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歴史上最大の兄弟喧嘩ですね。
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
42 Comments
複数の要因が絡み合っていますが、その中でも義経が頼朝にとってメリットよりもデメリットの方が大きかったということは重要なポイントです。以下のような理由が考えられます。
・義経は平家討伐で華々しい戦功を挙げましたが、そのことで頼朝の威信を損ないました。頼朝は自分が源氏の棟梁であり、鎌倉政権の中心であることを示そうとしましたが、義経は自分の戦功や人気で頼朝に対抗しようとしました。例えば、義経は頼朝の許可なく官位や通称を受けたり、平家の捕虜を帰洛させたりしました。これらの行動は、頼朝の権威に服さないことを示すものであり、頼朝はこれを不快に思いました。
・義経は奥州藤原氏との関係を維持しようとしましたが、頼朝は奥州藤原氏を敵視していました。奥州藤原氏は東北地方を支配しており、朝廷や平氏とも独自の外交関係を築いていました。頼朝はこれを快く思わず、奥州藤原氏に対して鎌倉政権の支配下に入ることを要求しましたが、奥州藤原氏はこれに従わなかったり、遅延させたりしました。頼朝は奥州藤原氏が自分に反旗を翻す可能性も疑っており、また奥州藤原氏も頼朝から圧力を受けていました。義経はこのような状況で奥州藤原氏との関係を断つことができず、頼朝から不信感を持たれました。
・義経は自分の野心や理想を実現するために行動しましたが、頼朝は現実的な利益や安定を重視しました。義経は平家打倒後も戦闘的な姿勢を崩さず、北条時政や梶原景時などの有力御家人と対立しました。また、義経は後白河法皇や建礼門院などの公家勢力とも連携しようとしました。これらの行動は、義経が自分の地位や名声を高めることや、新たな政治体制を作ることを目指していたことを示しています。一方、頼朝は自分の権力や利益を保持することや、鎌倉政権の安定化や拡大化を目指していました。このように、義経と頼朝の考え方や目的は大きく異なっており、互いに理解しあえませんでした。
以上のことから、頼朝が義経を生かしておくメリットが無いから排除したとも言えます。義経は頼朝にとって、権威や利益を奪う競争相手であり、背後の敵であり、理想主義者でありました。頼朝は義経を排除することで、自分の地位や権力を確固たるものにしようとしました。
一族を矯め過ぎて滅んだ平家
一族で争い過ぎて滅んだ源氏
判官贔屓≒HULKAMANIA
鬼武者丸時代の保元平治の乱で目の前で長兄・悪源太義平の言動みてた身からすると生き写しみたいな言動をしてる末弟・義経なんか近くに置けんだろうよ
俺が頼朝でも抹殺する
結局源氏の棟梁と言っても、動かし易い御神輿に過ぎない訳で、北条氏を始めとする関東御家人にとっては、関東東国を自由に出来、さらに全国の武士の棟梁とも認められる征夷大将軍の座が欲しかった。
一方後白河院はそれは絶対に阻止すべく何度も頼朝に上洛を即し平清盛のように太政大臣にして朝廷を取り込もうとした。
そんなギリギリの拮抗の中で、弟がうっかり朝廷の位を貰っちゃったので、撃つしかなかったし、義経が上手い具合に東北に逃げたので、奥州藤原氏を討つ口実も出来た。
こうして征夷大将軍になった頼朝だが、関東御家人にとって源氏は扱い難い人材ばっかりなので、結局北条氏によって3代全員殺される。
義経愚将論
武蔵坊弁慶は熊野水軍トップの熊野別当の湛増(たんぞう)の長男であり湛増の正室が源義朝(源頼朝の実父)の姉(か妹)であった。湛増は平氏方の古参の精鋭水軍であり、壇之浦の戦いでは平氏に加勢するところが長男武蔵坊弁慶の頼みで源氏方につくよう依頼された。しかし熊野水軍の中には平氏方に加勢するべき意見をもつ者も多かった。その為一計を謀り、闘鶏神社で闘鶏により決めることにした。赤の鶏が勝てば平氏方に加勢、白い鶏が勝てば源氏方に加勢することとし、神に決めてもらおうということにし熊野水軍が一丸になるよう計略、あらかじめ白い鶏は強く赤い鶏は弱いものを選んでたという。壇之浦の戦で熊野水軍が到着したときは平氏方はとても喜んだと思われるが熊野水軍が白旗を挙げた際は平氏の落胆は想像につく。
歴史と一括りにしても、当時の人達にしてみれば立場と世間体で世渡りしてたんだなぁと
