#プロレス #ジャイアント馬場 #アントニオ猪木
燃える闘魂・アントニオ猪木。
その功績、また数々のトラブルも含めて、
多くのプロレスファンに愛された、新日本プロレスの創設者。
その偉大なるアントニオ猪木を、馬場派チャンネルの管理人目線で語ります。
【管理人の特徴】
◆1992年からプロレスを見始める45歳(2024年現在)。
◆現在も「90年代の全日本プロレス」の箱推し。
◆現在も全日四天王&闘魂三銃士への愛着が衰えない。
◆ジャイアント馬場の地元・新潟県三条市在住。
【管理人ゴクの自己紹介動画】
“ベストバウト”管理人ゴクへの20の質問“好きな入場曲”など
【電子書籍】
著書:昭和53年生まれによるプロレスの思い出1~5巻(https://www.amazon.co.jp/dp/B09PG11266?binding=kindle_edition&ref=dbs_dp_rwt_sb_pc_tukn)
※カテゴリー別売上ランキング1位著者
※Kindle Unlimited会員様は無料で全巻お読みいただけます
※ご協力:株式会社H.J.T.Production様

44 Comments
全日ファン特に天龍SWS移籍後になった全日ファンが語るのは興味深かったです。
猪木さんの奥さんは女優の倍賞美津子さんで馬場さんの奥さん元子さんとは対照的ですね。
猪木さんもいいけど今度は馬場さんと仲良しだった坂口征二さんについても語ってほしいです。
最後におっしゃてたように、知ったタイミング、見た時期、ハマった時代、色々あるから一概に言えないし、正解も無い。自分たちの中で納得し、それが出来るのがプロレスだったりしますからね。冒頭にあったホントは仲良かったと、解釈できちゃうのもまたプロレス。奥深いです…
まあ、お二人はみなさんが何となく思っている通りの関係でしょうね。
馬場さんは別に猪木さんのことは嫌いではなく、むしろ仲良くしたい。
でも猪木さんは強烈なライバル意識を持っている。
猪木さんはみんなの前では馬場さんに牙を剥いたりしない。
老舗の味を守る馬場さんと新しい味を求め続ける猪木さん。
主義主張が交わることはない。
月並みだけど「永遠のライバル」だ。
後輩を守れなかった先輩…という視点は目からウロコでした😲この点でもゴクさんはまさに馬場さんファン第一人者ですよ😊僕がどちらかというといじられキャラで人生を歩んできたので😅ゴクさんの温かい人柄に触れた思いです🥹
僕は保育園年長組だった1981年にプロレスに初めて触れて、それ以来…というプヲタですが、僕にとってはBIのお二人はいわばプロレスの両親かと。つまり物心ついた時にはこのお二人がそれぞれの団体のリング内外両方でトップで、このお二人がいるからこそプロレスというジャンルが成り立っているという刷り込みが小さい頃からあったので、馬場さんも猪木さんもプロレスそのものも大好き…という思いですね(一緒にプロレスを観ていた今は亡き父や兄もそういうタイプだったのでその影響もあるも)。
なにせ、猪木さんが初めて参議院選挙に出馬した時、当時まだ僕は選挙権がなかったので家族にスポーツ平和党に投票するように懇願したくらいですから😅
昔、ジャイアント・サービスのTシャツを着て街を歩いていると、前方からあのライオン・マークの赤白Tシャツを着た美女が歩いてきた。すれ違う際、それはもう、凄まじい限りの殺気を感じたものだ。本当にあの時代、両団体のファンは、「何かあったらやってやる」くらいの気持ちで過ごしていたものだ。俺たち全日ファンは、猪木さんからのイヤ〜な発言、親日ファンからの冷ややかな視線に悩まされ、ホント辛かった。馬場さん没後20年記念興行に猪木さんが来てくれて、やっとあの戦争は終わった。 とは言え、俺はアントニオ猪木という男、あの生き方も大好きだった。同じAB型として。猪木 VSアリ戦の時、渋谷の街に貼られていたポスターを観て、小学生の俺は猪木さんの瞳に「男のロマン」を感じ、惚れたものだ。 だけど俺は、馬場さんをずーっと信じてきた。 国際も大好きだったけれど。 いい時代を、楽しませてもらいました!
