【永久保存版】偉大すぎるホンダF1 60年の知られざる歴史 総集編【F1歴史解説】【ホンダF1】
皆さんこんにちはモーター天国のレイン です今回は過去取り扱ったHondaF1 60年の歴史やエピソードを再編集した 総集編をお送りしていきますこの チャンネルではF1グランプリに関する 様々な検証解説動画を扱っていますので よろしければチャンネル登録をしておいて いただけると嬉しい です1958年世界で最も過酷なバイク レースマトTTレースに初出場し本格的に 世界を舞台にしたレースへの挑戦を開始し たホンダでしたが創設者の本田総一郎の夢 であった自分たちが制作した自動車で全 世界の自動車競争で勝つという夢を実現す べくF1への参戦を検討し始めます当時の 本田は4輪車メーカーとしては後発組で まだまだオートバイのメーカーという イメージが強かった時代実際F1参戦の ためのプロジェクトに集められた技術者も 2輪者の経験しかないものがほとんどでし たF1どころか4輪レースのノーハウスら ほとんどないホンダのF1挑戦はそんな ところからスタートしましたまずホダの 研究所はF1に参戦していたクーパーの 片落ちマシンを手に入れ開発を重ねること になりますホダF1の試作者は270馬力 以上出せという総一郎の言葉からRA 270と名付けられましたしかし開発が 進められていた1963年ホンダは シャーシエンジンともに自社開発をしてF 1に参戦することが市販者開発との両立を 考えると難しいと判断しまずはエンジン サプライヤーとして既存のチームに エンジンを提供する形で参戦することを 模索します当時研究所所属だった後の本田 F1の監督中村男はヨーロッパに渡りF1 チームとエンジン供給の交渉を行いました その結果イギリスのブラバムとロータスが 興味を示し最終的にはロータスにエンジン 供給を行うことを決めますがロータス側の 事情により1964年の1月に供給の話が 白紙に戻されてしまいますこれにより シャーシの製造も自社で行うことを決め初 年度からコンストラクターとしてF1に 参戦することになるのです結局ゴールドに ペイントされた試作者のRA270が 初めて荒川のテストコースを走ったのは 1964年2月のことでしたそして思考 錯誤のテストが繰り返されHondaのF 1マシンRA271が完成当初は総一郎が 好んだ試作者と同じゴールドの カラーリングで参戦する予定でしたが当時 のF1はコンストラクターの国籍ごとに 決められたナショナルカラーののマシンに するように決められており結局ホワイトの
ボディに日の丸をあったカラーリングで 参戦することになりますそして1964年 8月F1第6戦ドイツグランプリエンジン サプライヤーの予定から急遽 コンストラクターとしての参戦を決めて わずか6ヶ月後にホンダはF1にデビュー したのですドライバーはこの年行われた第 2回日本グランプリで優勝したアメリカ人 のロニーバックナムが起用されました デビュー戦となったドイツグランプリでは 最後尾の22位からスタートし途中9位 まで追い上げますが足回りの問題から終盤 にクラッシュ64シーズンはこのドイツ グランプリを含め3戦に出走したものの 結果は全てリタイアホダF1の挑戦は 厳しい船出となりました当時 レギュレーションにより1.5LNAの小 廃気量に規制されていたF1エンジンでし たががホンダのV12エンジンの最高回転 数は1万2000回転に達し他のエンジン メーカーを圧倒する220馬力を発生させ ていたと言いますしかし車重が他のマシン よりも70km以上重く車体への負担が 大きかったことに加え冷却効率も悪い設計 であったためオーバーヒートを多発させ 結果信頼性の低いマシンとなってしまって いました翌1965年はこの接続をすべく RA27を開発エンジンの回転数は 1万3000回転出力は230馬力に パワーアップし課題だった車体の軽量化と 冷却性能の向上を測ったマシンでしたこの 年は前年のバックナムに加えF1で実績の あったリッチーギンザを迎え入れ2台体制 で参戦します改良したマシンに期待が 集まったものの10戦中6戦を終え最高位 は6位 予選では第5戦イギリスグランプリで3位 に食い込み第6戦のオランダグランプリで も2周の間トップに立つなど速さは見せて いましたがレースを通じた安定性にかけて いましたそこでチームは第7戦ドイツ グランプリを欠場し改良を加え低重心化を 図ったRA272Bを第8戦から投入後半 戦の巻き返しを狙いますRA272Bを 投入したものの意に食い込めず泣かず飛ば ずの成績のまま2戦が過ぎホンダは結果を 残せないままシーズン最終戦メキシコ グランプリを迎えていましたホダは標高 2000mに位置するメキシコグランプリ の舞台エルマノスロドリゲスサーキットに 向けた高知対策として開催直前にテストを 実施監督の中村は過去に飛行機メーカーに 所属しており航空機エンジンのノーハウが あったため高知対策のセッティングも進み ました中村はシーズン当初成績が
震わしの開発に専念するよう命じられ レースの現場を離れていましたがこの最終 戦で復帰を直訴し現場に戻ってきていまし たそして行われた予選では銀座が3番手 銀座はポールポジションを十分獲得できる 速さがありましたが中村は決勝に向けて マシンを温存するためタイムアタックの 回数を減らす戦略を取りましたそして決勝 3番手の銀座はポールのジムクラーク2番 手のダンガーニーをスタートダッシュを 決めてかわすと1度も抜かれることなく トップをキープ65周のレースを走り切り 優勝を果たしたのです4人メーカーとして はまだ実績もノウハウも少なかった本田が 世界最高峰の4人レースF1の舞台で3戦 わずか2年11戦目での海峡達成したの ですこのレースではバックナムも5位入賞 を果たしダブル入賞も達成ホンダF1が 起こしたメキシコでの快挙は伝説となり今 もなお語り継がれています翌1966年は エンジンのレギュレーションが変更され エンジンの排気量が1.5Lから3lに 変更されましたF1に参戦する多くの チームは他カテゴリの既存エンジンを流用 することで対応しましたがホンダは新しい V12エンジンの新規開発を行うことを 選択したため参戦計画が大きく狂い出走 できたのはシーズン後半戦の参戦のみ 1967年には1964年のワールド チャンピオンジョンサーティースをチーム に迎え入れ必勝体制で望むと開幕戦 南アフリカグランプリでいきなり3位を 獲得しますしかし優勝には届かないレース が続き中村はサーティースの意見を 取り入れ前年から継続して使用していた RA27さんを諦めイギリスのローラと 共同開発をした新車RA300の投入を 決定しますこのRA300はシーズン中盤 の7月に制作が始まりわずか6週間後には 実践投入されましたそして新車が投入され た最初のレース伝統のモツで行われた 1967年イタリアグランプリ新車の チェック走行が長引いたサーティスは予選 で9番手とで遅れますが決勝がスタート すると上位勢のトラブルなどで順位を上げ 終盤には首位ジャックブラバムとの一気 打ちの展開となりますそして最終ラップの 最終コーナーパラボリカでサーティースが ブラバムに並びかけるとブラバムは他者が 巻いたオイルに乗ってしまいアウトに オーバーランサーティスが前に出ると わずか0.2秒差でトップチェッカーを 受け新車RA300のデビューウンホンダ にとってのF12勝目を飾ったのです 結局この年は1大体制での参戦ながら20
ポイントを稼ぎコンストラクターズ ランキング4位第1期での最高成績を上げ ました翌年はこれまでの5年間で培ってき た技術を元にさらなる高みを目指そうと チームの誰もが感じていた頃でした 1968年ホダはこの年のマシンとして RA300の正常進化版と言えるRA 301を投入このRA301は チャンピオンも狙えるポテンシャルがある と下馬表も高いマシンでしたしかしそんな 中総一郎から突如空冷エンジン搭載の新車 を投入するよう指令が下されたのです当時 レースは走る実験室という哲学を持ってい た総一郎はホンダが67年に発売した空冷 エンジン搭載のN360のベストセラーに 確信を持ちその技術をF1に持ち込みたい と考えています しかしレーシングカーのエンジンは当時 から現在に至るまで水冷エンジンが一般的 で市販者とは発熱量が桁違いのF1 エンジンに軽自動車の空冷エンジンの技術 を応用することはかなり無理がありました しかもホンダがF1に避けるリソースは 限られていたためセカンドカーとして空冷 エンジン車を投入することで王座を狙える ポテンシャルのある水冷エンジン車のRA 301の成熟が滞る可能があり現場と 総一郎の考えは対立結局総一郎の半ば強引 な意行により空冷エンジン者の開発は進め られ水冷エンジン搭載のRA301をフル 参戦させて空冷エンジン搭載のRA302 をシーズン中盤から2台目として投入する ことになりますヨーロッパに送られ シェイクダウンを行ったRA30には 案の定エンジンの冷却性能に問題を抱えて おり出力と激しいオイル漏れにより到底 レースに出れるレベルにありませんでした しかし総一郎はRA302を実践投入する 用示しシーズン中盤のフランスグランプリ に投入することになりますがこれが悲劇の 引き金になってしまいますRA302の 投入が指示された頃フランスグランプリの エントリーは締め切られており追加の エントリーは認められない状況でしたが 主催者側がフランス人ドライバーの器用を 条件に出走を許可しますこれによりF1で の実績のないフランス人の上手レッサーが RA302のドライバーに起用されること になりますホダF1チームの現場では総 一郎の移行で半ば強引に出走を命じられた RA302ではなく選手権を争う力のある RA301の調整を優先せざるを得ず シェイクダウンのみで実践に持ち込まれた RA30にはまともにレースを走れる白物 ではありますでした経験不足のシュ
