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本能寺の変 神君伊賀越えの真相―家康は大和を越えた
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▼関連動画
伊賀越え伝承の地『京都山城』家康は人生最大のピンチをどう乗り越えたか!?

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【目次】
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#歴史 #日本史 #伊賀越え #どうする家康

44 Comments

  1. 『真田丸』の「絶対に笑ってはいけない伊賀越え」がインパクトありすぎて……
    本作だとあんまり汚れないかなあ。

  2. アニメ「ねこねこ日本史」は5年前に『治要録』を使って描いていました。同じNHKなだけあって、大河ドラマと内容や時期がリンクしていましたね。

  3. 明智の近い筒井領を通り伊賀を斜め横断する大和ルートはまず無いかなって思うけどね
    宇治田原も甲賀から3ルートあるのでその辺りの考察も宜しくお願いします
    確か家康からの礼状が甲賀側にかなりの数残ってるはずです

  4. ドッチナンダイッ!松ケンさんの本多正信が役としても役者としても頼もしいから楽しみですね!

  5. 今週の大河で百地三太夫が登場して、どのように絡むのか楽しみです

  6. ノベライズで伊賀越え読みました。
    感想を一言で表すと「おい半蔵」でした

  7. どちらかは影武者の通ったルートなんじゃないでしょうか?
    本人は当然ですが、影武者だとしても無事に帰還できれば協力してくれた人達に報奨を出すのは当然ですし、どの伝承にも嘘は無い事になるのかなぁっと

  8. おんな城主直虎のときに、一緒に逃げてた穴山梅雪は、一足先に旅立ったと六角精児さんの野盗にねらわれないといいのですがとか、浜松に戻った家康が穴山梅雪が、亡くなっては、家臣たちがお困りであろうと、言ってたのが意味深で
    全部家康が図ったのかとおもいましたが
    色々仮説があって面白いですね~にわか歴女ババアより

  9. 紀州藩の参勤交代は大和の高見峠を越えるルートを使っている。御三家の参勤交代に使うには険しい山道だが、家康の伊賀越えを偲んだのかもしれないね。

  10. どうする家康では嶋田久作さんが出てきますよね。怖そう😱味方じゃ無かったら絶対ムリ😱って感じですね

  11. そういえば大久保忠隣って、まだどうする家康には出てないのか。

    葵徳川三代で、石田太郎さんが演じた忠隣は忠誠心溢れるいいキャラだった

  12. ところが図で示される大和路は、当時不安定だっただろう地域であり
    街道整備も遅れており、そして、何よりも道が険しい。

  13. 大和郡山に明智光秀の寄騎の筒井順慶がいるよね?
    本能寺の変直後で、自分が明智に狙われていたら、大和路を行くかネェ~?
    逆に大和路を行ったのなら、明智・筒井と内通していたとも、
    考えられないかな?😊

  14. 伊賀越えは楽しみでもあるけど、本多正信がまた帰ってくるのでそっちの方が注目ですね😊伊賀越えはどうにかして家康が逃げると思うので対して気にしてないw

  15. 資料によってルートが様々だったり、現地に沢山の逸話が残っているのは、影武者を用いたからではと、あまり歴史に詳しくない歴史好きな私なりの考えです。

  16. 単車で大阪から法隆寺、天理経由で山越え、そして伊賀まで阪奈道路で行くだけでも、起伏のアップダウンは大変なものです。
    それが「本能寺の変」以後、急ぎ小走りでも山越えとなると、単車移動に比べると100万倍の労力でも足るかどうか?
    伊賀経由で、ようやく東海の西端に及び、この辺で漸くリスクがやや収まる程度だったのでしょう。

  17. こんにちわ!武士道さん!いつもわかりやすい説明有難うございます。伊賀越え服部半蔵どのように得嗅がれるのか!?穴山梅雪一緒に行動してたら助かったかも?ドラマでも描かれるのか?本田正信松ケンさんがてでくるのか楽しみです。

  18. 家康は大和→伊賀ルート
    梅雪は宇治田原→伊賀ルートをそれぞれ目指したけど、梅雪は失敗したのでは?
    梅雪はハイリスクだけど距離的に近いパターン、痔を患っていたそうですし、遠回りはしたくなかったから、「俺はこっち行くわ」ってなったのかな?と予想します。

  19. 愛知県では、知多半島横断説が有力です(三河物語)。
    家康のいとこが住職を務めていた半田市の常楽寺などに記録があります。

  20. 歴史の勝者が歴史を改変するのは世の常。
    神君伊賀越えとして有名な話なのに、詳細はよくわからないとか、穴山梅雪死後も配下が召し抱えられているとかから考えれば、家康は梅雪に対してかなり後ろ暗い事があるのだろうなと😅

  21. 先日、伊賀越えの通説ルートでそのまま岡崎、更には浜松までまでバイクでツーリングしてきました。目的はドラマ館巡り

    山も多く、さらに当時は道も今ほど整備されてる事もなく、この距離を敵にに襲われるかも知れないと言う状況で乗り越えるなんて本当にすごいと思いました。

    御斎峠は特に厳しい道のりでした。

    真夏のツーリング的には、四日市から岡崎の日中の渋滞が一番辛かったですが。

  22. 大和ルートは郡山に明智の盟友筒井順慶がいるのでちょっと考えにくく、また甲賀近くの近江日野が信長配下の蒲生氏郷の所領、伊勢の亀山以東が神戸信孝の所領であることを考えると宇治田原まで大回りしてリスクを減らした、というのは分からない話では無いです

  23. 起点の位置は大阪を示しており堺の位置はもっと南です。
    正しい堺の位置から考えると、まっすぐ東に進むと大和・伊賀となります。
    宇治山田は堺を起点とした場合、かなり遠廻りとなりますので、
    個人的には大和ルートが現実的かな~と思います。あくまで想像ですが、、、

  24. 当時の人は家康本人の顔分からないし言い伝えの1ルートだけでなく家臣分けて影武者立てたりしたのでは?

