まもなく東日本大震災から12年を迎えます。

お亡くなりになった方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
また、被害に遭われた方の一日も早いご快復と、今もなお不自由な生活を送られている方が平穏な生活を取り戻せるよう心よりお祈り申し上げます。

東北地方を襲った巨大津波…
昨年は沿岸部に停止していた列車の避難・誘導について解説しました。
今年は実際に現地を訪れ、どのような場所だったのか、また、発災後の鉄道の復旧について解説します。

𖧷𖧷𖧷𖧷𖧷𖧷𖧷

⚠️配信は不定期です💦

⚠️一般的、基本的なことを解説しております。鉄道には『例外』や『この限りではない』が沢山あります。鉄道会社によって違う事も多々ありますので、参考程度にご覧いただけますと、幸いです。

⚠️投稿している内容は、全て国土交通省や各鉄道会社、車両や信号、システムメーカー等がインターネットや書籍などで公表しているもの、また、新聞やネット、ニュース、鉄道系の雑誌などに多く掲載されているものを解説しており、『誰もがアクセスできる情報』です。

⚠️社員でなければ知り得ない情報や、会社の秘密、特定の会社についての質問はお答えできません。

⚠️コメントは良識のあるコメントをお願いいたします。他の方が不快に思うような内容は、削除させていただく可能性がございます。

よろしくお願いいたします🚃

43 Comments

  1. 自分もあの時の揺れ方。 今でも覚えています。
    急迫の事態の中で「最善の答えを」。 
     それを導き出すことの大変さを考えさせられました。 
    また、自身の体を呈して 多くの方の命を救われた方々に敬意を表します。

  2. もしよければ「緊急燃料輸送列車」についても紹介してほしいです!

  3. 取材・編集・配信お疲れ様でした。
    私は京都市で[1.17]、茨城県で[3.11]を体験し復興支援ボランティア活動に従事しました。
    [3.11]初震の50分後に茨城で震度6を体験し、モールの駐車場に地割れと褶曲しました。
    某市の社会福祉協議会が復興支援ボランティアメンバーを募集していたので参加を―
    あと48㎝津波が高かったら[東海村]も壊滅し首都圏の住民も強制避難するところでした。
    南三陸町で最期まで避難を呼び掛けた遠藤さんのことを私は忘れません、合掌。

  4. 高校を卒業したら、卒業旅行として東日本大震災の被災地を巡る旅をしようと考えています。私は滋賀で震災を経験しましたが、少しですが揺れたことを覚えています。テレビで流れた映像も印象に残っています。
    そんな被災地を巡る旅の予習として、この動画を何回か見返したいと思いました。
    来年合格して絶対に行きます!!

  5. 3:11 時計が地震発生時刻の数分後で止まっている…
    事実かは不明ですがもし津波の影響で壊れたのならばどれだけの早さで襲いかかってきたか考えてしまうものです。

  6. もう一度心構えを入れ直す為にも必要な動画です。編集、取材、配信お疲れ様でした。最近現職で亡くなった先輩がいました。いざって時には健康体である事も重要だと考える様にもなったのでユウさんもお身体を大事になさってくださいね。何時も素敵な動画ありがとうございます。

  7. 天災により犠牲となられた全ての方々の
    御冥福をお祈り致します、そして天災の
    教訓を風化させることなく活かし次の世代

    に受け継がれていくことを希望致します。

    ユウさま、配信ありがとうございます。

  8. 震災当時、南三陸方面仕事でよく行ってました。現地には、震災の年6月に各地に行きましたが、陸前高田の被害が特にひどかったです。線路が川に突き刺さっていたのが、今でも記憶に焼きついています。

  9. あの日、他の局の視察を終えて、山手線で秋葉原から新橋まで乗り、地下街を歩いているときに、地震が発生しました。
    目眩かなと思いましたが、地下街を支える太い柱が斜めになりながらも、支えていました。
    乗る電車がもう1本遅いものだったら、車内に缶詰になっていたかもしれません。
    首都圏のJR東路線は、その後運転見合わせが続き、翌日昼頃に運転再開しましたが、本数も少なく満員。
    その後は、電力不足もあり、各社間引き運転や、区間運休でしたね。