レッサーはプラクティスからスピンを連発 マシンはセットアップも進まず熱により オイルを吹き出しながら走るという最悪の 状況そんな中でレースは始まりますみんな の嫌な予感は敵中し16番グリッドから スタートしたシュレッサーは3周目に コーナーでコントロールを失い土手に クラッシュして激しく炎上このクラッシュ によりシュレッサーは帰らぬ人となって しまいました 結局空冷エンジンのRA302はこの1戦 のみの出走に終わりチャンピオンを狙える と言われていたRA301も空冷エンジン 計画により開発リソースが2分化されて しまったことなどが影響し熟成が進まず この年の本田は未勝利に終わりランキング も6位に落ちてしまったのでしたそして 本田は当時社会問題となっていた待機汚染 に対する抵抗外エンジンの開発に注力する ことを理由にこのこのシーズンの終了後に F1からの撤退を発表1983年に活動を 再開するまで参戦を休止することになり ます1968年限りで第1期のF1参戦 活動を休止し抵抗外エンジンの開発に注力 していたホンダはシビックやライフに搭載 された抵抗外のCVCCエンジンが一定の 評価を得たことで1907年代後半頃にF 1への復帰を検討し始めますしかしホンダ が参戦を休止していた約10年の間でF1 は大きく様変わりしておりマシンの技術 競争の色合いが強かった以前に比べ競技性 やエンターテイメント性が重視されるよう になっていましたまた当時のF1は シャーシよりもエンジンが重視される傾向 にありエンジンのためならシャーシ側が ハンデを追うのはやを得ないという考えが ありましたそこで本田はF1に コンストラクターとしてではなくエンジン サプライヤーとしてF1に復帰する考えを まとめ 1978年には復帰が正式発表されました F1の激しい技術競争の中で約10年の ブランクは大きくまた若い技術者たちに とってはレースの経験すらないという状態 だっったため本田はまずF13戦の準備 期間として1980年からヨーロッパF通 選手権に参戦することになります当時のF 2ではBMWの直列4気筒エンジンが圧倒 的な強さを誇っていましたがホダはこれに 対抗するエンジンとして2LV6エンジン を投入ブラバムの共同創業者としても知ら れるロントラナック引きいるラルトに エンジンを供給し4輪レースへ本格復帰を 果たしたのですすると19981年には ラルトの
ジェフリースカイツリーレジデンスを獲得 本田は手応えを感じていたのですしかし 川本はラルトの体勢に不満を持っていまし たラルトはトーラナックが1人で運営して いるようなチームで規模が小さくエンジン ではBMWに勝っているのにラルトの シャーシは当時のライバルであったマーチ に劣る場面が多々あると感じていたのです すると川本はラルトのライバルであった マーチにアプローチ当時のマーチエ普通 チームの首脳を務めてジョンウィッカム ゴードンコパックに声をかけ独立を 持ちかけたのですウィッカムとコパックは ホンダの出資で自身のチームをモテると あってこれを買2人はほどなくしてマーチ から独立ホンダからの出資を受け進行 チームであるスピリットレーシングを 立ち上げ1982年からオリジナル シャーシを制作してF2に参戦することに なるのです川本によればこれはあくまでF 2で優位性を得るためのの作だったと言い ますがラルトのシャーシに不満があったと はいえ新チームを設立させてまで新体制に こだわったホンダの動きはF1復帰への 準備ではないかと見られていましたこうし て発足した進行チームスピリット レーシングは1982年のヨーロッパエ 不通へ参戦するマシンとして完全 オリジナルの新車201を開発コパックを 中心に設計されたこの2011はアルミ ハニカム製のツインパネルものコックの 標準的なF2マシンでここに前年の ヨーロッパF2でタイトルを獲得した エンジンの改良版であるHondaRA 26にEを搭載新たな挑戦をスタートさせ たのですドライバーにティエリーブーテン ステファンヨハンソンを起用して82年の f2に挑んだスピリットはブーツが シリーズ3勝を上げる走りを見せたほ ヨハンソンも見勝りながら5度のポール ポジションを獲得し活躍しかしランキング はブーツ3位ヨハンソン8位と チャンピオンには届かず川本の思惑は 外れることになったのですスピリットとの タックではタイトルを獲得することができ なかったホダでしたがこの頃並行して進ん でいたF13戦に向けた動きが本格化ホダ はF2でのスピリットとの活動に見切りを つけ翌年はF2エンジンを供給しないこと を決めますがF1エンジン開発のテスト ベッドとして201を活用F1期に向け ホンダは第1期と異なりエンジン サプライヤーとしての参戦となることを 決めており出資者である自分たち主導で テストが行えるスピリットの存在を利用
する形となったのですこうした流れもあり スピリットはホンダのF1参入に伴う エンジンの実践テストを兼ねる形でF1へ の参戦が決定1983年に入っても勢力的 にテストが重ねられ4月にブランズハッチ で行われたノンチャンピオンシップ戦で 実践デビューを果たすことになるのです マシンは前年F2で使用した201を流用 この年からF1でグラウンドエフェクトが 禁止されたことに伴いサイドポットの形状 が変更された他エンジンはF1用の1.5 LV6ツインターボのHondaRA 163Eが搭載されたためそのエンジン パワーを抑えつけるためリアウイングは 大型のダブルウイングに変更ドライバーは 前年普通でスピリットのマシンをドライブ したヨハンソンを起用しワンカー体制で 参戦しました初の実践はトラブルにより リタイヤに終わってしまったもののこの時 は他のターボマシンに迫るタイムを記録 シーズン中盤の公式戦デビューに向けて 期待が高まっていったのですしかし スピリットはF1の厳しい現実を突きつけ られることになりますこの年の7月第9戦 イギリスグランプリでF1デビューを 果たしたスピでしたがマシンは依然として F2ベースの201を改良した201C 前日の変更に加え軽量化を測ったマシン でしたが軽いF2エンジンの搭載を想定し て設計されたシャーシはそれでもかなり 重くマシンの重量は当時のF1の規定最低 重量であった540kmから約50kgも オーバーした580から590kmさらに 約600馬力にパワーアップしたエンジン の馬力に対してシャーシの合成も足りずF 2基準のショートホイールベースのマシン に重いF1用エンジンを搭載したことで 前後重量バランスも大きく崩れ ハンドリングの悪化を招いていました さらにまだ開発家庭にあったホンダの ターボエンジンはパワーは十分だったもの の信頼性に難がありトラブルを多発 ヨハンソンはTカー登録された201と マシンを乗り換えながら各セッションを 走りレースでではデビューから2戦は リタイヤに終わったのです3戦目となった 第11戦オーストリアグランプリでは旧型 の2011で要約感想を果たしたものの 12位翌第12戦オランダグランプリでは 201Cで初感想を果たし7位に入ります があと1歩のところで入賞を逃しました スピリットはこの年F13戦に向けて新車 101を開発していましたが川本曰くこれ がデータを見た段階でダメだと分かるもの だったと言い実践投入は見送られていたの
ですそしてこの時裏ではすでに上位新出と いう次のステージを目指していたホンダが 動き出していましたターボ化が進んでいた 当時のF1では秘メーカー系の プライベートチームたちがターボ移行に 遅れまいと自動車メーカーの囲い込みに本 本田は公式戦にデビューする前の6月には ターボカに乗り遅れていた有力チームの1 つウィリアムズとエンジン供給契約を結ん でおり9月にはホンダエンジンを搭載した ウィリアムズFW09がテストを行ってい たのですさらに本来であれば84年から 登場するはずであったホンダエンジン搭載 のFW09でしたが83年の最終戦 南アフリカグランプリに前倒しで投入さ れることが決定これによりホンダエンジン はスピリットから引き上げられチームは 最終戦の欠場をよぎなくされたのです スピリット側はホンダがウィリアムズと 契約した後も第2のエンジン供給チームと して関係の継続を望んでいましたが ウィリアムズの代表フランクウィリアムズ がホンダに対して独占供給契約を望んだ ため実現せず代わりにホンダはハートの直 4ターボエンジンを4期購入しスピリット に提供ホンダはスピリットに対しF2で あれば今後もサポートできると持ちかけ ましたがウィッカムはあくまでF1での 参戦継続を求めたため両者の関係は終わり を迎えることになったのです本田との船で は決して順調ではなくウィリアムズの チーフエンジニアであるパトリックヘッド によればホンダから初めてエンジンが届い た時エンジン本体と2期のターボ チャージャーしか入っておらず補類や使用 の説明は一切なかったホダからはそれで 好きにやってほしいと言われたというよう な状況しかしヘッドはホダの体勢や エンジンがまだFのレベルに達していない ことは分かっていたが無償供給が決め手に なったことやホンダの開発計画を信頼して 契約を決めたと語っており開発に時間を 要することは想定内だったと言います一方 シェイクダウンを行ったロズベルグは ホンダエンジンのパワーに手応えを感じて おり期待を寄せるコメントを残していまし たスピリットとの定型を解消し83年の 最終戦南アフリカグランプリでホンダ エンジン搭載のウィリアムズのマシンが 走りケケロズベルグが5位入賞第2期本田 F1にとっての初入賞となりました当時の 本田F1プロジェクトではレース活動を 通じて厳しい極限のチャレンジの中で技術 者を育てたいという思いからほとんどが第 1期を経験していない若手技術者で構成さ