  25. 私も他の動画で知ったのですが、最近の研究では”神君伊賀越え”は史実ではなく創作であり、服部半蔵も参加していないとされています。もちろん、家康が三河に戻ったのは史実ですが、そこにかなりの脚色が入っているというわけです。3代将軍家光の頃までは記載がなく、8代吉宗の頃から見られるそうです。その理由は、この時代新設の御庭番で伊賀者を多く採用したので、そのイメージアップ戦略であり、半蔵はそのシンボルにうってつけだったからです。秀吉の政策により伊賀から追放され浪人となった伊賀者が、仕官を求め徳川家に入り服部半蔵の下伊賀同心となるも、服部家が改易されて徳川家との繋がりが薄い故に、かつての逃避行を伊賀越えとして創作することによって、自らの地位の基盤強化を図った。歴史を敢えて捏造する理由が、己の地位向上、昔からの忠実な家臣というイメージ操作にある典型ですね。そして、それが真実とされ、幕末の”徳川実紀”にも記載されるようになったという経緯だそうです。動画やこのコメント欄でも言われているように、家康の本隊と別働隊が分かれて進んだのは、敵の目をくらますための陽動作戦でしょうね。
    まあ、史実はどうあれ、ドラマ中ではクライマックスとも言える”伊賀越え”楽しみですね。本多正信の再登場!やっとですね!!長かったなあ!嬉しい!💝💕

  26. あるいは「一緒に逃げては共倒れになりかねない。二人とも生き残れば御の字だがどちらか1人が討たれた場合は遺された家族や家臣たちは生き残った者が責任を持って面倒をみる」という密約があって家康と梅雪は別ルートを選んだのかも。

  27. 梅雪が家康だー!と言ってオトリになってやったんじゃないんかな?

  28. 説は家康の影武者としたら、解決してしまうのでは?また堺から家康は船で帰った説は何故無いのでしょう?不思議です。

  29. 穴山梅雪は上様謀略と、同行人「木俣土佐守守勝武功紀年自記」(1610年)彦根博物館未公開部分にあり家康が謀殺した可能性があり、神君伊賀越えを神格化して穴山謀殺を隠したのではないか?と考えることもできます。

  30. 石川正西聞見集は「イシカワショウセイケンブンシュウ」ではなく「イシカワショウサイブンケンシュウ」と読むのではと思われます。
    ま、大した問題では無いのかもしれませんが(^^)

  31. 本能寺の変後、家康が伊賀越えをしていたとは知りませんでした
    色んな説が出ている中、穴山梅雪が死んだことだけは明らかなのも面白いですよね

  32. どちらのルートでも明智の勢力圏通るのよね・・・京都方面に向かうと明智軍が展開してる可能性高そうですし
    大和路方面だと筒井家がいますが南の方に迂回してというのは意外といけるんじゃないかなぁとは思いますね

  33. 前に『天正伊賀の乱』で流れてきた「伊賀忍者」と言われる人々を受け入れてくれたという好印象があったからこそ生き残れたという点が影響しているのかもしれませんね。家康は故郷『岡崎』を目指すため大和方面、穴山梅雪は家康から自分の『名前』を使えば伊賀でも逃げやすいと言われていだが、うっかり甲賀方面を通ってしまい討たれたのではないかなと。他の資料の良い所どりするなら、梅雪が危機に陥っていると聞いた家康が途中再度「梅雪に合流」しようと伊賀方面へと進行方向を変えたが、間に合わず、逃れてきた穴山衆の人々からの梅雪の訃報の報告を聞いて、更に大和方面も不穏な状況にある事を伊賀忍者情報網から聞いて、改めて伊賀ルートで進行した結果従来からの『伊賀越えルート』に修正されたのではないかなと思いましたね。そして『穴山梅雪がなぜ伊賀方面から選んだのか』は、『どうする家康』の中でも穴山梅雪がちらりと言っていましたが、もしかしたら最終的に故郷『甲斐』の方を目指していくと家康に伝えていたからこその別行動だったのかもしれませんね。結果としては『穴山が扮した家康としてルート+その後の家康の通った道=伊賀越えルート』それが家康の伊賀方面を通っていたという説になったかもしれないですね。

  34. 2つのルートの情報が出る理由としては明智側を混乱させる為に流言飛語で情報操作していたかも知れないですね、逆に言うとそれだけ明智側に命を狙われる可能性が高かったと見れるかも知れないですね(穴山梅雪は家康の影武者として宇治田原ルートを通った可能性もありますね)