今頃はお浄土で談笑しておられるでしょう。アントニオ猪木さんが病床から三途の川を渡ろうとすると、馬場さんが立ち塞がり行かせてくれないとドキュメンタリーで語っておられましたな。師匠力道山氏についてはお2人共馬場さんは人間として何1つ良い所のない人、猪木さんも毎日殴られて毎日がワイドショーだったと語っておられましたね。😅
馬場全日本と猪木新日本
時代劇と特撮、老舗とチェーン店、商店街とショッピングモール(笑)って感じで同じ事をやってるんだけど、似て非なるもので✋日本人って派手で新しいが好きだから、目立つのは新日本なんですよね
でも全日本の王道って無くてはならなかったし、社会人として雇われたいのは馬場さんですよ😂
お二人だけの関係でいえば旧友であり、戦友なんでしょうね。
従来のプロレス界を守った馬場さん、外に向かって世間と戦った猪木さん、そんな感じです。
新日信者の各種選民思想がとにかく鬱陶しかったです。新日本旗揚げの70年代と言えば左翼活動家の体制批判が社会全体、特にマスコミにまん延してましたからそのノリでしたね。
保守であり体制派の馬場、革新であり反体制派の猪木、こんなレッテル貼りばかりでした。
馬場さんも対立構造にのっかてた感じもしましたね。
完全に覚めて見てたのが鶴田さんかな。業界から距離を置いてた感じ。
猪木がプロレスに入って11年で団体を立ち上げている
力道山はプロレスの世界に入って13年で亡くなる
馬場も12年で団体を立ち上げ
それまでの時間は短いけど様々な動きがあったそれより後の期間の方が長いのだけど
もっとなだらかな動きのような気がする
私はアリ戦の時代からのプロレス観戦ですけれども
それでも馬場猪木両方を見てました
熱狂的に見ていた人たちからしたら言われてしまうかもしれませんがプロレスは様式美つまり歌舞伎と同じ世界なんだと
若いころから思ってました だって実際はレスラーより非力で小さい人相手でもナイフには勝てない事実がありますから
力道山 公演中の猪木 恋人との棚橋 ああ対応からしたら棚橋が一番強いんだな
御大派としては私も昔は猪木さんの挑発がある度に嫌な思いをしその挑発には乗らない御大に何故?いかないんだ~なんて複雑な思いを持ちながら大きくなりました。
また伝説の90年2月10日は猪木さんの団体を助けるといった御大を見て懐の大きさを感じました。(やり取りは坂口さんとの関係で実現したようでゲスト出場の猪木さんは絡んでませんでしたが。)
その後の関係については諸説ありますが互いが独立してテレビ局のバックアップを受けながら「プロレス」を守り維持するためには外部的には対立のストーリー作りを行いライバル団体としてプロレスを盛り上げ対立しながら生きるも自分の弟子達や対抗軸がタケノコのように出てきて、出過ぎた時や自分たちの領域に入ってきた時はそれを潰すために協力し合える関係で二人がプロレス界の最後の砦だったかなと思っています。(御大亡きあとは猪木さんの暴走のように感じましたが。)
結局はいろいろありましたが「兄弟」か「戦友」だったのかなぁと思いますしこれは夢物語ですが力道山門下生で地面に大量の汗が溜まるスクワットを行い、同じ釜の飯を食った仲間として御大と猪木さんに昔をゆっくり笑顔で語り合って欲しかったですね。
あと私も98年5月1日東京ドームに猪木さんが来ていたことは最近知りましたが御大が同年4月の猪木さん引退の際にメッセージを作成をされていたのもあったようでしたがこれは会場で流れて欲しかったですね。流れていれば感動シーンがさらに増えたかと思うのですが。実際にはどうだったのですかね?ぜひ、いつかゴクさんのご尽力で答えが出るときを楽しみにしております。