れていましたホンダがF1に復帰した際 過去の経験があるから早くて当然という見 方も周囲にはありましたが実際にはレース 経験の少ない若い技術者たちが思考錯誤し ていたのですウィリアムズとのタックで フル3戦初年度となった1984年開幕戦 のブラジルグランプリではロズベルグが2 位に入り高発信を見せますがその後は しばらく苦戦この年のウィリアムズの搭載 されたホダのV6ターボエンジンRE 1664Eは前年スピリットに搭載した エンジンの改良型だったためまだまだ未術 で大きなターボラグを発生させ ドライバビリティに優れているとは言え ないものでしたそんな中迎えた第戦 アメリカグランプリこのレースが初開催と なったダラスの市街コースは大きな問題を 抱えていました金曜日のセッションが 始まるとF1マシンの走行負荷に耐えれ なくなった路面の舗装が剥がれ始めコース コンディションは最悪にさらに気温40° 路面温度65°と過酷な厚さにわれたこと でドライバーやマシンにとって厳しい戦い になることが予想されたのですあまりに ひどいコンディションに一部のドライバー はレース中止を訴えるほどでしたが結局 グランプリは続行ダラスでのアメリカ グランプリが始まっていきましたしかし レースが始まると予想通りその コンディションから過酷な消耗戦が展開さ れ多くのマシンが脱落マシンは過酷な暑さ に根を上げ何人かのドライバーは熱中傷で 意識が朦朧とする中でのドライビングを 強いられていたのですそんな中中盤に トップに立ったのがロズベルグでした ヘルメットやスーツに独自のクーリング システムを装着して挑んだという ロズベルグはレース終盤にトップに立つと ライバルの脱落にも助けられ最終的には2 以下に20秒以上の差をつけ優勝過酷な レースを制し久々の優勝を飾ったのです この勝利はその五育度となくを重ねること になるホダの第2期F1活動の初勝利と なり歴史に残る一勝となったのです 1985年後半戦で調子を上げていった ウィリアムズホンダは16戦中4勝ポール ポジションも3回獲得し コンストラクターズランキングも3位で 終えることになりました本田は84年に 課題となっていた信頼性を改善し前年2台 で21回あったリタイヤは12回まで減っ ていました そして迎えた 1986年ホンダは復帰4年目 ウィリアムズとのタックも3年目となり
ホンダの成熟されたターボエンジンは 凄まじい技術進歩を遂この年のFW11に 搭載された1.5LのRe166E エンジンは1500馬力を発生さらにホダ はこの年当時としては確信的だった テレメトリーシステムを初めて導入それ までは記録媒体がグカーの振動に耐える ことができず走行中のロガーデータを 細かく記録することは難しいと考えられて いましたがホンダはラムを用いた記録 システムの運用に成功それまで壊れるまで 状態が分からないとされていたエンジン データの解析をすぐに行えるようになり まだアナログな側面が強かったF1の データ解析技術に革命を起こしたのです そしてドライバーは前年ウイリアムズに 加入し2勝を上げていたジェルマンセルと この年ブラバムから移籍してきた チャンピオン経験者ネルソンピケのコンビ 熟成が進んだマシンとエンジンそして強力 なドライバーラインナップでタイトル獲得 を目指したのですシーズンが始まると開幕 戦のブラジルグランプリでピケがいきなり 優勝幸先の良いスタートを切ると第8戦 フランスグランプリからの4年勝を含め 2人でシーズン9勝を上げウィリアムズは 見事コンストラクターズタイトルをを獲得 しましたこれがホンダにとって初のF1で のチャンピオン獲得でした1987年の ホンダV6エンジンはこの年からターボの 下級圧を抑えるために導入されたポップ オフバルブの対策に成功しパワー抑制の 規制が行われたにも関わらず1000馬力 以上を発生中盤から調子を上げてきた ウィリアムズはピケとマンセルで急勝を 上げ2年連続のコンストラクターズ タイトルを獲得またこのシーズンは前年 惜しくも逃したドライバーズタイトルを ピケが獲得したためホンダにとっては初の ダブルタイトルとなりましたまたこの年 からウィリアムズに加え名門ロータスにも エンジンを供給することになります 1986年ホンダエンジンとウィリアムズ のジョイントが高パフォーマンスを見せ 優位性を発揮し始めると早くからその性能 に着目していたドライバーがいましたそれ がロータスでF3年目のシーズンを迎えて いたアイルトンセナセナはあるレースの中 でウィリアムズのマシンにオーバーテーク された際ホンダエンジンのポテンシャルの 高さを確信しそれ以来所属していた ロータスがホンダを搭載するようにしける 原動を取り個人的にホンダ側とも交渉の 機会を持っていましたしかしホンダ本社側 は60年代の第1期F1活動の際に定型を
破棄されたことからロータスへの供給に 難色を示しており実現は難しいものと思わ れていたのですそんな中ホンダの ポテンシャルの高さを評価していたもう 1人のドライバーがアランプロストでした プロストは所属していたマクラーレンに ホンダの獲得を希望しチーム代表のロン デニスととに87年からの定型をホンダに 働きかけ同じくホンダエンジン者を希望し ていたセナが移籍できるようマクラーレン はシートを1つ開けて待っていました つまりセナが87年にマクラーレンに移籍 しホダがウイリアムズとマクラーレンに 同時供給ピケマンセルプロストセナという 強力な体制で挑む夢のような選択肢があっ たのです本田の関係者の中にはこの協力 体制に乗り気なものも多く87年からの 本田とマクラーレンの定型とセナの遺跡は 現実的な案として進むかに思われました 一方で第2期本田Fワ監督の桜井は日本に F1文化を定着させるためには日本人 ドライバーの参戦や日本でのグランプリ 開催日本におけるレース中継放送などが 必要であると考えていました当時ホンダが サポートしていた中島サルは国内外のf2 で活躍しウィリアムズでテストドライバー を務めており本田はウィリアムズに中島を レースドライバーにするよう働きかけまし たがウィリアムズ側がこれを拒否桜として は中島を乗せることができるチーム ロータスと提をしたいという思惑があった のですすると桜井はロータスの代表 ピーターウォが用意したJPSロータス Hondaの計画書社内で提案JPSが スポンサーを務めることで財政面の保証を 約束しドライバーにはセナを起用そして セナが希望する条件であったジェラール ドゥカルーをテクニカルディレクターに 据えることなどを条件にホンダ本社側を 納得させホンダは87年からロータスに エンジンを供給することを決めたのです しかしその条件のうちの1つがすぐに破ら れることになります86年末JPSが ロータスのスポンサードを終了することが 決定5は支援金額が減ってきていたJPS の代わりとしてキャメルと交渉を進めて おりキャメルとの契約がまとまった段階で JPSとの契約を解除したため資金的な 影響はなかったもののいきなりの契約違反 に本田側がロータスとの契約を解除する 可能性も示唆されましたしかしこの時には すでに中島がロータスからデビューする ことを前提に鈴鹿サーキットでの日本 グランプリの開催やフジテレビのF1中継 開始に向けた動きが進んでおりホンダ側は
ロータスとの契約を破棄してマクラーレン に乗り換えることができなかったのです 日本のF1ファンにとっては夢の 組み合わせとも言えるセナ中島ホンダの ジョイントはこのような様々なオアが工作 した中で生まれた奇跡のジョイントでした 新たにホンダとタックを組むことになった マクラーレンはチャンピオン経験のある アランプロストに加え88年はロータス からセナが加入当時F1で最強のターボ エンジンとも歌われたホンダを獲得した マクラーレンでしたがエンジンについては ある懸念がありました88年はターボ エンジンの最終年段階的に強化されていた ターボ規制によりターボのブースト圧を 2.5バールに制限されていたほターボ 搭載者の燃料タンク容量は最大195L から150Lへ縮小これにより大幅な パワーダウンを強いられることが予想され たほ前年から自然休エンジンに対しては 最大排気量を従来の3lから3.5Lへ 拡大する優遇措置が取られていましたこれ により88年はNAエンジンを搭載する チームが増加規制によりターボエンジン税 は不利になるのではないかという声が多く 上がっていたのですそんな中マクラーレン はこの年の新車MP44を開発設計を主導 したのは86年末にブラバムから マクラーレンに加入したテクニカル ディレクターゴードンマレーでした マクラーレンは当初88年に新車を制作せ ず87年型のMP43を流用する計画を 持っていましたが88年から安全性向上の ためフットボックスの位置を下げるように レギュレーションが変更されたことから 一点新車の制作を決定するとマレーは88 年のマクラーレンのマシンに不発に終わっ たもののその有効性に確信を持っていた BT55のローラインコンセプトを再度 利用することにしたのですこうしてマレー を始めニールオートレスティーブニコル ズラの手によって設計されたMP44は BT55を彷彿とさせるデザインで登場 これによりドライバーは通常よりも 寝そべるような体制でのドライブを強い られることになり特に背中を立てて座り たがるプロストのシートポジションの調整 は難行したと言いますが風道実験によれば これにより従来よりも10%前後空理既得 性が改善したといいその効果が期待された のですさらにモノコックが低くなったこと でフロントサスペンションは先代の プッシュロッド式からプルロッド式に変更 されるなど各部に対策が施されていました またマレーはこのローラインコンセプトの