頼朝の子孫は完全に絶えたけど、義経の子孫は存続している可能性があるらしい。
頼朝は弟を殺し功臣を粛清して挙句の果てに自身も息子も暗殺された先の見えてない源氏の大将に過ぎないと思ってる
(吾妻鏡に武家の棟梁としては不名誉極まる落馬の怪我が原因の死亡なんて書かれる段階で彼の置かれていた立場が分かる)
判官びいきって、判官が官職なのよねぇ・・・
義経の行いを長として許してしまえば、世紀末jひゃっはーな混乱になってしまうかもですし、
頼朝さんは苦渋の決断だったのかもしれませんね。
源氏は基本身内に冷たい
源氏同士で常にやり合ってきた歴史
例え自分の弟たちだろうが自分達の法を侵したなら部下の手間自分の弟だから許すでは示しが付かないから謀反人として撃つ事決めただよね
源氏の敵は源氏
義経は戦上手だが政治的センスはカケラもない人物だったから仕方ない。放置しておくと何をしでかすか分かったもんじゃない。
徳川時代と同じく
武断派と文治派の違い
義経は武断派で、頼朝は文治派
平家を倒せば武断派は、邪魔になるだけだった
受領のトップクラスである伊予守を授かったのに検非違使を辞めなかったのがトドメかな
頼朝は義経が朝廷の武士の指揮官になることを恐れていたので
武士は、朝廷が軍事や警察の責任を放棄して、民が自衛する為に台頭した存在。自分達で生産し治安を維持しているのに、朝廷は税を徴収する。納得がいかない。平氏は武士代表として権力を握ったが、貴族化してしまった。頼朝がその失敗を踏まえて、朝廷から権力を奪おうとしているのに、義経は朝廷から褒美等を貰って喜び、朝廷の存在を肯定していた。これは武士からは赦せないはず。
弟も全員殺してますよね。
自分が昔聞いたのは牛若丸と弁慶が戦った時、牛若丸は攻撃を交わしながら説得を続けた事で弁慶が感動して配下になる事を願ったとか
昔は頼朝が凄い嫌われてたんだよね義経追い込んで殺したということで 今はどう思われてるのかな?トップに立つってのは綺麗事だけじゃやっていけないのはわかるけど日本人はそういうの嫌いだからねぇ…
関東武士の残虐さは異常。
残酷な殺し方、関係ない通り人を殺して庭に常に首を飾ったり、僕は平氏の方が人情があって好きだなあ。
戦だけできて政治力0なんてここで殺されていなくてもいずれどこかで殺される運命だったんでしょうね…
連中はヤクザだからな
義経は人望がなかったらしいな、坂東武者たちから。基本、自己承認欲求が強すぎて、他の坂東武者の利益を考えていない。
義経偽者説あるよな(笑)。奥州藤原氏がでっち上げた別人。
権威と権力の分離を行おうとしていたのに、
天皇の権力を認めるような行動をしたため、
処分せざるおえなかった。
1の説の情に生かされていた頼朝にとって敵とは言え徹底的に
平氏を殺した義経は許さないというのは同意しがたい。
何故なら平家全員殺されずに一部生き残っていればそのつぎにチャンスがめぐってくればその生き残った人間が源氏を打ち破り平家復活になる畏れがあるからだ。自分、頼朝が自らが体現したように。それを頼朝自身が身をもって知っているからだ。
ありがとうこざいます。
去年の大河の「鎌倉殿の13人」を観て初めて納得いった。
あのストーリーでは頼朝はもともと鎌倉を出世の足がかり程度にしか思ってなかった。
平家を滅ぼした後に京に上って、そこで清盛のように出世し太政大臣を目指すというのが源義経の想定で、義経の出陣まではこれもそれほど的外れでは無かった。
ところが義経が鎌倉を離れて以降にクーデターが発生し、頼朝は上総広常を犠牲にする謀略でクーデターを未然に防いだ。
これによって源頼朝は上総広常の願いだった鎌倉を中心とする武家社会の成立を進めるようになる。
要するに、源義経は兄頼朝が京の貴族社会で位人臣を極めるのだと思っており、それをサポートするつもりだった。
ところが義経が鎌倉を離れた後に頼朝の方針は鎌倉幕府樹立に変更されており、義経はそれに生涯気が付けなかった。
ホントにこれが正しいのかどうかは分からないが、
この通りだとすると、義経の考え無しの愚行と頼朝の冷酷な厳しさが納得できる。
義経は戦術の天才で頼朝は政略の天才であり、分かり合えないものなのかもしれないとは考えていたが、
戦術も戦略も政略も、敵より味方を有利な状況に移行させる技術であって本質的には変わらないはず、なぜ義経は頼朝の構想に気付けなかったのか?