2人で会っているときは馬場正平と猪木寛至のままだったんだろうなと思いますね。
ゴクさん採用ありがとうございました🎉スゴくうれしいです😂 ゴクさんの仰る「守ってあげられなかった…。」これは僕はみていなかったです💦「やんちゃな弟を」的なのかなぁとはも思っていましたが😌一歩踏み込んだゴクさんの見方✨なるほどと思いました😊
「敵として楽しませてくれた存在」まさにそれですね!共存共栄するわけではなく、馬場さんをライバル視する猪木さん。全日本が上がれば新日本が、また、逆に新日本が上がれば全日本が…。でも、決してなくなることなく切磋琢磨することで両団体が存在していたと思います😌90年代に入り「馬場🆚猪木」の色より「全日本🆚新日本」の色合いが濃くなり我々がドハマりした時代になるわけですがやはり「馬場🆚猪木」の影はありましたよね✨
ゴクさんの「敵として楽しませてくれた存在」すっ~と胸落ちしました😌
例の企画、是非やりましょう👍️
最後に、ゴクさんは間違いなく「馬場第一人者」ですよ‼️
いつからプロレスを観てきたかは大きく影響しますね。
1975年からゴールデンタイムで全日も新日も観てきた私には、馬場と猪木は利害関係があり、何でもするのだなあと感じていました。
しかし毎年年始の東京スポーツの表彰式で両者が仲良く写っている姿を見ると、プロレスの発展のために盛り上げてくれていると思うようになり、どちら派でもなくなりました。
猪木さんはリング内外でネタが尽きない人でしたね。でも努力家でした。ゴクさんもご承知ですが馬場さんはスポーツ万能で猪木さんは砲丸投げが得意なぐらいの少年時代。努力が必要だったんでしょうね。私は子どもの頃に猪木さんの対ホーガン戦やスティーヴウィリアムズ戦の失神、前田さんから逃げるなどネガティブ猪木さんを見ていたので信者にはならなかったです。猪木対馬場は夢で良いと思いますが、猪木さんは馬場さんに若手時代に勝てなかったから本人は1勝はしたいと思っていたと思いますが。
いつだったかなぁ~。三沢選手が全日の社長になった時だったかなぁ~。何かのインタビューで「馬場さんが嫌いな人は、俺たちも嫌いってこと。」なんて言っていた事があって、僕は「三沢選手はやっぱり猪木が嫌いなんだな~。」って感じた自分の記憶を覚えています。
僕は「1,2,3ファイヤー!」を使ってました。これもきっとアレルギーだと思います。
ちなみに僕は1965年生まれです。
猪木さんの言で、周りの人が知らないだけで、結局相手の事はお互いが1番よく知っているんですよ。と言われていたようです。馬場さんが亡くなる前年に猪木さんと最後の対面をされて馬場さんから(お前はいいよなあ)と言われ、猪木さんはこの言葉が忘れられないと言っていたそうです。猪木さんは馬場さんの没20年追善興行に登場されて、ずっとリングに上がらずに挨拶されて、馬場さんから最後に来た手紙に(三途の川で待っている)と書かれてあったそうです。リングに上がると挑戦状を受けたことになるので、今日は下からで、、、と。猪木さんが何故ずっとリングに上がらなかったかと言うと(会長の馬場さんへの敬意です)と仰っていたそうです。
本当にお2人にしか分からない深い関係性があったんでしょうね。
私見ですが猪木は馬場さんをライバル視していたが馬場さんは弟分としか見ていなかったのかと。会社社長同士トップレスラー同士立場上ファンも2トップライバルの方がプロレス界も盛り上がりるし馬場さんは内心猪木の事を信頼してないまでもリスペクトしてたと思います。猪木信者からしたら。何で馬場信者は上から目線😠と思われますが😂80年代前半は馬場さんも猪木もまだ現役バリバリ(死語😅)でカッコ良かった~☺️馬場さん6猪木4ぐらいで。