  10. 震災時に関東から東北へ臨時の石油列車が走りましたがその際に使用したDD51という機関車のナンバープレートは今でも郡山の機関区で飾られています。
    また常磐線ではED75という機関車が津波の被害を受け廃車になりましたがJR貨物の中央研修センターのエントランスにはその機関車のナンバープレートと津波の被害にあった際の写真が一緒に飾られています。
    JR貨物の新入社員はもちろん、そのほかの社員、グループ社員も定期的に足を運ぶ場所なので、あの日のことを思い出すとともに鉄道員として改めて気持ちを引き締める想いになるわけですね。
    あ、雑誌かなにかに載っていたのを見ただけですよ。

  11. このような動画を編集し流してくださるYuさん、素晴らしい思いやりの心と鉄道愛に心から敬意を表します。あなたのような日本人がいることが誇りに思えます。

  12. 司令の指示よりも地元民のこっちの方が高台だといわれ判断した考動 その考動が吉と出るか凶と出るか分からない中での判断
    "疑わしい時はあわてず、自ら考えて、最も安全と認められるみちを採らなければならない" 鉄道員してるとその考動がいかに大切かわかりますね

  13. あの日は地元横浜におりまして、震度5強とのことでしたが、
    それまでの震度5とは比べ物にならないくらい大きく長く揺れ、
    東北の方には申し訳ないのですが、やはりとても怖く感じました。
    そしてすぐ停電になりました。
    仙石線は震災前に乗る機会があり、変貌ぶりに唖然。
    また南三陸町役場には震災後に行く機会があり、
    悲しげな千羽鶴とまだ片付けられていない瓦礫や自動車が山のようでした。
    相馬・南相馬には何度か仕事がらみで応援に行きました。
    自分の命を顧みず、人を救うために多くの方が行動されたことを、
    あらためて思い起こさせて頂きました。貴重な動画、有難うございます。

  14. 広電も原爆投下の3日後には動き出した。
    やはり列車は復興の息吹を感じる地域の宝だと思う。

  15. 自分の同期も都内を電車運転中に地震にあい、最初は『ホームに車体が当たったか?』という振動を感じて急停止させたそうです。そしたら、まさかの地震での揺れと音でビックリしたというエピソードを聞きました。

    都内はまだ駅員などの仲間が近くにいてくれるから心強いかもしれませんが、地方となればそうはいかないですよね。自分の判断、または長く住まれてる人達の知恵や判断もかなり重要ですね。

    今後もあちこちで地震予測が出されていますので、備えをしておくに越したことはありません。地震が来なければ『無くてよかったね』、来てしまったら『役に立ったね』と思えるよう、各自がしっかりと備えることも必要ですね。

  16. 1995年の阪神淡路大震災は、鉄道の耐震対策、特に新幹線の耐震対策を行う事になった地震です。
    新大阪駅から西明石駅の間の高架橋の橋桁が、確か3ヶ所、落橋しました。
    しかし、幸いな事に、始発が発車する前だったので事故にはなりませんでした。
    この地震の後に、新幹線の高架橋の耐震補強工事が、行われました。
    そして、耐震補強工事が行われた結果、中越地震では、震源が上越新幹線の近くで有ったにもかかわらず、高架橋の落橋などは、起きませんでした。
    この地震の時に、走行中に新幹線が脱線して線路から大きく逸脱しただけで済みました。
    もし、耐震補強工事が行われていなければ新幹線が、落橋した高架橋から転落して多くの死傷者が、発生したと思うとぞっとします。
    また、新幹線以外の在来線も多くの被害を受けました。
    中でも神戸高速鉄道の大開駅で起きたトンネルの崩落は、地震発生時に通過する列車が、有りトンネルが崩落する前に、通り抜けていたそうです。
    地震対策には、おそらくゴールは有りません。
    いくら対策を施しても新たな地震が、起こるたびに、対策が必要になるでしょう。
    これは、数年前の福島県沖で起きた地震で脱線した新幹線の車両が、2編成廃車となったことから新たな耐震対策を考えないといけない事を示しています。

  17. 3.11の限定動画拝聴しました。

    わざわざ被災地に足を運んでいただきお疲れ様でしたということと、地元民として感謝しております。

    私の自宅は津波は来なかったのですが地震で半壊しました。

    映像で三陸鉄道の話が出てきましたが、宮古-田老間も震災直後から代用閉塞で無料運行していたのです。地元民は列車の警笛に元気づけられたようです。また、甚大な被災を受けましたが、この様子を見ていた国が、三陸鉄道の復旧に国の補助を出すことを決めたみたいです。