導入に向けてホンダにもエンジンの小型か 低重心化を要請ホダはこれを受けこの年F 1に投入した1.5LV6ターボRA 168Eのクラッチとフライホイールを 小形化クランクシャフト1を28mm下げ たことでエンジンの前行を50mm低く 設計したのですするとホンダが想定以上に クランクシャフトの位置をを下げることに 成功したため通常の2軸ギアボックスでは ドライブシャフトとクランクシャフトの高 さのずれが発生マレーはこの問題をギア ボックスを3軸にすることで対処し低い 位置のクランクシャフトに対応アメリカの ワイズマンにF1初となる3軸ギア ボックスを開発させて搭載したのです そしてホンダは懸念されていたターボ規制 にも対策を施します一説によると燃料 タンク容量の195Lから150Lへの 規制は燃費性能に自信のあったホダからの 提案であったと言われていますがどちらに せよターボエンジンの厳しい燃費への対策 が求められる中ホンダはより高い熱効率を 得るためRA168Eの圧縮費を高めボア ストローク費をロングストロークよりに 変更パワーは厳しい規制の中でも約685 馬力を絞り出していましたさらにこの年 NGKが本田に提供したAFセンサーに よりそれまで困難だった走行中の空念比 測定が可能となったためレース中に適切な 燃料噴射を行うことができるようになった のですまた先代のMP43ではリアの ダウンフォース不足が課題とされていまし たが全長の短い三軸ギアボックスと燃料 タンクの縮小によりリアの空力設計の自由 度が増したためMP44では容易にこれを 補うことに成功こうし88年の マクラーレンMP44が誕生したのです シーズンが始まるとマクラーレンホンダが 連戦連勝セナプロコンビが他を寄せつけ ない速さで16戦15勝を上げぶっち切り の速さでダブルタイトルを獲得したのです そしてNA以降でもう1つ注目を集めてい たのはエンジンでした多くのメーカーが 参入したし烈なターボ競争を制しF1 エンジンの頂点を極めていたホンダがNa 定移行後にどのようなエンジンを投入して くるのか注目されたのですそしてホダは 最終的にV8V10V12の中からV10 を選択V10は当時構造上の振動などの 問題から一般的には採用されない形式でし たが重量とパワーのバランスが最も優れて いたことから採用に踏み切ったのですV点 を投入するにあたりホンダが最初に直面し たのはやはり振動の問題 完成偶力による振動がネックとなるV典で
はこの振動への対応が不可欠でしたが本田 は偶力を打ち消すバランサーシャフトを 採用してこの問題に対処当初はバランサー シャフトが1万回転以上の負荷に耐え られるか懸念があったため振動を低減さ せる設計としてバンク角を80°としてい ましたが試作エンジンでバランサー シャフトが壊れず機能したことから最終的 にはバンク核をV1エンジンの設計上とさ れる72°に変更エンジンは軽量 コンパクト化を狙い当初タイミングベルト で駆動する方式を採用していましたが信頼 性の問題が解消できず急遽途中で規約道に 変更これにより大幅な設計変更が生じ開発 スケジュールはかなりタイトになったと 言いますがなんとか開幕に間に合う形と なりましたこうして完成したV10 エンジンHondaRE10QEは約 650馬力以上を発生最初の試作機では 450馬力程度しか出ていなかったところ から短期間の開発で大幅な改良を果たした ばかりかそのパワーは89年により パワフルになるはずのV12エンジンを 投入したフェラーリとほぼ同等かそれ以上 でありパワフルなエンジンに仕上がってい ました結局マクラーレンホンダは 1991年まで連続でダブルタイトルを 獲得しホンダはウィリアムズにエンジンを 搭載していた86年から91年までの6年 連続でF1のタイトルを獲得ホンダ エンジンでなければチャンピオンは取れ ないとまで言われましたまた91年には マクラーレンにV122エンジンを供給 する一方中島が移籍したティレルにV10 エンジンを供給1992年になると ウィリアムズが優れた空力性能と アクティブサスペンションなどのハイテク 装備で他を圧倒ラーレンは公人王廃し本田 にとっては7年ぶりにチャンピオンを逃す シーズンとなったのですそしてこの年7月 にホンダのF1撤退が突如報じられると第 12戦イタリアグランプリにおいてホンダ は92年限りでF1活動を休止すると発表 本田は83年の活動再開以来7度の コンストラクターズタイトル6°の ドライバーズタイトルを手にしましたが いくらF1で成功を収めても欧州市場での 販売不審が改善しないことやF1での技術 競争に勝ち成功を納めたことで当初の目的 は達成されたと判断したことなどから撤退 を決めまし た本田の創業者である本田総一郎の息子 本田博俊が後の本田の社長である川本信彦 と共に 1973年に設立した無限博がレーシング
エンジンの開発を行いたいという思いから 設立されたこの無限では創業当初から ホンダの4輪2輪車のチューニングパーツ 製造を開始創業当初は2輪のモトクロスで 名はせていった傍4輪用レーシング エンジンの開発にも参入初代シビック evb1のエンジンをベースとしたMF 318エンジンを開発しFJ1300用と して提供を開始すると以降国内を中心とし たレーシングエンジンの開発供給を続け チームとしても国内レースに参戦してい ましたまた無限の本社社屋がホンダ技術 研究所の研究施設の近所にあったことなど からホンダの技術者たちが大近後に無限の オフィスを訪れ研究開発を続けていたと 言います兼ねてからF1参入の野望があっ た俊広率い無限は1980年代後半になる とF1用エンジンの開発を開始当時自動車 メーカーが大な資金を投じてF1エンジン を開発し参戦チームに無償供給して密接な 関係を築きトータルパッケージが重要しさ れることで開発規模が肥大していく流れが 進んでいましたが俊広はそんな時代の中で イギリスのエンジンビルダーコスワースを 参考にチームに対してエンジン使用量を 取る日本版コスワースを目指すことを掲げ プロジェクトを進めていきましたF1が 1989年からターボエンジンを止し自然 機エンジンに限定されることが決まると 無限は自力でF1に進出することを模索し 完全オリジナルの3.5LNAV8 エンジンを開発ティレル018や レーナードのF3000マシンに搭載して 水面下でテストを実施したのですジョニー ハーバートクリスチャンダナーテストを 担当したドライバーたちからは高評価を得 ていたと言いますがある話が舞い込んだ ことでこのV8エンジンは入りとなります 1990年末ホダが1992年を最後にF 1から撤退することが決定的となったの です撤退することを決めた本田はこの時数 年後にはF1に復帰する構想も織り込んで いたため年月が経過することによる技術の 引き継ぎが課題となっていましたそこで 本田はF1参入を模索していた無限に ホンダがサイドF1に参入するまでの技術 の橋渡し役としてHondaF1の技術 資産などを引き継いだ上でのF1への参入 を打1度は破断となったものの最終的に 無限は80年代後半から90年代前半に かけてホンダがマクラーレンやティレルに 供給し89年と90年にはチャンピオン 獲得にも貢献したV10エンジンRA 101Eを引き継ぐ形でF1に参入する ことになったのです当初は無限の名で参戦
する予定だったものの支援元のホンダ側の 希望もあり無限ホダとして参戦することが 決定ちなみにこの時のホンダの社長が無限 の創業メンバーの1人である川本でした こうしてホンダ第2期最終年の1992年 からF1に参入した無限本だ最初に エンジンを供給することになったのは前年 にポルシェとのエンジン契約が大失敗に 終わり定長なシーズンを過ごしてしまって いたフットワークでした この年の無限HondaのエンジンMF 351Hは前日の通りHondaRA 101Eをベースに改良を加えたものでし たがベースのRA101Eの重量がネック となりさらに設計も古いものになっていた ため重心も高くバランスはいまいでした この年のフットワークはミケーレ アルボレートと鈴木あがコンビを組み アルボレートが4度入賞を果たしたものの アグリは2度の予選落ちを喫するなど クリ既得性も良くなかったとはいえ無限は 弱点を克服するため翌1993年は エンジンの徹底的な軽量化を実施重量の 10%削減を実現し低重心化も図られた ことでバランスが改善し93年の第12戦 ベルギーグランプリではアルボレートの 公認であるデレッワーウィックとアグリが 予選で67番手を獲得する走りを披露し ますしかし入は2度にとまってしまい結果 に結びつかず本家ホダ側からの供給チーム 変更要望があったことやフットワークの 大幅な体制変更があったことで フットワークと無限本田はこの年限りで 定型を解消1994年はロータスに改良型 エンジンのMF351HCを供給すること になるのですしかしこの年のロータスは 慢性的な資金難に苦しんでおりかつての 名門の姿は見る影もなくマシンの ポテンシャルはありませんでしたそんな中 でもロータスと複数年定型を見据えていた 無限はシーズン中に新スペックエンジンの MF351HDを開発シーズン終盤に テスト投入した後1995年に本格的な 使用を開始する予定でしたがこの年の第3 戦3マリのグランプリで発生した複数の 重大事故によって安全性向上のための レギュレーション大幅改正が決定 エンジンはスピード抑制のため95年から 排気量を3.5Lから3lに規制される ことになり無限が開発中だった新スペック エンジンは94年までしか使用することが できなくなってしまいましたそこで無限側 はこのエンジンの投入計画を前倒し第12 戦イタリアグランプリでジョニー ハーバートのマシンにこの新スペックを
搭載するとハーバートはこのイタリア グランプリの予選で4番を獲得する役を 見せこの年の最上位グリッドを獲得したの です維持を見せた無限本田でしたが結局 この年のロータスはノーポイントロータス は経営難を立て直すことができずこの年 限りでF1から撤退無限本田は新たに95 年の供給先を探すことになります95年の 無限本田は当時ベネトンの代表であった フラビオブリアトーレが買収しトムウキ章 と共同経営されることが決まっていた リジェに供給することが決定当初無限側は ミナルディと契約寸前まで話が進んでいた ものの急遽リジェに供給先を変更したこと で波紋を呼びミナルディがリジェを訴える 事態に発展しましたこの年の無限ホンダ エンジンは3l規制に対応した新エンジン MF301Hを投入実質的な兄弟チームで あったベネトンB1995によく似たこの 年のリジェのマシンJS41に搭載され マーティンブランドルが第11戦ベルギー グランプリで3位表彰台を獲得無限ホダに とってF1での初表彰代となった他最終戦 オーストラリアグランプリでもオリビエ パニスが2を獲得する活躍を見せたのです 手応えを感じた無限はよ96年に向けて 優勝を狙えるエンジンをコンセプトに改良 を実施95年の使用にプラス30倍最高 回転数を5000回転向上6kmの軽量化 を図るという目標を掲げると最終的には 96年型のMF30haはそれを上回る パフォーマンスを実現していましたリジェ はオーナーであるウキシがチームの完全 買収に失敗したことで経営から手を引いた ことを発端に資金難に陥っていましたが第 6戦モナコグランプリではチェッカーを 受けたマシンが3台という全未の サバイバルとなったレースで生き残った オリビエパニスが優勝本田第3期までの 技術引き継ぎを目的にスタートした無限の F1プロジェクトは次世代の3lエンジン を作り出しついに初の栄冠を掴んだのです そしてシーズン終盤無限本田はリジェとの 契約も更新翌年には中野慎二の加入も 決まり期待が高まっていましたさらにこの 頃無限とブリアトーレの間ではベネトンへ の供給やエンジンを市販化してたチームに 売る計画が構想されていたものの最終的に は破断となり結局ブリアトーレはリジェの 株式もアランプロストに売却ブリアトーレ は後にルノーのカスタマーエンジンを扱う メカクロームと共にスーパーテックの バッジネームでF1エンジンの販売を 手掛けることになりますプロストはオール フレンチチームの存続の声が強まった中で