これがあの大河ドラマの通りなら、
義経は頼朝から源氏政権の構想を既に与えられていた、出陣した後に変更されたことを知らなかったわけです。
これじゃ義経には分からない、なんで兄が的外れな怒りで自分を責め立ててくるのか理解不能だったでしょう。
頼朝は三郎義光の所業を知ってたはずなので「俺が生きてる間に弟は殺しておこう」と考えるのは残当
奥州に行かなかったら殺されることはなかったかな。
奥州藤原氏(藤原氏)に匿われた源義経(源氏)を討伐する為に源頼朝(源氏)は千葉氏(平氏→源氏)らを率いて奥州へ……となかなかカオスな事になっている訳ですが、本当に勝者側の関係者はこれでも良かったのだろうかと思った結果、後に平家物語が誕生したのでしょうか
単純に兄頼朝は戦上手の義経が怖かったから、頼朝は戦ベタ。そりゃ恐れるは‼️
頼朝の手勢の大半が「平氏」であったことがもう一つの考察点になるかなと。目的は「平氏」の討伐ではなく「平家」から権力の象徴三種の神器を奪うこと。平氏の戦略には詳しいわけだから神器をどこに携行するかもわかってた。だから時間をかけてじわじわと戦力を削り、身動きとれなくする戦術をとってたわけだが、義経は常に速攻でそれを邪魔してきた。義経の目的は「平氏」の滅亡だから味方の一族に対しても容赦ない。
北条政子が頼朝に義経を粛清するように仕向けた説
政所と呼ばれる女性は政に余計な口を挟みたがるもんだし
義経は、平時忠のハニートラップにもかかってて、東北へ落ち延びる際でさえも、平時忠の流刑地である能登半島に向かい、娘の蕨姫に会いに来たと言われています。
ちょっと女好きなところもスター性を感じますね。
わかりやすい解説でした。
でも頼朝は景時と義経が仲悪いのなら別の家臣を置くべきだったと思うな。
仲の悪いやつをお目付けに置かれても言うことなんか聞かないでしょ。
そんな頼朝も最後は落馬という怪しい最後を迎えるんだからなんとも。
要するに手に余ったということですな。腕が立つ分自分の言うことを聞かないとなると危なくって仕方ない。
義経の戦術をみても、結構な危険人物って感じがするし……。
身内を遣ると やがて滅亡する 豊臣も
頼朝は嫡男でなくて三男、あと義経の子供が中村(後の伊達家)の養子になって中村義宗となっていたらしい。
頼朝を匿っていた頼朝の妻の実家の北条氏はずっと傍観していたのか?実は長い目で見て隙あらば関東を北条氏と比企氏で掌握していこうとしていたかもしれない。
義経は能天気過ぎたんだよ
武将の能力はスゴイけど、政治能力がゼロ
頼朝が朝廷と政治的綱引きをしてる最中に邪魔しかしてない
義経は平家絶対撲滅マンだからなぁ
そこがもう頼朝とズレてる
てかそれくらい再開した時から擦り合わせとけよって思うけどね