2004年10月23日に発生した新潟県中越地震では、新潟県川口町(現:長岡市)で震度7を観測。阪神淡路大震災以来、史上2例目の震度7を記録しました。
この地震の特徴は、
・余震が非常に多かった
・亡くなった方の多くが災害関連死
・運行中の上越新幹線が脱線
などがあげられます。
地震発生時の対策だけでなく、避難時の生活についても考えさせられる地震となりました。
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20 Comments
新潟中越地震から19年経ちましたね(2004年10月23日)
阪神淡路大震災と同じ震度7でした・・・。
九州の親戚の結婚式から自宅に帰った後、
テレビを付けたらこのニュースが流れてました・・・・。
さすが、地震と言えば山口さん m(._.)m
当時、10歳。展覧会前日だったので覚えてます。団地に住んでいたけど、本棚から本が落ちた程度で無事でした。でも、避難準備はしていました。
当時は滋賀県に住んでおり、仕事中に新潟県で大きな地震が起こったことだけは認識していましたが、詳細は忙しく知らないまま。
仕事が終わった夕方に近くを走る北陸道を次々に走っていく応援の消防や警察の車両を見て、そして自宅に帰って詳しく見ると大きな被害が…。
忘れられません。しかし、忘れてしまってはいけない多くの教訓も残されていますね。
この地震のとき関東に住んでいて 会津や新潟が大変だぞと会社の上司から言われました。 自分の住む会津に家族に電話しても繋がらず不安でした。職場のテレビで映像みたりして夜にようやく連絡付き安堵した記憶あります。
昭和の新潟地震のとき親から聞いていたので その後の東日本大震災も記憶新しいけど この地震で防災意訳が備わっていると思います。
部活が終わり帰宅途中でした
いきなり木に止まっていた大量のムクドリやカラスが同時に飛び立ち、近所の犬も鳴き始めました
それから2秒程で地面が波打ち始めました
その日は我が家で唯一鉄筋建てだった車庫で家族そろって眠りましたが恐怖と余震でまともに眠れませんでした
しばらくの間は関越道も一般車通行止めのため、長野へ迂回して経由で親戚を見舞いに行きました。あの時は驚いたし、さらに中越沖で追い打ちがあるとは思わなかった。
当時のニュース映像で強く記憶に残っているのは土砂崩れの現場で半纏を着た地元の消防団の人たちが必死に救助作業している姿です。
都市部以外は過疎化や高齢化が限界近くまで進み今同じような規模の地震が起きてしまったら救助や住民同士の支援はどうなってしまうのか心配。
災害に強いまちづくりなんてキャッチフレーズだけ先行してるけど、実際のところ地域の防災力は年々落ちてるような気がします。
ガンダムSEED DESTINYの時間だったからなぁ…
災害関連死に関しては2002年のワールドカップ代表を逃した高原選手のエコノミー症候群と合わせて注目され、災害に関わらず医療全般の血栓症予防が進みました
そしてこれを期に災害派遣医療が見直され、2007年山を隔てた柏崎で起こった中越沖地震でDMATの初出動に繋がります
当時と言うか山形の工事に出張に行ってた同僚が東京に戻るとき何故か山形道を通らないで関越道回りで帰ったら十日町辺りで地震にあい、数日間足止め食らうとか有ったんだよねえ、散々言われてたわー、
あと、実家が柏崎でして、物置になってた親の実家が潰れて中に有った物まるごとゴミになった
それと正月に帰省した時、まだ自衛隊が居て自衛隊風呂に入ってきたぞーってなもんで
2004年10月23日あの日は小学校の文化祭の日でした。
文化祭から帰宅し、来客があった為母と妹と3人で2階におり、妹と携帯ゲームをプレイ中に地震に合いました。
あれから19年、中越地震の震源地から離れた新潟市に今も住んでおりますが、小学校5年生の時に被災した時余震にとても怯えていたのを今でも覚えています。
東京の二桁階でもそれなりに揺れたので結構記憶に残ってる。
当時アニメがやっててその放送前に揺れて放送15分で中断し報道番組に切り替わったのですが
現地の村役場だったかな?生で電話取材してる最中に最大余震が発生し話をしていた職員が言いかけた瞬間ブツっと電話が途切れたのがとても恐怖でしたね…
当時プラント屋さんに務めてました。神戸営業所が阪神の震災で閉鎖、その後長岡支店に転勤して残業中に被災。営業所閉めて家帰ったら隣の家が半壊して私の借りてる借家の玄関が危ないので閉鎖され営業所の駐車場で社内伯した記憶が。
でも翌日には、長岡駅前のヨーカドー営業再開してたのを見て日本も地震に強くなったと感じた記憶が・・神戸の時は、2~3日火災警戒してたのでスーパー開いてなかったので感動しました。ただ復旧支援の連日近隣工場(全く関係ない他社)への手伝いが2か月ほど続いたのを覚えてます。何故かキノコ工場やもやし屋さん苗屋さん等農産系ばかり行かされました。
😮😮😮
世界一安全な乗り物、日本の新幹線説はもうダメだ😢
関東南部で震度3くらいの地震が3回連続発生し、その後に同時刻に新潟中越地震が発生した事を知りました。NHKのアナウンサーが涙を流しながら被災状況などについて語っていたのを憶えています。
いちいちしゃべりながら
文字に丸囲みしたり、
アンダーラインを引くのが
とても目障り。
そういうのは番組じゃなくて
身内の会議でやれ。
この年、7月には洪水がありました。学校から母の迎えで脱出するもたった今母が通ってきたはずの道がわずか数分の間に水没、右往左往した末親戚宅に転がり込み、水が引いて帰れるようになるまで助けてもらいました。
そして洪水の瓦礫がようやく片付いてきた頃に追い討ちをかけるように襲い掛かってきたのがこの地震。自宅の建物こそ持ち堪えたものの庭は真二つに割れ電気ガス水道が3~7日ほど途絶しました。妹達は崩れた本が散乱する部屋で教わった通り机の下に隠れ、抱き合って泣いていました。ラジオが大好きだった私はひっきりなしに揺れる真っ暗な部屋で心を無にするかのように被害状況を伝える淡々とした声を聴き続けました。
学校が再開してしばらく経った頃、福岡の学校から励ましの手紙が届きました。翌春、福岡で大地震が起きた時まず第一に思い出したのは手紙をくれた生徒達、彼らは無事だったのでしょうか。
あれから早19年、街は綺麗に直ったけど私の記憶には災害に翻弄されたあの年のことが鮮明に焼き付いています。
旧川口町で観測された揺れはかなり強烈でした
川口町の震度7はまさに「震度7」の破壊力でした
脱線した新幹線車両が乗客を守り抜いたと話題になったけど、後の調査で当時の新型車両だったE2系という車両ならそもそも脱線していなかったと判明した話すき。