の設立経緯から98年からのプジエンジン 強が早々に決定97年はつなぎとして無限 ホンダエンジンを搭載する格好となった ことで無限とチーム側の関係は良好では ありませんでしたプロスト側は無限ホンダ の搭載と引き換えに契約した中野を礼遇し 無限側に無断でプジの関係者にエンジンを 見せるなどやりたい放題パニスが2度表彰 台に上がるなど成績を上げていたものの 後味の悪いシーズンとなってしまいました そしてこの時期になると本家Hondaが F1復帰への動きを見せるようになって いきます 1998年の3月にはエンジンのみならず コンストラクターとしてもF1に復帰する ことが正式に発表されテストカーである RA099の開発が進められていたのです これは本田F1の技術の橋渡しが当初の 目的だった無限のF1参戦が終わりに 近づいていることを意味していました98 年からジダにエンジンを供給することに なった無限は挑戦できるチャンスがあと わずかしかないと悟りシリーズ チャンピオンを取りに行くべくF1 プロジェクトの予算上限を撤廃持っている 全ての技術を投入したというそのエンジン を搭載した98年の上段は第13戦の ベルギーグランプリでデーモンヒルが勝利 を上げる活躍を見せたのですすると翌 1999年の上段無限本田はさらなる役を 見せます改良が重ねられた無限本田MF 301HDは重量こたメーカーのエンジン より重かったもののパワーはワークス メーカーのエンジンをしのぐものだったと 言いこの年の冗談のマシン199とともに 高パフォーマンスを発揮序盤からハインツ ハラルドフレンツが表彰台に登る活躍を 見せると第7戦フランスグランプリ第13 戦イタリアグランプリでは優勝第14戦 ヨーログランプリではポールポジションを 獲得するなど最終版までフレンチが ドライバーズタイトルを争う走りを見せ 惜しくもタイトルは逃したものの ジョーダンと無限のパッケージングは 大きく注目を集めたのですそして2000 年ついに本家HondaがF1に復帰ジダ もエンジン使用量を支払う必要がある無限 ではなく翌年以降は本家ホンダエンジンの 搭載を望み無限側は役目を終えたと判断 この年を最後にF1での活動を終了したの です自動車メーカーが莫大な資金と リソースを投入しなければ勝てない時代に なりつつあったF1エンジンの競争の中で 同時に参戦したプジや後に参戦したトヨタ ですら達成できなかったF1優勝を4回も
成し遂げたエンジンビルダー無限の活躍は まさに異業とも言えるものでしたその異業 は今もなお伝説として語り継がれてい ます 1983年からエンジンサプライヤーとし てF1に復帰した本田は翌1984年の第 9戦アメリカグランプリで復帰後初勝利 ターボ全盛紀にあった80年代のF1に おいて低燃費出力のターボエンジンを 生み出すことに成功しウィリアムズや マクラーレンとともにチャンピオンを獲得 1989年にはF1でターボエンジンが 禁止され自然吸気エンジンに移行したもの のホンダはポテンシャルを発揮し続け 長らくF1回の最強エンジンとして君臨し ていましたしかしあくまで第2期は エンジンのみの参入ホンダの車内では自社 でF1シャーシの製造もできないか考える ものも少なくありませんでしたホンダでは 自社のエンジニアがやりたいことを実現さ せる支援をするため独自プロジェクトの 立ち上げに一定の予算を出す自己啓発プロ と呼ばれる制度がありましたがHonda F1第2期活動やNSXの開発に携わった 橋本県そして当時研究所で量産者シャーシ の設計などを行っていた滝敬之助はこの 制度を利用して予算を確保しF1の シャーシ開発を行うことを画策これが後に リサーチシャーシを意味するRC プロジェクトと名付けられる車内融資に よるF1シシ開発プロジェクトの始まり でした極秘プロジェクトとして動き出した RCプロジェクトでしたが当時のホンダが F1で頂点を極めていたのはあくまで エンジンF1マシンの設計に必要不可欠 だったカーボンモノコックの製造や空力 設計のノーハウは車内に皆無だったため コンストラクターから提供され車内に保管 されていたホンダエンジン搭載の歴代F1 マシンを徹底的に解析したと言います破壊 しなければ分からないカーボン構造の解析 には実際にF1が開催されるサーキットに 出向き廃棄されているカーボンパーツを 持ち帰って解析するという方法を取るなど 地道な研究が続けられましたまたRC プロジェクト最初のマシンのモノコックは 後にF1で主流になっていくメス型整形で は高度な製造技術を要するため比較的製造 が足やすい姿整形を採用当時マクラーレン などが採用していたお姿整形のモノコック は製造が容易な反面が表面に浮き出て しまうためモノコックの上からカウルを 被せる必要がありましたエンジンは91年 のマクラーレンに搭載されたV12 エンジン使用済みのRA121Eを確保
デザインはフェラーリ641の航空ボトル 形状と呼ばれたサイドポンツーンの デザインなどを参考に設計され ギアボックスは当時すでに本社が第2期F 1活動の休止を決めていたことから車内の 規制部品を流用すことができず プロジェクト内で独自設計したセミ オートマチックトランスミッションを搭載 したと言いますこうして91年F1マシン の製造ノーハウを学ぶために制作された RCプロジェクトの最初のF1テストカー RC1.0xが完成マシンは極秘 プロジェクトの発覚を警戒し真っ白に塗ら れF3000マシンに見えるように カモフラージュしていたと言いますしかし このRC1.0xは実際に走行すると走行 風がうまく車体に流れず冷却に支障を きたすことが判明さらに大きく設計された コクピット周りのデザインが合成不足を 招くなど問題が品質これを受けてRC プロジェクトでは新たなマシンの開発が スタートするのですそして1992年ホダ が内定していたF1撤退を正式に発表した 頃RCプロジェクトは2台目のマシン開発 に着手してましたこの新しいモデルは 1993年のF1車両規則に合わせ再設計 されRC1.0xの課題であった空力の 問題解消を追求して制作されていきました そのため基本デザインやモノコックの設計 はRC1.0xのものの多くを流用 エンジンやギアボックスも引き続き仙台と 同じものが流用されましたこの新たな マシンはRC1.0xの派生という意味を 込めRC1.5xと名付けられ92年の 10月に完成ホダF1の撤退により プロジェクトを極秘にする必要のなくなっ たこのマシンはカーボン時の黒いボディと なりカラスと呼ばれるようになりました RC1.5xは先代の課題であった モノコックの合成の問題をコクピットを 仙台より狭めることにより対処空力 デザインも20%モデルによる風道実験を 行った上で設計が煮詰められサイド ポンツーンの形状やフロントノーズ前後 ウイングの形状などが見直されました完成 後のテスト走行では仙台から熟成が なかなか進まなかった独自設計の6速セミ オートマの信頼性が低く設計者の滝が自ら ステアリングを握りテスト走行が繰り返さ れましたがギアが6速まで安定して作動 するようになりマシンの熟成が進んだのは 190094年のことこの頃にはRC プロジェクトの存在も公にされ一般公開の 場でRC1.5xを走らせる機会もあり ましたがこの間にF1ではアクティブサス
などの電子制御が禁止になった他 モノコックの整形もメス型整形が主流に なりハイノーズが普及四力思想のトレンド が大きく移り変わっていった頃で基本設計 から数年が経過していたRC1.5xの シャーシはすでに時代遅れのものになって いましたそして94年のF1では第3戦3 マリのグランプリの悲劇をはめとする重大 事故が多発F1マシンの車両規定は安全性 を高めるためにさらなる改正が行われる ことになったのですこれおきにrc プロジェクトでは新たなマシンを設計する ことを決意最新の車両規定を満たしたRC 2.0xの開発に取りかかったのですRC 2.0Xの制作ではモノコックの整形に すでにどのF1チームも採用していないお 姿整形では無理があり難易度の高い目整形 を採用しましたが一体整形を断念し モノコックを上下分割して整形する手法を 選択これによって合成が損なわれないよう 結合部を凹凸で噛み合わせながら接着する という工夫がなされました最新F1マシン の空力デザインは参考にできるものが なかったため独自のデザインを採用手探り で設計されたく売デザインは当時のF1の トレンドに近い形状にまとめ上げられリア タイヤ前方に設置されたウイングレッド など時代を先取りしたアイディアも随所に ありましたエンジンはすでにホンダがF1 から撤退していたため当時ホンダと 入れ替わるような形でF1に参入した無限 のv.エンジンMF301が搭載されまし たしかし制作途中に開発資金が枯渇して しまったことなどからRC2.0xは予定 から1年遅れの96年3月に完成96年の F1では安全性を高めるためにコクピット のサイドプロテクターの装着が義務付け られるなどさらなる規則改正が進んでい ましたが完成が遅れたことにより最新規則 の対応を目的に開発されたRC2.0xが これらに対応することができないという 皮肉な結果をでしまいましたRC2.0x は完成後すぐにシェイクダウンテストを 実施したもののマシンを制作した後の目的 を見失っていたプロジェクトは活動が しりすぼみになり前述の予算不足も影響し たことから以降数年放置状態になって しまいその後本格的に走行を行ったのは 完成から6年後の2001年でしたこうし て勇志たちがF1シー市制作の可能性を 追ったRCプロジェクトは3台のマシンを 制作したところで活動を終了しかし90 年代後半になるとこのRCプロジェクトと 入れ替わる形でホンダ本社が コンストラクターとしてF1に復帰する
