通し て今私たちがいる地域はどれだけの危険性 があるのか改めて見直すきっかけになり まし たそして関西に住む私たちのもう1つの 役割それは29年前の記憶や教訓をさず次 の世代に伝えていくということですをれ ましたにいは その そんな社会を実現するために今日ほど大切 な日はないとここに立ち ながら痛いほど感じまし た阪神淡路大震災 から29年 です神戸市の追悼会場かららまし生中継で お伝えしましたそのから 私と家の時計の張は止まりまし たはりまし たえ そ父があったんですがえま近も私要求する ので長の金子事長が私のことをえ父から ざけてさてまし た私 は18歳頃父 は孤していまし た父とはほとんど会話をすることはあり ません でしすいませ んその後兄は連絡はほとんど取っておら ず卒業後え金子事長の進めもあり大学に 進学しまし たその頃の私はすでに自分の中で家族との 繋がりを切っており私の心は何も感じなく なっていまし たそれは私がこれからの人生を自分1人の 力で生きていかなければいけないと 気づきそう決めたから です当時の私はとても怖かった です1人でこのまま人生が終わっていく ような気がしてそうはなりたくない怖さが 私の唯一のエネルギーでし た生きるためではなく死にたくないから 勉強をするトレーニングをするバトする そんな前にした自分で手にする何かを むしら に探していましたそうでないと不安で眠れ ないような毎日でしたそんな毎日を過ごし ていくうちに私は当時母料の職員であった 岡本先生から母の片と手紙を受け取りまし た手紙には震災の後に私と父とを引き離し てしまってごめんなさい 書かれていまし た母がよく私を膝の上に抱っこしていて私 はこの子がいるから大丈夫とよく言って くれていたと書いていまし た そして ま寂しい時は鏡を見て笑って ごちゃんの顔はお母さんにそっくりだよと 書かれていましたこの時私は初めて母に 愛されていたのだと実感できまし た私はその通り本先生に会うことができ ませんでした確かに先生の記憶を覚えて おりすごく自分にとっていい方だと感じて いたのですがどうしても自分の中で会う ことができなかったのです当時の私は 生きるためだけに必死で誰も私の心の中に 入ることができなかったのです大学では 自分の音となる先生と出会い息子のように 面倒を見ていただきました社会に出てから も仕事の意を超えて相談できる人たちも 増え本当に助けていただきました私はこの ような経験を経て初めて困った時に人に 素直に頼ることができまし た困った時に助けてほしいと素直に言える このことが私が人に感謝をするきっかけに なりまし た自分が助けていただいたからこそ人が 困った時に何かをしてあげたいと本当に 素直に思えるようになったのですこのよう な人間関係が本当に自分にとって大切だと 思い始めてきまし たそして私は3年前岡本先生から私に会い たいと手紙をいただきましたその時私は 岡本先生から今まで私のことを心配して もらっていることに初めて気がつきました そして心から岡先生に会いたいと思いまし た先生と再開すると本当に自分のことを 心配してくれており自分にとって大切な方 だと実感できましたそして震災当時自分が 住んでいた地域のことを教えてくれました 私は自分の家族のルーツを探し始めました その途中でも多くの戦々と出会いがあり 初めて自分の親戚に会うことができました 親戚に私にはもう1人の義父の兄がいると 知らされまし たもう1人の井の兄とも会いまし た井の兄は私の母のお墓に連れて行って くれまし た岡本先生はずっと私の実の兄のことも 心配してくれており兄のことについても話 をしてくれました兄は私に今まで何をして あげられなかったことに対して責任を責任 を感じており今更どのような顔をして会え ばいいかわからないと自分 は兄として私に会う資格がないと泣き ながら岡本先生に電話をしたそう です私は人に感謝をすることを感じて生活 していくうちに震災がって兄が苦労した ことも自然と分かるようになってきまし た兄も実の母を なくし悲しい中あまり育が得意でない父と 一緒に暮らしていて苦労をして当たり前 だったと思うようにまし たそんな中でも私に対して責任をずっと 感じて今まで生きてきたのだと思いました 私は兄に会いたいと思いましたそれは兄に 幸せで生きていほしいと伝えたいから です私に何もできなかっことを食いて生き てほしくはないを張って幸せに生きて ほしいこれは私からしか兄に伝えることは できないと思いました私は兄の居場所を 探し始めまし たそして多くの方の情報提供のおかげで兄 の居場所が分かりました私は兄に会いに 行く前に金長に相談しました金長は言い ましたの中で抜けている家族の時間を 