1960年3月に力道山道場で馬場と猪木が同時入門。
日本のプロレス界にとってこれ以上の奇跡はなかった。
そこから40年弱も2人の対立構造を軸にプロレス界が発展。
日本プロレス界の源流にいるのが力動山、馬場、猪木である。
2001年以降、新日本は猪木暗黒時代を迎え2005年に身売りとなった。
猪木がここまで暴走してしまったのはブレーキとなる馬場がいなかったからだろう。
プロレスに限らず見始めたた時期って凄い影響受けますよね。これ前にも言った記憶あるけど長州力からプロレスにハマったからどうしても全日よりは新日応援してたし。で90年代でいえばNWOはめっちゃ応援してたりし
でも四天王プロレスも実は録画して見てたりとか〜
結局90年代が一番プロレスにハマった時期だったって言いたいわけであります。
大変興味深く見させていただきました。
誰もが知る通り、猪木さんは偉大な伝説を作り続けてきた人ですが、猪木さんがあそこまでやったのは馬場さんの存在があったからであり、馬場さんもまた猪木さんがいたからこそ、王道プロレスを守り抜いてきたのだと思います。
やはり猪木さん馬場さんは時代の合わせ鏡、どちらが欠けても昭和平成の日本のプロレス史はなかったと思います。
馬場さんは自分自身がライバルなのであえてライバル無しと書いたんでしょうね…
猪木さんが自身のYouTubeで馬場さんとの思い出を語らなかったのはプロレスラーアントニオ猪木として馬場さんを永遠の宿敵として、という姿を貫きたかったのかな、と勝手に思っています。
ゴクさん、こんばんは。猪木さんかぁ…。と思いながら拝見してました。全日本は勿論、新日本も観てましたが、猪木さんはすぐトラブルを起こす人だと思っていました。問題を起こす人。自分の思いどうりにならないと気が収まらないというかね。だからあまり好きでは無かったですね。新日本のレスラーの皆さんは大変だったと思います。新日本の選手も他団体を下に見ている態度でしたし…。そういうのを感じていたので観てましたが感情移入できなかったですね。全日本はすぐにファンになってしまいましたが…。当時馬場さんと猪木さんの人柄の違いがファンになるかならないかと言う所がありましたね。本当の猪木さんは違うかもしれませんがテレビて観ている感じではそうでしたね。昔も今も新日本の選手に他団体に対するリスペクトがあまり感じられない様に見受けられます。今でもネットでプロレスを観ています。全日本とNOAHを観る事があります。新日本もたまに…。もし馬場さんがいなければ何十年もプロレスを観ていないでしょうね。でも猪木さんと馬場さんがいなければ、日本のプロレスはここまでになっていなかったでしょうね。良くも悪くもアントニオ猪木という存在は貴重な人だったと思っています。長いコメントですみません。ごめんなさい。ではまた
私は60年代後半からプロレスを見ています。
当時(小学校高学年)、プロレス技のかけ合いを盛んにやっていました。
その結果、猪木の得意技については、
コブラツイスト=ほとんど痛くない
卍がため=相手が協力してくれないと技が完成しない
そして、猪木の得意技で一番痛かったのは、つなぎ技のインディアンデスロックという結論になっていました。
(インディアンデスロックが決まれば、みんな即ギブアップ!)
それに対して、馬場さんの最強技として子供同士で認めたのは、ランニングネックブリーカードロップ。
対ドリー・ファンク・ジュニアNWA戦が初出しで、あの時は衝撃的でした。
(この技と16文キックやヤシの実割りなどは、子供ルールでは危険につき禁じ手!)