構想を模索します 1998年には翌1999年からのF1 復帰宣言が正式になされティレルに在籍し ていたハーベーポスルスウェイトを真てF 1マシンRA099を開発するのです ポスルスウェイト とティムデンシャムを中心に設計された RA099は当時の最強マシン マクラーレンMP413のような低重心 スタイルを採用実践投入を見越して7台の シャーシが製造されましたホンダの車内 事情から参戦開始予定を2000年からに 改めたものの 1999年の1月にはドライバーに ヨスフェルスタッペンを起用しF1の合同 テストに特別参加日間のテストのうち3日 でトップタイムをマークする高 パフォーマンスを発揮しf1関係者や メディアを驚かせましたこれにより一気に オールホンダ体制への期待が高まっていっ たものの春になると状況が一変ホンダが コンストラクターとしてのF1参戦を 取りやめエンジンサプライヤーとしての 復帰に切り替えるのではないかという噂が 囁かれ始めるとその矢先チームの式を取っ ていたポスルスウェイトがテストで訪れて いたバルセロナで折そのまま高いこれが 決定だとなったかは定かではありませんが ホダはその1ヶ月後コンストラクターとし ての参戦を断念しBARにエンジンを供給 する形でF1に復帰することを発表したの ですこうしてRA099もRC プロジェクトのマシンたちと同様実践を 走ることはなくお蔵入り結局本田が コンストラクターとしてF1に参戦するの はBARを完全買収する2006年のこと になり ますホダF1第2期と第3期の間の空白の 7年そこには夢のF1マシン製造に情熱を 燃やした者たちの多くの挑戦と挫折があり まし た第2期の活動休止から約5年 1998年3月に当時の本田の社長川本 信彦より若い技術者の育成と先端技術の 蓄積を目的としたF1活動の再開に向けた 検討に入っていることを明します同時に第 2期のようなエンジン開発と供給にとまら ずコンストラクターとして参戦し車体の 製造チーム運営を行うことを目指している と発表されました2000年にチームとし ての参戦を開始することを計画した本田は この98年手始めにテストカーとして イタリアのダラーラと共同で開発したRA 099を発表F1でも実績のある デザイナーハーベーポスルスウェイトを
テクニカルディレクターとして勝平して 設計されたこのマシンは当時無限ホンダが 上段に搭載していたエンジンと同じものを 搭載し当時F1の最速マシンだった マクラーレンのMP413のような低重心 なスタイルにまとまっていました ドライバーには前年までティレルを ドライブしていたヨスフェルスタッペンを 起用し98年の12月にシェイクダウンを 行うと翌1999年スペインヘレスで行わ れたF1の合同テストに特別参加3日間の テストで全てトップタイムを記録すると いう好調ぶりで他チームからは規定重量 より軽い状態で走っているのではないかと いう声も上がるほどでした順調に進んでい たかに思えたホダのF1参入計画でしたが 99年4月バルセロナで行われていた テストの現場でポススートが急病により多 してしまいますさらにF1計画とは別に ホンダ技研で行われた人事変更などにより F1参戦の方針が見直され コンストラクターとしての参戦を 取りやめるに至り2000年からエンジン サプライヤーとしてF1に復帰することが 改めて決まりましたコンストラクターとし ての参戦を断念したホンダでしたが参戦 目的であった技術者の育成と最新技術の 蓄積のためにシャーシ開発に関与できる形 での参入を模索し最終的にはシャーシを 共同開発することを条件にBARへの エンジン供給を行うことが決まります本田 にとっては進行チームと共にシャーシを 共同開発しながらエンジン供給を行うと いう新たな試みでしたが2000年の Barはジャックビルヌーブが4位に4回 入るなど上意に顔を出したものの参戦休止 中のF1の技術進歩は凄まじくトップ パフォーマンスとは程遠い状況でした 2001年からはジョーダンにもエンジン 供給を開始ジョーダンとの契約は カスタマー契約でしたが結果を求めていた ホンダはBAR同スペックのワークス仕様 のエンジンを冗談にも供給しますしかし 2001シーズンはどちらのチームも 振るわずジャックビルヌーブが2度3位に 入り第3期で初の表彰台を獲得したものの Bar冗談ともに前年の成績を上回ること はできませんでした2002年はホンダの サポートもあり佐藤琢磨が上段からF1に デビュージャンカルロフィジケラとコンビ を組み挑みますがこの年のジダはメイン スポンサーの支援縮小などの影響や 2002年型マシンEJ12が ドライバビリティに劣る失敗策だったこと もあり低迷BARは冗談よりさらに不審を
極めコンストラクターズランキングは それぞれ6位と8位に落ちてしまいます 復帰3年で優勝はゼ第2期の栄光を知って いるファンにとっては物足りない状況でし たもちろんそれはホダの関係者も同じで この状況を打破するためにホンダはジダと の契約を1年前倒しで打ち切り再び供給先 をBARに絞ることでパートナーシップを 強化チーム運営やマシン開発にもより深く 関与するようになりますそして2004年 BARの新型マシン006はこの年から スイッチしたミシュランタイヤとの相性が 良くBARHondaは開幕から速さを 発揮ジェンソンバトンが第2戦マレーシア グランプリで3位に入りホンダにとって 2001年以来の表彰台を獲得すると表彰 台の常連にをつね佐藤琢磨も第9戦 アメリカグランプリで日本人として14年 ぶりの表彰台を獲得するなど活躍コンスト ターズランキングを大きく押し上げ2と なりましたしかしBARの2人はいつ勝っ てもおかしくないと言われていた中で最後 まで勝利には届きませんでしたちなみに コンストラクターズランキング2のチーム が未勝利に終わったのはF1史上発の 出来事でしたこの数年間のホンダエンジン は成熟が進んだ一方信頼性が課題となって おりこの2004年はエンジントラブルに よるリタイアが多発した年でした 2005年になるとホダはBARの株式を 買収してチームの共同経営に参画前年の 飛躍で期待されたもののレギュレーション 変更にうまく対応できなかったことや第4 戦3割りのグランプリでダブル入賞した ものの重量違反で失格となるなど噛み合わ ず第9戦までノーポイント後半巻き返す もののランキングは6位と期待外れの結果 で終わりました本田は2007年までまで BARへのエンジン供給契約を延長してい ましたがBARの筆頭株主でホダと共同で チーム運営を行っていたBATがF1から 撤退BARの株式を本田に全て売却します これによりホダはBARの経営権を取得し たため2006年からチーム名をBAR からホダに解消し38年ぶりにオール Honda体制でF1に参戦することに なりました さらにスズキアグリが立ち上げたF1 チームスーパーアグリにエンジン供給を 行うことも決定しますこの年はエンジンの レギュレーション変更があり3lV0 エンジンから2.4LV8エンジンへと 企画が変更されましたドライバーは前年 まで在籍した琢磨に代わりルーベンス バリチェロを起用しバトンとタックを組み
ましたシーズンが始まるとバトンが第2戦 マレーシアグランプリで台を獲得したもの のその後悪戦が続いていましたこの状況を 改善するためチームはエンジニアリング ディレクターのジェフウィリスを解任し 中本修平を公認に起用しますそして第13 戦ハンガリーグランプリウェット コンディションに見舞われたこのレースで 14番手からスタートしたバトンが天候の 変化にうまく対応ライバルのリタイアに よる幸運もありオールホンダとして 1967年以来実に39年ぶりの優勝を 果たしたのですこの優勝以来調子が上向い たチームはバトンとバリチェロが最終戦 まで連続入賞を重ねなんとかランキングは 4位に滑り込みました2006年に第3期 待望の一勝を上げたものの翌2007年は 低迷を極め第7戦までノーポイント後半戦 もかじて入賞は果たしたもののランキング 8位と最悪の結果に終わります本田はこの 状況を打開するためベネトンやフェラーリ の黄金機を作り上げた影の立役者ロス ブラウンをチーム代表に迎え2008 シーズンに挑みましたしかし前年からの マシ開発の不審が響きこの年も大きく チームが浮上することはなく第9戦 イギリスグランプリで雨の困難に生じた バリチェロが3位を獲得した以外は ほとんどのレースで回に沈み前年をさらに 下回るランキング9位でシーズンを終え ます翌2009年からは空力面の新規定や カーズの導入など大幅なレギュレーション 変更を控えており勢力図を大きく変える 可能性があったことからチームはこれを 浮上のきっかけとして捉え2009年に 向けたマシン開発を続けていましたしかし ホンダは2008シーズン終了後サブ プライムローン問題リーマンショックを 発端に起こった金融危機による業績悪化を 受けF1から3度目のの撤退をすることを 発表チームは2009年のシーズン開幕 直前の3月に前年からのチーム代表であっ たロスブラウンへ1ポンドで売却し前年 までのホダF1チームを母体とした ブラウンGPがこの年から参戦することに なりますホンダが前年開発を続けてきた マシンBGP001はオフシーズンの テストをほとんど棒に振ったにも関わらず 開幕戦でワツフィニッシュを 達成年ホンダが開発を続けてきたシャーシ とホンダエンジンに代わり搭載された メルセデスエンジンがドライバビリティに 優れパワーもあったことでシーズンを通し てハイパフォーマンスを維持し優勝8回 ポールポジション5回を記録し3戦初年度
