今日の話題は
日本史の謎 鎌倉時代【二人はなぜ対立したのか】源義経VS源頼朝 悲劇のヒーロー 源義経の生涯を徹底解説 をお伝えします。

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#日本史の謎 #歴史

14 Comments

  1. 頼朝はひどいって信じてましたけど、義経が頼朝のこれからの政治家としての方針を理解すればあんな行動は取らなかった筈。戦は天才でも頼朝を裏切る行動です。つらいですけど当然の結果ですね。上手く立ち回ってたら鎌倉幕府の組閣を形作る人になれたのに…。(T_T)

  2. 義経は戦においては天才的な閃きを持っていたが、政治家としては兄頼朝には叶わなかった…実直過ぎて策略家にはなれなかった。頼朝の鎌倉武士団とも上手に渡りあっていれば…自分も回りの人々もあんなに不幸にすることはなかった…😔
    大河のサイコパス…では、あってほしくないです…😥

  3. 本物の義経は鞍馬寺時代に亡くなっていて、奥州平泉に向かったのは偽物という映画がありましたね。その時はなかなか面白い解釈もあるんだなと思った。

  4. 源氏は身内争いで殺し合いをしているので、頼朝が元服前に保元の乱で父と祖父、叔父が争い、勝利した父が祖父と叔父を処刑したのを知って居るし、頼朝は身内争いを起こさない為に兄弟と言えども御家人に対して示しをするのに弟達を御家人と同様の扱いにして居た。鶴岡八幡宮の再建工事が完了して工事をした大工に褒美に馬をやる事になり馬を大工に渡す役に頼朝は義経に命じて義経は「家臣の仕事なのに何故私がと」不満下にしていたが命令なのでしぶしぶと行い、それを知った御家人は身内と言えども特別は扱いをしないと流石鎌倉殿と驚嘆していた。

  5. 義経の戦の仕方は勝つ為なら何でもありの戦で、当時としては邪道と言えるやり方でもあり、少々卑怯とも言える。だから余計に頼朝は警戒する必要があったと思う。流刑であっても武家の棟梁の扱いを受けていた頼朝と何処で何をしていたのか分からない義経とは、初めから相まみえるもの無かったのでは。木曽義仲もしかりでは。

  6. リーダーとして義経にはついて行きたくないしリーダーとして清盛、頼朝の方が優れていると思うし後白河本当嫌い
    一般人は本当迷惑な話

  7. 頼朝と義経だけを見ても仕方ないでしょう。優等生だった範頼も始末してしまった頼朝、頼朝の死後源氏の嫡流を根絶やしにした北条氏を見れば答えは明白です。

    結局頼朝は、上手く北条氏に操られて範頼や義経を危険視した挙げ句に、子供達の後ろ盾になりそうな親族を始末してしまう愚を犯したのでしょう。

    所詮頼朝は北条氏に担がれる神輿にしか過ぎず、特に政子にとっては掌の上で踊っているだけの存在だったのでしょう。神輿は軽くて馬鹿な方がいいのですから。

  8. 戦の天才、義経、もし彼が参戦しなかったら、頼朝軍は平家を滅亡まで追い込むことができたでしょうか?義経の戦術戦法は当時の東武将には当然受け入れは難しかったでしょう。いつの時代でも兄弟が仲良くことに当たるのは困難なことなのでしょうね。
    唯一、秀吉・秀長ぐらいでしょう上手くいったのは。

  9. 義経は無茶苦茶な戦いややり方したというが果たしてそうかな?義経の功績を妬んだ輩が頼朝に耳に入れてあたかも義経がしたに見せかけることも出来るし頼朝はリーダーに向いてるとか言われるが義経の子供を谷に落として義経の壇ノ浦の戦いの功績を評価せず部下の言葉を鵜呑みにし自分が現場で調べて見たわけではないし義経や義経の部下の意見を聞かない自分の部下だけの意見を取り入れ最終的には北条政子達に消され墓まで小さいし子供達は死に絶えるし

  10. リーダーなら清盛かな~清盛は頼朝を生かしたのに自分達に刃を向けるし義経を自分の仲間に引き入れたら状況は変わっていたし、頼朝は兄の義平が問題を起こしヨシトモが功績を上げたのに馬の世話という嫉妬と娘の婚約破棄やその他の嫌がらせの我慢の限界で挙兵した結果この状況だと頼朝はしらんかったのがまずかったと解釈します清盛もヨシトモがうまあらいじゃなく一緒に戦った功労者をもっといい待遇にして懇願し自分の上司を説得しておけば根回しをしてれば平氏と源氏が対立することが減ったかもしれないし歴史が変わったかもしれない

  11. 義経が政治的視野を持っていて平氏を滅亡させなかったとしても、頼朝や重用されている側近たちが「九郎殿(義経)は奥州に居を構えている藤原ともつながりがあるから、平氏を懐柔した上で西国の源氏と平氏の集まりと、藤原氏で挟み撃ちにしてくるのではないか」と義経にその気がなくてもいつの間にか反鎌倉派の筆頭に祭り上げられていて、頼朝も「神輿の頭は二つもいらない」と自分側についている御家人達や、自身の死後にあっさりと粛清されていなくなった子供たちをはじめとした一族を優先するために可哀想だが消えてもらわなければならないと難癖なり言いがかりに近い形で義経を葬ろうとしたと思う

  12. 兄弟でも腹違いなので頼朝は義経を他の家臣と同列くらいにしか見ていなかったのではないか。
    義経がそれに気がついていたら対立は起きなかった。