でもまあ、今思えば、東京プロレスの失敗やら、アリ戦の大赤字やら、無茶な事業投資の破綻やらで、猪木氏の人生は壮絶なものだったのだろうな、と拝察するところです。
まあ、いまでこそ亡くなって後なんで猪木さんの良いイメージばかり浮かんできますが、しかし、実際猪木は問題ばかり起こして、周りはめちゃくちゃ振り回されましたから、良いことばかりではありません。全部ひっくるめて猪木さんのファンです。
いつも楽しく拝見していま〜す。
記憶無いけど'78年ぐらいから、爺ちゃん婆ちゃんとプロレスを観てきて、馬場さん・猪木さんに感じているのは「凹と凸」という事です。ちなみにどちらのプロレスも好きですが、どちらかと言うと猪木派かも。
馬場さんは、周りからけしかけられても、勧められても「いや、オレは…」と、絶対に前に進まないどころか、常に一歩引いて、自分の味方や部下たちをコントロールし、監督していたように思います。
猪木さんは、周りが止めても何しても、「いや、オレが…」と、真っ先に歩を進め、常に一番乗りして、ときに自分の味方や部下を犠牲にしてでも、強力な自我という炎を燃やしていたように思います。
「オレは…」と「オレが…」の違い、それが私の思う「凹と凸」、馬場と猪木論であります。
※物まねによる高評価のお願い、ちょっとズルいけど好きです(笑)。特権ですね!
今の時代と違いテレビ局同士が、バチバチにやりあっていた。然れば、馬場と猪木は対立構造を゙世間に見せざるを゙得なかったと思います。
1967年~1971年、日本プロレスで馬場、猪木がインター・タッグ選手権で組んでた頃が最高だった。それと新日本初期の猪木対小林、猪木対大木は最高だった。馬場、猪木の全盛期を見た者は、そのあとは全て霞んでしまう。😮
ゴクさんの馬場さんのモノマネ、よく聞くと刑事コロンボの吹き替えの声にも似ているかも(笑)
全然本編と関係ないですね。スミマセン💦
私はアラカン50年プロレスを見てきました。最後に馬場会長、猪木社長として一つの会社になると予想していました。しかしプロレスラーや社員を考えて生きる馬場さんと、自身が最優先の猪木さんとでは無理だったみたいで…大試合で100点、普段50点の馬場さんの試合と常に80点の猪木さんの試合は好きずきかなと。ただ猪木ファンの方が多いのはスタイルや反骨精神が好きな日本人好みかなと思います。私は馬場派、猪木大嫌い派でプロレス見てきました。しかし結局、二人がいなくなると紙芝居やサーカスの様に寂しくなっていってしまって今は全く見ていません。長くなりました、この辺りで(^^)
猪木さんのプロレスだけでは盛り上がらなかったと思いますし、馬場さんのプロレスだけでも盛り上がらなかったと思います。猪木さんは身体がそんなに大きい方ではなかったのて大型外人レスラーの技の受けをコンプリートできなかったので攻めの姿勢だったと思います。しかし、日本プロレス後期、新日本プロレス創生期は受けと技のプロレスをしてました。新日本プロレスのレスラーは相手を真正面から受けない、受けることをしないレスラーが多いです。長州力さんが全日本に上がった時にそれがあからさまになりました。全日本プロレスは馬場さんの教育から鶴田さん、天龍さんはそれができます。また、身体が大きくない三沢さん、川田さん、小橋さんがしっかりと大型レスラーを真正面から受けるプロレスができたことは馬場さんの描くプロレスが完成したと思います。しっかり受けてしっかり攻めること繰り返しフィニッシュに持っていくのがプロレスですね。
私はタイガーマスクからプロレスにのめり込みましたが、タイガーの引退やIWGP優勝戦での猪木舌出し事件などで新日からだんだん気持ちが離れました。
その一方でハーリー・レイスに奪われたPWFベルトをセントルイスで奪い返した時の試合に出した鮮やかなジャンピングネックブリーカードロップに感動して馬場派に鞍替えしてしまいましたw