チームとしては初のドライバーズタイトル とコンストラクターズタイトルのダブル タイトルを獲得しましたこの結果にホンダ のF1撤退時期を悔む声や実質的なF1 チームの無償譲渡と言えるブラウンへの1 ポンドでの売却に批判が寄せられるなど 議論が巻き起こりました結局このブラウン GPは翌年メルセデスに買収され1年限り の参戦となってい ますF1が2014年からV61.5L ターボエンジンとエネルギー改正システム のハイブリッドパワーユニットを搭載する ことが決まると度々HondaのF1復帰 の噂が飛び交っています そして2013年5月パワーユニット制度 以降から1年後の2015年から第2期の 黄金時代を共にしたマクラーレンに エンジン供給をする形でF1に復帰する ことが発表されたのですマクラーレンは 1995年から約20年もの間メルセデス エンジンの供給を受けていましたが 2010年からメルセデスがF1に ワークスチームとして参戦を開始したこと で高宮をしない両者の関係は悪化してい ました本田は2011年末から2012年 頃にかけてワークスチームとして参戦して いたメルセデスとフェラーリを除く全 チームと交渉した結果マクラーレンとの 交渉がうまくまとまり定型に至りました 2015年からマクラーレンはそれまで 在籍していたジェンソンバトンに加え フェラーリからフェルナンドアロンソを 迎え入れチャンピオン経験者を2人揃え 万全の体勢を固めます ホダはパワーユニットの開発について復帰 発表当初から既存のエンジンメーカーより 1年以上遅れての開発開始となったことに 懸念が囁かれていましたが2014年末に 行われた初めての実写テストで厳しさを 突きつけられることになります2014年 アブダビグランプリが終了した直後に行わ れたF15テストがホHondaにとって 実写にパワーユニットを搭載しての初めて のテストになりましたがホンダPUを搭載 したマクラーレンのマシンはコースに出て はすぐピットインしたりコース上で ストップを繰り返しトラブル対応に収支 復帰5発テストの2日間はタイム計測 ラップを1度も完了することができず いきなり新時代のF1の洗礼を浴びます 開幕前のテストでもトラブルが頻発した ホンダPUの開発の送れはシーズン開幕後 もそのまま王引くことになります開幕戦 ストラリアグランプリでもプラクティス からトラブルが続発調距離を走行すること
すらままならないマシンでは早く走れる はずもなく予選でマクラーレンは2台揃っ てトップから3秒落ちの最高列決勝では なんとかバトンが乾燥するものの到底上位 を争える速さはなくホンダにとっては苦い 復帰初戦となりましたまたこの年の マクラーレンのマシンMP430の完成度 も高くなくその後も戦が続きバトンと アロンソが数戦でかじて入賞したものの シーズンを通してホンダPUのトラブルに よるリタイアや信頼性の問題によるレース ペースの制限が多くドライバーも フラストレーションのたまるシーズンを 過ごし等々アロンソが第14戦日本 グランプリでストレートスピードに劣る ホンダPUに対してGP2エンジンと無線 で発言するなどに至りました最終的にこの 年のマクラーレンはチームワーストの成績 である1980年以来の コンストラクターズランキング9位に沈み ましたこの年の遅さや信頼性のなさの原因 はホンダPUだけではなく空理面を優先し てパワーユニットのダウンサイジング化を 図るサイズゼロコンセプトの方針を取った マクラーレンのシャーシ事態にも原因が ありましたがチーム側はメディアに対して ホンダPUの問題を強調しました歩み寄り のない両者の関係はにこじれていくことに なります翌2016年はエンジンの再設計 などが高を総し予選では93に進出できる 速さを取り戻したことで前年に比べ コンスタントに入賞できるようになりまし たが復帰当初に目標としていた優勝には 程遠い成績でした復帰3年目となる 2017年はパワーユニットの設計を 見直したことによるトラブルが開幕前の テストから頻発シーズンが始まっても状況 は好転せず前半戦は度々入賞圏内を走行し ながらパワーユニット以外を含めて トラブルが多くノーポイントが続き マクラーレンは序盤ランキング最下 シーズン中盤以降で入賞できるようになる と最下こそ脱しますが再びランキング9位 と定長なシーズンとなってしまいました アロンソはホダのパワー不足を訴える コメントが増えこの頃パワーユニットの 変更に動いてたマクラーレン側もホダを 批判するコメントを多く出すようになり 不審の原因は全て本田にあるというような スタンスをとったことでホンダを批判する メディアもありましたがバーニー エクレストンをはめとする関係者から原因 をパワーユニットだけに押し付ける マクラーレンの姿勢に疑問を呈する声も 上がるなど議論が巻き起こりました結局
このような関係の悪化もありこの年限りで 本田とマクラーレンは定型を解消2期に 黄金時代を築いた伝説のタックの再現と はきませんでしたそしてホダは翌2018 年からトロロッソへパワーユニット供給を 行うことになりますレッドブルグループは 当時提携していたルノーPUの パフォーマンスや待遇に不満を抱いており ホンダと水面下で交渉を進めていました HondaPUは2019年以降レッド ブルチームへの供給を見据えて2018年 はセカンドチームのトロロッソにのみ供給 することになりますこの年も大きな飛躍の シーズンとはならずトロロッソも前年を 上回る成績を上げることはできませんでし たが第2戦でピエールガスリーが4位に 入り第4期での最高順位を更新した他 レッドブル側はシーズン中盤に投入された 新しいパワーユニットがチームに供給され ていたルノーPUよりも優れていると判断 翌2019年よりレッドブルにも HondaPUを供給することになったの ですそして迎えた2019年開幕戦 オーストラリアグランプリでレッドブルの マックスフェルスタッペンが3位に入賞 復帰5年目でようやく第4秘書表彰台を 獲得しますレッドブルのチーム力を考えれ ば表彰台は当然の結果ではありましたが レース中はフェルスタッペンがフェラーリ のセバスチャンベッテルをオーバーイク するシーンも見られホンダPUがパワーで ために劣っていないことを証明しました そしてシーズン中盤の第9戦オーストリア グランプリここまで開幕から前哨していた メルセデスがパワーユニットの オーバーヒートなどに苦しみペースが 上がらない中スタートで出遅れた フェルスタッペンが調なペースで飛ばし 最後はフェラーリのシャルルルクレールと のバトルを制してトップでチェッカー ホンダのPUはパワーを要するレッドブル リンクで速さを発揮しマクラーレン強時代 から課題だった信頼性の問題もなくタ メーカーがオーバーヒートで苦しむ中 パフォーマンスを発揮し第4期彼岸の初 優勝となりましたこの後第11戦ドイツ グランプリ第20戦ブラジルグランプリで もフェルスタッペンが優勝しシーズン3勝 ブラジルではトロロッソのガスリーが2位 に入ったため第2期時代の1991年以来 のホンダ搭載者によるワンツー フィニッシュとなりました マクラーレン時代とは異なりレッドブル グループとのジョイント関係は良好で翌年 以降のチャンピオン獲得に期待がかかって
いました突然の撤退発表レッドブルトの タックによりパワーユニット開発も起動に 乗り着実に成熟を続けていたホンダPU 2020年もメルセデスの優位は変わり ませんでしたが第5戦70周年記念 グランプリでフェルスタッペンが優勝する と第戦イタリアグランプリではレッド フラッグによる中断などの混乱の展開の中 トロロッソから名前を変えた アルファタウリのガスリーが優勝ホンダは パワーユニット時代に移行した2014年 以降で複数チームで優勝した最初の メーカーとなりましたしかしこの年の10 月衝撃のニュースが飛び込みますホンダが 翌2021年限りでのF1からの撤退を 発表したの です年の復帰時にもうF1からは撤退し ないとしていたホンダの突然の発表に驚き の声も多く撤退理由として社長であるヤゴ 貴弘は将来のカーボンニュートラル実現に 向けた経営資源の集中を上げましたがF1 も2030年までにカーボンニュートラル の実現を目指す方針をすでに発表しており さらにF1での成績が上向きチャンピオン 獲得が見えてきた中でのこの発表に疑問を 感じたファンも多くホンダのこの決断は 物議を醸しましたホンダ側では2020年 の初島より撤退について議論がなされて おりレッドブル側には開幕戦の頃には すでに撤退の意行が伝えられていたと言い ます結局ホンダが撤退後の2022年から レッドブルが自社性のパワーユニットを 製造することになりホンダは知的財産など をレッドブル側に提供する他HD ミルトンキーンズのスタッフの多くが レッドブルのPU部門に引き継がれること になりましたそして第4基本だラスト イヤーとなった2021年開幕前の プレシーズンテストでフェルスタッペンが 総合トップタイムアルファタウリから デビューする角田佑樹が総合2番手と ホンダPU搭載者が上位に入った一方王者 メルセデスはルイスハミルトンが総合5位 となり前年までのメルセデス優位が弱まる と見られシーズン開幕前から接戦が予想さ れると開幕後はフェルスタッペンと ハミルトンの壮絶なチャンピオン争いが 展開されますフェルスタッペンは第2戦 エミリアロマーニャグランプリでシーズン 初勝利を上げると第5戦モナコグランプリ も制覇このモナコから第9戦オーストリア グランプリまでレッドブルホンダが フェルスタッペン5勝セルジオペレス1勝 と6連勝を飾りますこの時点では フェルスタッペンがチャンピオンシップを