    今は全線復旧してますが経営は厳しい状態です。地元民として支援したいです。

    長々と失礼しました。

    ご健康とご活躍を祈念しております。

  18. 私、震災の4年後位に現地に行きました。
    直後は無理ですが、ある程度落ち着いたら現地で美味しいもの食べてお土産買って、
    お金使うことが、復興の助けになることを感じました。

  19. 思い出しました。その時三陸鉄道の貸切り列車を盛から釜石まで乗ったんですが、地元の方は定期列車(時刻はほとんど覚えている)では無い臨時列車=観光に来てくれた、と分かっていて多くの方が手を振ってくれました。

  20. こんばんは。
    さまざまな状況の中、人と人とで向き合うことが大切ですね。
    ヒトはヒトに救われる。そう感じました。

  21. 鉄道への思いと、震災の教訓を併せたすばらしい作品ですね。
    使用停止の出発信号機を取り上げるところが、さすが!と思いました。ありがとうございます。

  22. 3月11日を迎え、最初に観たのがこの動画です。
    私は埼玉県に住んでいるので、周囲で人が亡くなったりしてはいないのですが、あの日のことは絶対忘れられないし、忘れてはいけない。
    日本の鉄道マンたちの資質の高さも、改めて実感しました。
    ユウさん、この動画を上げていただきありがとうございます😂

  23. 仙石線の上下列車の乗務員の行動は両極端な対応になりましたが、野蒜の地は「安全とリスク」を考えられる地です。奇跡の丘に停車した下り列車も、あれ以上の波高の津波がきたら非難された結果になったかも知れません。その他に“おさとう山”のエピソードもあります。ぜひ、歩くことをお勧めします。

  24. 2023年3月11日 改めて被災された方に お見舞い申し上げるとともに 犠牲になられた方のご冥福お祈り申し上げます
    自分は建設業で 震災当時 岩手県宮古へ東京から災害復旧に行きましたが
    家は流されてコンクリートの基礎だけが残っている、港は打ち上げられた木材が海水によって異臭を放ってる
    道路は凸凹になり亀裂も走ってる 地獄絵巻そのものでした
    被災されたかたには あっという間の12年だとおもいます。
    12年たった今でも不自由な生活 不安な日々を過ごされてると思います
    どうか、心安らぎ笑顔で過ごせる日々が 一刻も早く参りますよう、お祈りさせていただきたいと思います

  25. 2023.3.11に見ています。冒頭の案内にユウさんの優しさを感じます。被害に遭われた方のご冥福を祈ります。

    当時は関東内陸部の職場にいました。これまで感じたことのない揺れに肝を冷やしたのですが…まさかあんな事態になっていたとは…
    それにしても、広範囲かつ沢山走っていた列車関連で、死者が全くなかったのはすごいことです。現場の鉄道マンの行動に助けられた方はどれほどか。

    震災の1年後に石巻市方面に出かけました。仙台駅新幹線ホームに立った時、榊原光裕氏の発車メロディを聞いてこみ上げるものがありました…

  26. 最高にいい動画でした。
    涙が止まりません。
    ありがとうございました🙏

  27. こんにちは。動画、感動しました。今年は脚を怪我してしまい、行けませんが、毎年3月11日は南三陸と、松島へ足を運んでいます。野蒜駅へ最初に行った時は、まだまだ鉄柵が折れ曲がり、線路も曲がり…という状況でした。今は大分綺麗になりましたが、今は亡き野蒜駅に想いを馳せます。
    南三陸町の防災センターの近くに、志津川駅の一部がまだ遺されていますね。

  28. 品川駅改良工事の作業中に地震がきました。
    港南口の数あるビル群の中でもJR品川イーストビルが一番大きく揺れていて、倒れるんじゃないかと思った。
    品川駅の自由通路からも凄い音が鳴り響いて、どうなるかと思った。
    このシーンは忘れる事ができませんね・・・
    あと、全ての電車が止まったので、品川から東京駅まで歩いたのを思い出すなぁ・・・

  29. 涙が出てきました。
    私も宮城県に住んでいます。

  30. 現地での取材、お疲れさまでした。万感胸に迫る内容で、涙が止まりませんでした。
    風化させず、「備え、伝えて」いくこと大切さを学ばせて頂きました。
    私も被災された方のご冥福と、ご快復、平穏な生活に戻られることを心よりお祈り申し上げます。

  31. 震災から12年を迎えた昨日、野蒜に行っていました。
    野蒜駅は約3mの津波が襲って来たのですね。
    列車が止まった位置は標高10mと聞くと、小学校よりも高台にあった事が分かりました。
    地元の方が消防の関係者であったのですね。