埋めることはこれからの自分の人生を豊か にして くれる今の自分なら困った時に頼れる人も いるから自信を持って愛に行ってきなさい とこの言葉に本当に励まされまし た私は11月末頃に兄と再開しまし た私が兄にに伝えたかったメッセージを 伝えることができまし た兄は会いに来てくれて本当にありがとう と言ってくれました兄はとても優しく責任 感の強い方でし た今日1月17日私は初めて兄と一緒に母 の墓参りに行きます 29年 [音楽] 前とま止まった私の家族の時間が今日 やっと動き始め ますここまで私が生きてこられたのは本当 に多くの方に支えられ おになったからです今まで29年間私を 見守ってくれ た実業学院の金長おはめ職員の方々先輩や お本当にありがとうござい ます今まで私と兄のことを心配してくれた 岡本先生本当にありがとうござい ます私を息子のようにありお世になった 茂野先生ありがとうござい ます私の兄を住所を探すのにご協力 いただいた川社長ありがとうござい ますその他にも本当にここで名前をあげる ことはできませんが本当にたくさんの多く の方にお世話になりまし たよく聞かれることがありますあの時震災 がなかったらどうなっていたかと 私は震災で大切な母を失いましたしかし 震災の後に多くの素晴らしい方々に出会い 本当に支えてこられてきたことも事実です 私は今の自分がすごく好きですそれは自分 の人生で何が大切かを本当に心から感じる ことができているからです周りに支れて くれる人たちがいるそしてその人たちに 感謝をして何か少しでも恩返しをしていく 私にできることは何か自分が経験した震災 のことを伝えて1人でも誰かの役に立て たらと思い今日この場に立たせていただき ました皆さんこのお寒い中本当に私のお話 を聞いていただきありがとございまし た鈴木さんありがとうございまし た続きまして本戸より一言申し上げ ます阪神淡路第戦災から29年を迎えた 今年の元日石川県野半島で最大震度7の 大地震が発生しました地震により亡くなら れた方々に心より愛刀のを表しますととも に被災された方々にお見舞いを申し上げ ます神戸氏として阪神淡路大震災の経験や 脳波を生かし全力で支援活動を展開して まり ます阪神淡路大震災から29年の月が流れ ました改めて震災により亡くなられた方々 に心より愛の意を表し ます歳月が流れえ震災を経験していない 市民が増えていく中震災から得られた経験 や教訓を風化させることなく次の世代に 継承していくことが求められています神戸 市は市民の皆様のを得てへの支援を行い ながら震災の記憶を伝えていき ます震災の時私たちは国内外から多くの 支援をいただき市民の力でこを果たすこと ができましたその感謝の気持ちを忘れる ことなく防災減災健康安全などの分野で他 の都市や地域に貢献する都市であり続け ます そして進化しけるテクノロジーも有効に 活用し災害に強い強靭な土作りを進めて まいります最後になりましたが今日の集い に参加いただきました全ての皆様に感謝を 申し上げつとの言葉といたし ます長ありがとうございました続きまして 安会議長より一言申し上げ ます阪神淡路大震災によりお亡くなりに なられた方々に心より愛東の意を捧げます また先日発生をいたしましたの半島自身に よりお亡くなりになられました方々のご 明服をお祈り申し上げますととに支された 方々にお見舞いを申し上げ ます29年前にこの町を沿った阪神淡路大 震災は町を破壊し多くの人が犠牲になり ました夢や希望が奪われ町全体が悲し深い 悲しみに包まれましたが私たちは瓦礫の中 から立ち上がり一歩ずつ前に進んでいく ことを誓いましたその中で私たちは改めて 人と人の絆の大切さを学びまし た今野半島を中心とした北陸の地にも 私たちがかつて経験したような悲しみに 包まれている人がいます残念ながら大事神 と いうな自然の力から私たちは逃れることは できませ んしかし大震災を経験した私たちはその 経験を石として災した人々に寄り添い絆を 結びながらしっかりと支えていくことが できます北陸の復興のため私たちは共に前 を向いて進んでいきたいと思い ます今年は震災から30年となる節目に なります私たちは神戸の町を震災で犠牲に なった方々も安心していただけるまで復興 させることができましたこれからは震災を 知らない世代の人たちが神戸の未来を想像 していく時代であります老が作り出す言葉 のように夢や希望に溢れる神戸の町を若い 人たちと共に作っていきたいと思います 犠牲になった方々の見の安らかならんこと をお祈り申し上げ追悼の言葉といたし ますありがとうございましたこの後はお 集まりの皆様それぞれの思いとともにお 過ごし ください 神戸 あ