猪木さんはとにかく派手な打ち上げ花火が大好きで凄いこと仕掛けるも結果はがっかりするものが多いので余計に気持ちが離れました。
馬場さんは派手な打ち上げ花火はないけど普通に堅実にプロレス興行してるという感じでしょうか。
私も80年代後半~90年代の全日が最高のプロレスだと思ってますのでゴクさんの動画を楽しく拝見させていただいています。
若手時代の馬場さんが猪木を守ってやれなかったという引け目は無かったと思いますよ。
馬場さんは右も左もわからないアメリカに武者修行に出されて苦労してスターに登り詰めたのです。優遇されたとは思っていないと思います。
対抗戦とかやったら、一時期は盛り上がるかもしれませんが、いずれはどちらかの団体が潰れてしまう。それだとプロレス界自体が危なくなる。だから安易に闘えない。猪木さんは、それを知っていたから(もちろん馬場さんも)交わらずに、言葉や企画で馬場さんとプロレスをしていたんじゃないかな、と勝手に思っています。
馬場猪木は、日本プロレスの後期にはお互い馬場派、猪木派を抱えていて、ちよっと正常な関係にはなれなかったですね。それと猪木は常に「道場では自分の方が強かった」「実力では自分が上」という自負は譲らなかったです。
自分は1969年からの馬場ファンですが、年を追って猪木がレスラー的に充実していくのはわかりました。1972年に新日本、全日本に分かれた時点で馬場34歳、猪木29歳。5歳若い猪木がだんだん試合内容で追い越したんじゃないかな。馬場のプロレスを否定する猪木は嫌いだったが、内容は認めざるを得なかったです。
そしていつしか、猪木の存在が馬場を刺激していく部分もあったと思います。「ハンセンは猪木とだから名勝負ができた。馬場では無理だ」という声の中、ハンセン戦で猪木以上の名勝負をやった。あれは猪木への意地だったと思います。
馬場さんは大会場で見ても身体が大きく見える選手で、逆に猪木は大会場で見ても指先の動きが伝わる人でした。対照的でしたね。
ただどうしても猪木の「馬場より強い」発言だけは気になってしまう。僕の見るところ、74年以降は猪木の勝ち。70年から73年の間は引き分け。69年以前は馬場の勝ちだったと思いますw
自分が90年代のオールジャパンを好きになったのは、レスラーなのに派手なアピールやマイクアピールをしなくて、大きな事を言ったりしないで試合だけで魅せる三沢さん達を見たからです。
レスラーっぽくなくてとても新鮮でした。
男は黙って勝負をするというのが好きでした。
アントニオとは真逆ですよね。
レスラーっぽくないと言ったら語弊があるかもしれませんが、それが好きでした。
三沢さんは入場の時もアピールしませんでしたね。
でもドームの時だけは腕を上げてガッツポーズをしてました。
ノアになってからは対抗戦の時もやってましたね。
でもその後にノーフィアーが出てきた時も、オールジャパンでは新鮮なキャラで応援しましたね。
やっぱり刺激も少しは必要なんですね
動画にもあるが、アントニオ猪木は、『当然プロレスの味方です』という村松友視氏の本で、デビュー戦のマッチメークに対する不満を述べていた。
曰く、ジャイアント馬場には、誰でも勝てる桂浜(田中米太郎)をあてて、自分(アントニオ猪木)には、絶対勝てない先輩の大木金太郎をあてて差をつけたと。
しかし、『史論ー力道山道場三羽烏』(辰巳出版)によると、桂浜は当時、序列的には決して最弱ではなく、一応大木金太郎には勝っていた。
そして、大木金太郎は、実はそのアントニオ猪木戦が初勝利だったという。
つまり、マッチメークは、アントニオ猪木の言い分とは真逆で、むしろジャイアント馬場の方に、より「格上」のレスラーをぶつけていたことになる。
もちろん、桂浜には脅威も伸びしろもなく、一方の大木金太郎は、後輩に負けてなるものかと初勝利目指して必死に向かってくることはわかるので、大木金太郎のほうが厄介な対戦相手に見えるというのはわからないではない。