  32. この災害の後に、全国の鉄道マンが燃料列車を動かした。保線区員は、ほぼ不眠不休で安全確認や補修に当たったらしい。
    ある若い職員は、通常、半年程度掛かる動力車免許を十日足らずで取得するほど熱心に学び、燃料列車の運転に当たったらしい。
    高速道路が四通八達する中、やはり鉄道は、無くしてはならないインフラだと思う。

  33. 震災当時、中部地方で勤務する陸上自衛官でした。震災翌々日から宮城県の山元町に入りました。
    一番最後のほうに写真が出てきた常磐線の坂元駅近くで活動しました。
    当時は津波で全てが流され、一面茫々とした野原の中に、坂元駅の陸橋と、昨年の動画にあった常磐山元自動車学校だけがポツンと残っていました。
    今でもその時の光景は忘れられません。

  34. 震災当日は地震や津波の報道が主で各地で壊滅って報道されており、鉄道の状況がなかなか報道されず、やきもきしてましたが日に日に鉄道の状況が報道された時には、キハ48や205系がー!乗客や乗務員は?路線は廃止?かと心配しましたが、乗客や乗務員は避難して線路も三鉄が北と南が繋がり、リアス線として開業し感動しました(´;ω;`)
    動画制作ありがとうございます(´;ω;`)

  35. 南三陸町の職員の話は涙なしには見られませんでした。
    自らの命を顧みず、多くの町民を救った。使命感がそうさせたのでしょうか?
    怖くないはずはなかったと思います。それでも最後まで避難を呼びかけ続けた。
    自分がもし同じ立場だったとき、同じことができたのでしょうか?

  36. すぐに視聴するのを躊躇しましたが、今夜拝見させていただきました。ユウさんの気持ちがいっぱい詰まった動画ですね。感銘しました。

  37. 距離標や勾配標、かつて使用していた分岐器や出発信号機を撤去せずに残しているのが、とても印象に残りました。
    「かつてそこに鉄路が走っていたことを忘れないでね。」というメッセージと受け止めました。

  38. ユウさん、いつも勉強になる動画をわかりやすく解説して頂けるので、実はユウさんの動画を見つけた時、すぐにチャンネル登録をさせて頂き、いつも楽しく拝見していますが、もちろん東日本大震災のあの日・あの時の動画は、私も鉄道好きの人間として、しっかり焼き付けるくらい見ています。
    あの時の実態は私が思っていた以上に悲惨なものでしたが、鉄道マンの人命最優先の行動で、当時の乗客に誰一人被害が出なかった事は、本当に私は感動し、改めて「絆」を実感しました😊🙇‍♂️ 私はあの時は愛媛県に在住していましたが、出身は神奈川県であるため、実家に心配して連絡したら停電していました。必ず近い将来に来ると言われている、東南海地震が来たら、私の出身地はほぼ全滅します🥺 ある神社の本殿を除いては…🥺
    私自身は地震には慣れていますが、津波はどうしようもないので、常に気をつけています😊

    長文、大変失礼いたしました🙇‍♂️

  39. 3.11 忘れませぬ。
    当時は大井埠頭で働いていて、埋め立て地だったのであちこち噴泥が発生して、お台場だったかで爆発事故。電車は3日間動かずで、食料品も手に入らず「華のお江戸のド真ん中で飢餓かいっっ!」てなりましたね。

    3.11の時は私の郷里南房総は被害はそれほどでもなく、津波も銚子と太東岬で緩くなっていて襲来したのかもわからなかったです。
    震源が近かった大正時代の関東大震災で震度7を記録しているので、こちらの記録写真と重なります。
    記録写真には、館山駅で転覆した機関車、
    トンネル擁壁崩落、橋梁落下してレールだけ宙ぶらり。
    等。

    内房線の君津以南の区間で、黄色三角形に黒い波が描かれた表示板(信号喚呼位置標に似ています)が架線柱にありますが、あれは津波の警戒に対する表示でしょうか?

  40. 規則に縛られて亡くなる命もある。規則を守るのは平時においてはとても大切だけど、有事の際にも規則を丁寧に守る必要はない。規則はあくまで規則、机上で考えつく限りの事しか網羅していない。現場は机上の計算ほど甘くない、現場のことは現場が一番わかる。現場の判断を重んじ、柔軟に行動できる規則を作る。

    未曾有、前代未聞、そんな災害が頻発する今の日本に必要な改革ですね。