1995年1月17日、6434人が犠牲となった「阪神・淡路大震災」が起きました。発生から29年となる2024年1月17日、神戸市の東遊園地で行われる追悼式典「1.17のつどい」の模様をライブ配信いたします。

1.17のつどい実行委員会は、追悼の灯篭の文字を「ともに」と決定しました。今年起きた能登半島地震などを受けて「共に助け合おう」という思いも込められています。

未明から、並べられた約3000枚の紙灯篭に灯りがともされ、「ともに」の文字が浮かび上がることになります。そして地震が発生した午前5時46分に追悼の祈りが捧げられます。

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16 Comments

  1. 厳寒の大地震❣️,本当に
    言葉ではいい尽くせないあれから29年大好きな神戸❤️❤️❤️🎶幸せな日々を切に願う
    長野県上田市合唱団員🙎🏻‍♀️

  2. 追伸
    🎶しあわせ運べるように長野県上田市合唱団員🎵🎹🎼🎤🎤🎹🎼🙎🏻‍♀️

  3. 自分達の事ばかり、弔ってどうするの?能登半島の亡くなられた方々の分も弔って下さい😢
    お願いします🙏

  4. 亡くなった方々、空からこのともにを見てるのかなぁ‥。母から震災の怖さを一番最初に聞いた子どもの頃。絶対に忘れないです、その教訓で宮城の震災を助けられました。ありがとう伝えてくれて。ともに歩みましょう。仲間が一緒にいますから

  5. 自分が大学生活を過ごした神戸大周辺の街並みと店舗。あの時、思い出が消え去った。まあ30年も建てば大学校舎も含め変わってしまってますが。この震災後のボランティア参加以後神戸には行ってません。悲しいのは能登被災後の対策状況。これだけの犠牲と経験をこの国はしたのに、東日本熊本と経験したのに国も自治体も個人レベルですらあの地震まみれの環境ですら何も注意していない人間の愚かさは自分がどれだけ準備しても変えって襲われる未来しか見えない

  6. 神戸に4年住んでました。震災の頃は神戸からは離れていたのですが 移しだす映像にショック💔だったの昨日のように思い浮かびます。今日は鎮魂の日。

  7. 過去に地震にあった者です。水・食料もだけど、情報が何処で手に入るか?に皆さん特にイライラし出します。そして、国等は後手後手(災害タイプがそれぞれ違う)なので、アテに出来ないなーと思いました。アプリで、個人を入力して給付金情報(勿論スマホ申請)、支援物資場所・中身情報、短期移住情報、2年後支援希望情報などあったらいいなーとあの日から反芻しています。津波でスマホは流されるじゃないか!などは災害前に考える事です。事前に顔認証、指紋認証を登録する。顔が腫れた人、腕が失くなった人は1同居家族が認証する、2別居家族が認証する、3市役所の知り合いに認証する、4近所の方2人に認証する。確か原爆認定にモデルがあったのではないでしょうか?アプリでするなら国が2年間はスマホを提供しないといけないでしょうね。因みに、上記に関して詐欺行為は禁錮100年、仮出獄なしの法律も併せて作る。そしたら、市役所の方も24時間勤務しなくて済むし、デマも飛びにくくなるし(詐欺行為なんで、😅)、被災者も夜中に目が覚めて眠れなくなってもスマホに現状、未来か時系列で載っているので可視化されると感情的にまだツラくないと思います。

  8. 近年の大きな地震災害地は自分の記憶だけでも 神戸、岩手、熊本、北海道、大阪北部、石川と
    30年で六か所にのぼるのに、毎回何も変わらない。
    政治家と官僚が被災予防対策を怠っているというべき。
    老朽化した水道とガス管の更新、電柱の埋設、崖沿いの国道の付け替え等、予算をつけて大急ぎでやらないといけない公共事業が山ほどあるのに
    スパコンやら宇宙開発やら戦闘機開発やら後回しでいいことに多額の税金をつぎ込んでキックバックで私腹を肥やしている。
    震災を伝えることも大事だが、我々はもっと政治と向き合うべきだ。

  9. 当時2歳11 ヶ月、母が臨月のため、灘区六甲道から尼崎市武庫之荘の祖父母に預けられていました。六甲道にいたら死んでいたかも。早朝のあの揺れ、祖母に抱きつきました。今でもハッキリおぼえています。

  10. もう29年なんやなぁ😢ハッキリ クッキリ 覚えてるわぁ 夜勤中の職場で見た😅大阪も 明け方かなりの揺れと 薄暗い空が 青白く光 道が クネクネ 建物が ガタガタ 夜が明けたら 大変なことに😢 帰宅までの道も 今まで経験の無い渋滞 あの時の事は わすれらない

  11. 当時、小学5年生。
    あの朝ほど、日は登るという当たり前の事に感動した日はありません。

  12. 39:21 聴きに来ました。強く生きてくれて嬉しい。無理せずお身体大切にしてください。

  13. 私は被災者です
    目の前に迫る炎、人々の悲鳴、斜めに倒れた電柱、崩れた家屋…そして落ち着いた日々になるにつれ知らされる友人知人の死、29年経ってもあの惨劇や辛く悲しい思いは消えません(我が家は全壊で私も頭部に怪我を負いました)