リードしていましたが第戦イギリス グランプリではハミルトンと フェルスタッペンが接触してしまい 弾き飛ばされる形となった フェルスタッペンが激しくクラッシュ両者 にイコが残ると第14戦イタリア グランプリでは再び両者が接触メルセデス とレッドブルのレース外の駆け引きも合っ て両者の壮絶な争いとなっていきます そして第19戦サンパウログランプリ以降 ハミルトンが維持の3連勝で追い上げると なんとF1の歴史上47年ぶり2度目と なるチャンピオンを争う2人が同ポイント で最終戦を迎えるというとんでもない展開 にそして最終戦アブダビグランプリポール ポジションはフェルスタッペンが獲得し ますが決勝のスタートでハミルトン2枚に 出られてしまうとレースペースでは遅れを 取る苦しい展開にフェルスタッペンと レッドブルホンダが最後の最後で チャンピオンを逃してしまうのかと誰もが 思いましたしかし終盤大波乱が起きます クラッシュによりセーフティーカーが導入 されると10秒以上あったハミルトンとの 差が一気に始まりレースは残り1周で再開 セーフティカー導入時にタイヤを変えてい たフェルスタッペンはこの最終ラップに ハミルトンをオーバーテークしなんと優勝 最後の最後でトップを奪い返し自身初の ワールドチャンピオンホンダにとっては 1991年のアイルトンセナ以来30年 ぶりのF1でのタイトルを獲得したのです コンストラクターズタイトルはメルセデス が取りダブルタイトルはなりませんでした が第4期最後のシーズンでホダは見事優秀 のびを飾り2014年のパワーユニット 時代以降後メルセデス以外のパワー ユニットで初めてチャンピオンを獲得した PUメーカーとなりました屈辱で始まった ホンダ第4期の挑戦ですが最後の最後に 報われる結果となりました その後レッドブルはホンダの撤退を受け PUの自社製造を目指し関連会社として レッドブルパワートレインズrbpを設立 し本田はそこに知財産を提供するなど協力 体制を構築することでF1に引き続き関与 することを明らかにしていましたまたンダ の撤退などを受けF1では2022年から 200年までの間PUの開発が凍結される ことが決定レッドブルアフタ売りの エンジンはrbpT名義となったものの 2022年型までのエンジンはホンダが 開発を行っておりその後開発が決された後 も製造サポートを 継続実質的にホンダのF1へのエンジン
供給は続いていたのですその後もホンダは モータースポーツ部門の組織を2輪の ホンダ HRCに統合した上でレッドブルグループ へのエンジン供給を継続していきました しかし2023年には2026年からPU 規定が新規定となることに合わせF1へ 正式に復帰することを 発表アストンマーティンと複数年契約で 合意したのですこれにより共に栄光を掴ん だレッドブルとの関係は2025年限りで 終了ホダのF1での挑戦はアストン マーティンと共に続いていくことになり ますいかがだったでしょうか今回は本不1 の歴史総集編について解説しましたこの チャンネルではF1グランプリに関する 様々な検証解説動画を扱っていますので よろしければチャンネル登録をしておいて いただけると嬉しいですそれでは今日は この辺で
【目次】
00:00 オープニング
00:25 第1期(1964-1968)
13:10 第2期(1983-1992)
40:09 無限ホンダ(1992-1999)
52:25 2.5期
63:12 第3期(2000-2008)
73:08 第4期(2015-2021)
85:54 その後
◆関連コンテンツ
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◆動画について
今回は60年にも及ぶホンダF1活動の歴史、総集編をお送りします。
◆その他の動画もぜひご覧ください!
30 Comments
日本の最強のF1メーカーそれが「HONDA」なんだ!
何度撤退しても、最終的には強くなって帰って来るのがホンダがF1大好きな証拠だよね。むしろ改革もせず、低空飛行でダラダラ続けているルノーよりも情熱があるように見える。
出入りしすぎだな、次は永久追放もあるぞ
日本のF1=ホンダという影響が強い
日本人として「POWERED by HONDA」の文字を見るだけで心躍りますね
ただ2015年以降使われてないのが残念です
出入りは多いが、何から何まで欧州メーカーが優遇されるF1で勝ち続けてるHONDAの凄さよ。
ホンダの空冷の
RA302😢
これほど悲運なマシンはホンダにはないかもしれない……。
どんなエンジン音してたのでしょうかね。
聞いてみたかったです👍
ロータスのようなJSPカラーのF2ホンダいいですね👍
中嶋さんや全日本の
エントリー中での
ジェフ リースさんの
イメージがあります👍
ヨーロッパ~F2当初
あのナイジェル マンセルさん
タイトルをとった
ジェフ リースさん
そしてマルボロカラーの
このスピリットが次第に登場し
加わり。
のちのF1ドライバーを
2名をF1への駆け足としても育てあげたマシンでもありますね👍
鈴鹿の日本勢との交流戦でも上位で速さを見せました。
そして当時のライバル
ラルトは
カシオをスポンサーに迎え水色と白に。
さらにF1マシンのような
洗練されたデザイン
の
ニューマシンで83年から2年取りましたね👍
チャンピオンは
ジョナサン パーマ氏
とマイク サックウェル氏
タイトルは逃しましたが熾烈なバトルをした相方ロベルト モレノ氏。
FJ1300のMF318
FJマシンなのに
後スバルのFJ1600より
豪華な空力パーツが💦👍かっこいいけど💦
🆒
RC1.0x マクラーレンよりフェラーリに近い見た目ですね👍やはり。
🆒
2.0xはいつかの
ベネトンルノーに 似てます🆒👍
ホンダは撤退と復活を繰り返してきましたけど、また復活の見込み…レッドブルはフォードに鞍替えが決まったもののワークスPUが欲しいアストンマーチンとの提携となります!そこにはアロンソがいますけど、彼はホンダをマクラーレン時代に批判していましたから彼の動向はどうなるのでしょう?ただ、今のアロンソはホンダの強さを外から見て惚れちゃってますからね…恐らく残留すると見ています。
ホンダで屈辱を味わった男がホンダで復活する…なんてドラマも見たいですね!(ただ、アロンソ自身の年齢と新規定のPUにホンダが対応できるかどうかが不安…)
中村良夫さんの著作面白ったな。イラスト含め独特な言い回しなんか黎明期のホンダの歓びも悲哀も感じ取れて凄く惹かれました
参戦、撤退、参戦の繰り返し。継続は力、もし、ずうっと参戦し続けていたらフェラーリと並ぶ、偉大なメーカーだったのに、惜しいね。
第一期F1由来のチャンピオンシップホワイトに赤バッジというタイプRの装いが金ピカになっていた可能性があったんですね…
無限代表は本田博俊ですよ。俊博は二階さんです。
ホンダの活動がまとめられて、解り易かったです。
ホンダはF1において参戦レース数、優勝回数、チャンピオン獲得回数(ドライバーズ、コンストラクターズ)のいずれもエンジンメーカーとして歴代5位の記録
また初参戦は1964年だけど、これは後に一時代を築いたフォード・コスワースやルノーよりも早い。今季もホンダRBPTとして関わりを持っていることを考えると、F1への貢献度は他の欧州メーカーにも引けを取らないし、欧州文化のF1においてこれだけの活動と功績を残しているのは本当に立派だと思う
この偉業はバカTには、とうてい出来ない
空冷F1は本田宗一郎氏の負の一面ですね
もし現場のエンジニアの要望通り水冷エンジンで開発を進めていたら
第一期ホンダF1はさらなる成功を納めていただろう事は想像に難くない
12気筒で1500CCって、今考えると手先が器用な人が作るミニチュアの工芸品レベル
BBCのトップギアで2代目NSXを紹介する時、「最近はおばあちゃんが乗るような車ばかり造ってる」と言われ、そのNSXも日本で1番売れない車になってました。F1のイメージとは真逆の市販車がなんとも淋しい。
日本人ならホンダが好きって考えの人多いですよね・・・
懐かしい話ですね🇯🇵のHONDAは
素晴らしいです。
アイルトン・セナ
アラン・プロスト
の最強コンビでの
絶頂期は本当に
忘れられません。
市販車開発と両立は厳しいからエンジン供給からと考え、ロータスと手を握り、手のひら返しされたら怒ってやめるのではなく「じゃあ全部自分でやるか」となるのがすごい。働き方改革の今では無理ですね。徹夜で朝シャワー浴びに家帰ってまた出勤とかだろうな。
本田宗一郎が通ってた鰻屋行ったことあるけど
こんなので通うんだ❗とは思った。
好みは人それぞれだけどね。
65年メキシコGPで優勝し日本へ送った電報が『来た・見た・勝った』…現代まで早いようで長い道のりですね。
無限の代表は本田博俊さんですね…途中テロップが俊博さんになってるところがあります。
第三期は、シャシーでチャンピオンを獲る挑戦だったんですね。予算がつく訳がわからん制度もHONDAらしい。
第四期のオーストリアは忘れられない。表彰台であの寡黙な田辺さんの喜びようは最高でした!
そして21年の最終戦は、信じられない。第四期はHONDAシンデレラストーリーの有終の美を飾ってくれました。
HONDAは日本の誇りです。
ロータスへのエンジン供給が白紙にされたとき、中村良夫さんが『雷鳴轟く、HONDAはHONDAの道を歩む』と電報を打った、と本で読んだ記憶があります。 もう、F1は自分たちでやるんだ!!、という決意がこもってて好き。
HONDAの初勝利=1.5リッターの最終戦、R・ギンサーの初勝利(唯一の優勝)、グッドイヤータイヤの初勝利だったんでしたよね?!
いや…個人的にはかつてのホンダは「凄かった」ケドね…
でも2代目NSXがHV(SH-AWD)と言う名の電子制御と重量の押し売りになったし…
それも無くなってGT500に「シビック」なんてメーカーに夢は無ぇだろ
VTEC捨ててEVの押し売りするわ日産と組むわ…の
現行のAHONDARAに期待してるユーザーはもういないよ
97年のプロストの中野に対するパワハラは酷かったな・・・。
パニスですら、中野へのパワハラをやめるよう訴えてたらしい・・・。
空冷エンジンとか宗一郎馬鹿?
出たり入ったりするからHONDAはダメなんだよな