しかし、そうであったとしても、アントニオ猪木が言う「絶対勝てない大木金太郎」というのは、当時未勝利の対戦相手に対して、ちょっとばかり盛った言い方ではないだろうか。
レスラーの言うことを真に受けるファンタジーも楽しいが、冷静に聞けば、すでにこんなところからもセルフプロデュースが始まっているんだな、ということがわかった。
ゴクさん、いかがですか。
今思えば両巨頭が健在だった時期を味わえてよかったですよ。全盛期には間に合わなかったですけど。エリートコースとたたき上げ、このお二人は同じ時代に期待の若手が二人現れたときの育て方のモデルになったように思えますね。団体の長としても、似ても似つかない路線を往くことで絶妙なバランスで並び立つのがベストだと腹の中では思ってたんじゃないでしょうか。昔は「なんでコーナーマットの形も場外カウントの数もフェンスアウトの有無も違うんだろう」って思ってたもんですが、熱心ではない視聴者が今どっちを観ているのかわかるようにしとかないといけなかったんでしょうね。
昭和40年代後半のパワーズとかシンとかクラップとかバーナードとかマクガイヤー兄弟と闘っていた頃からの猪木信者でした。全日も土曜日の夕方から観てました。女子プロも土曜日の夕方やっていて、「こーのーやーろーおー!!!!」と叫び、技も「逆ブレーンバスター」とかやったり、ドロップキックも何連発もやっていて「もしかしたら猪木より女子プロの方が強いのか?」と思った事があります。新日と全日の決定的な違いは猪木さんがやっていた「異種格闘技戦」で特に昭和52年8月2日の日本武道館の「猪木vsモンスターマン」戦でモンスターマンはマーシャルアーツの選手ですが舟橋アナは「全米プロ空手」と紹介しました。当時小学生だった私は近所でやってる道着を着た空手はアマチュアでプロになるとグローブをするのだ。と誤解して私も猪木と戦ったモンスターマンに憧れました。最終的には私は大学から空手をやり、オッサンになってニュージーランドまで試合をしにいきました🤣🤣🤣🤣🤣
皆さん、ちょっと待ってください!
お一人お一人、この動画へのコメントが濃すぎます(笑)
1990年から見始めた私からすれば
ちゃんと見始めたアントニオ猪木は2,10のドームが最初でセミリタイヤ状態
“過去の象徴”みたいなイメージ
からのスタートでした
土曜日夕方のワールドプロレスリング
日曜日深夜の全日本プロレス中継
当時小3だったので新日から入りざるをえない…
◯◯信者はいかようにもなるだろうな~
と思います
自分も、主さんと同じ感じで80年代の新日本は比較的冷めた目で見ていた全日本派(天龍同盟派)でした。周りは猪木さんや長州さん、タイガー(初代)好きのプヲタばかりで、肩身狭かったですけど笑
猪木さんの21世紀初頭の「暴走」は、馬場さんがご存命なら恐らく無かったと思います。「寛ちゃん、これくらいにしとけよ」って助言があったはずで、馬場さんの声にならちゃんと耳に傾けるくらいの信頼度は、猪木さんにもあるでしょうから。
「わがままで自己中な弟分」の猪木さんに、馬場さんは散々振り回されたはずですが、何処かで猪木さんの自由奔放な生き方を羨ましく思うとこもあったのかも、とは感じます。人間のタイプは真反対ですから。ただ、だからこそ日本のプロレスが繁栄したのだろうとも。
この2人の関係が良かったなぁと思うのは同じプロレスとは思えない方向性やロープの戻り方さえも馬場全日とやり方変えたり全くスタイルが違うやり方があえてファンが熱気した要因の一つでもあるのかなと感じます。逆に今盛り上がってない要因の一つでもあるのかなって感じます。大仁田が「馬場さんと猪木さんと同じような事をしても勝てるわけない。だから痛みの分かりやすいデスマッチを提案した。」今これが必要だと思います。
本題に関係無い話で申し訳ありませんが、選手名鑑のライバル欄にずっと渕選手の名前を載せ続けていた元ジャパンプロの新日の某選手がいました(笑)