東日本大震災から10年。あの日、宮城県気仙沼市を襲った「黒い津波」。なぜ津波は黒く変色したのか。最新研究と実験から見えてきた正体とは。そして、震災前のように活気あふれる街を取り戻したいと願う市民の奮闘の10年を見つめます。※地震・津波の映像が流れます。

 今月6日、“復興道路”と呼ばれる三陸道が宮城県内の全線で開通しました。

 「交通量はものすごく増えると思う」(菊地正男さん)
 「気仙沼行ってみたい、大島行ってみたいとか、東京の人でも無料だったら足のばそうかという気になるかも」(菊地幸江さん)

 復興道路の開通を喜ぶ菊地正男さんと妻・幸江さんは、いま、宮城県気仙沼市の大島で飲食店を営んでいます。10年前のあの日、2人はそれぞれ、市内の別々の場所にいました。東日本を襲ったマグニチュード9.0の巨大地震。揺れからおよそ30分後、街をどす黒い津波が襲いました。

 「家が“ボン”って浮いた」(「黒い津波」に流された 菊地正男さん)

 菊地さんがいたのは気仙沼湾の突き当たりに位置する鹿折地区。津波の終着点となり、大きな被害が出ました。車で孫を幼稚園に迎えに行ったあと、「黒い津波」に遭遇しました。

 「(車の)ドアを開けたら津波が来た。真っ黒い波が、ズワーと盛り上がるみたいに」(「黒い津波」に流された 菊地正男さん)

 これは、鹿折地区の住民が撮影した写真。津波が壁のように迫っていることがわかります。菊地さんは、慌てて車を乗り捨て、近くにあった建物の3階に逃げ込みましたが、その建物ごと流されたといいます。

 「3階まであがったときに波がドワーって来て、家ごとだから流されたのが。そのときはもうだめだと思った」(「黒い津波」に流された 菊地正男さん)

 最新の研究で、「黒い津波」には、より大きな破壊力のあることが分かってきました。東北大学などが解析したデータを基に、JNNが当時の津波を再現しました。津波が気仙沼湾の狭くなったところに押し寄せてきたとき、黒いものを巻き上げながら、街全体を浸食していきます。この黒いものは、海底にたまっていたヘドロや砂、泥といった堆積物。その量は、10トンダンプカーに換算すると、およそ10万台分に相当するといいます。

 中央大学の実験施設で、堆積物に見立てた細かい粒子を巻き込む「黒い津波」を再現しました。ハイスピードカメラで比較してみると・・・。水の場合、津波の先端はなだらかに見えますが、「黒い津波」は、盛り上がったまま壁にぶつかっています。面でぶつかる「黒い津波」の圧力は、通常の津波より、およそ1.5倍強いことがわかりました。

 「日本はいろんなところに砂などがたまっているので、(黒い津波は)気仙沼に限ったことではなく、あらゆる場所で起こる可能性がある」(中央大学 海岸・港湾研究室 有川太郎教授)

 「黒い津波」に家ごと流された菊地さんは、流れ着いた先で孫と共に救出されました。妻の幸江さんは、この映像が撮影されたビルに避難し、難を逃れました。震災後、気仙沼に復興の明かりを灯してきた仮設商店街。菊地さん夫妻は、生まれ育ったふるさとでの再建を誓い、ボランティアや観光客らに海の幸を振る舞ってきました。

 「遠くからのリピーターが本当に多い。近くの親戚よりも遠くのお友達」(菊地幸江さん)

 大勢の人たちに親しまれてきた仮設商店街も、4年前、市の区画整備事業に伴い、その役目を終えました。そして現在、商店街跡地は空き地のままです。

 湾を取り囲むようにして建設された防潮堤。高いところでは、4階建てのビルに相当する高さです。計画された防潮堤は、宮城県の沿岸だけでも総延長233.8キロ、総事業費は7000億円にものぼりますが、完成したのは6割にとどまっています。

 真新しい災害公営住宅。その周辺には、まだ空き地が目立ちます。気仙沼市の人口は、この10年でおよそ17%減少しました。

 「若者がいない。高校を卒業して9割がよそに行ってしまう」(菅原英樹さん)

 鹿折地区で母親と共に酒店を営む菅原英樹さん。津波で父親と祖父母を亡くしました。代々受け継がれてきた酒店も「黒い津波」によって倒壊。菅原さんは何もかもを失いましたが、以前のように粒ぞろいの店が立ち並ぶ風景を、そして、人々の活気があふれる街を取り戻していきたいと考えています。

 「記憶の中にまだ前の街が残ったままなので、にぎわいをあまり感じられない。酒屋の立場で何かイベントなど人の集まりを作る手助けができたらいいなと」(菅原英樹さん)

 菊地さん夫妻は、ボランティア団体の力を借り、大島の高台にある古民家を改築。3年前、飲食店を再開させました。あの時、家ごと流されながらも助かった孫は、小学6年生と高校1年生になりました。

 「こうやって生きているって、すばらしいこと。よく妻に言われる『もらった命なんだから大事にしなさい』って。大事にしなさいよ」(菊地正男さん)

 まだ10年、もう10年。被災した人たちに区切りはありません。(09日23:51)

24 Comments

  1. 復興は制限のもとで行われなければならない。80年後にまた来るのだから。世界一の津波多発地帯である事を忘れてはならない。 漁村 意外に考えられない。

  2. 絶対 また 来る 耐性を  80年以内50% 100年以内90% ぐらい

  3. 俯瞰写真の防潮堤って長さこそわかれど、どんだけ高いのかつかみにくいから、人と比較した写真見ると驚くほど大きいのが分かる。

  4. この番組いいな、ストレートで。不必要にお涙頂戴スタイルにしてないし、言葉遣いも自然だし。

  5. どんどん風化して忘れられていくんだろうな
    災害の事は定期的に取り上げていかないと!!
    油断して忘れた頃に来るから

  6. 打てる手がないなら意味が無い。
    「ではどうしろと言うのか」という結論がないなら問題提起だけではなんの意味もなく、いたずらに不安にさせるだけの無意味な自慰行為。

    叩かれるのを怖がって、独自の答えや見解、結論を出さないのなら何が言いたいのか分からない、ただの垂れ流しのクソと同じ。

    中立で資料として残したいのなら半端な編集やナレーションすら要らない。

  7. 30分後に津波がきた。
    って事は

    逃げる時間あるって事か。
    港町に住んでるので
    いつ大きい地震くるかわからない

    3.11があって
    沢山の映像を記録してくれたおかげでいろいろ勉強なりました。
    本当に恐ろしいです

    亡くなった方にprayers
    we will never forget

  8. (比較的、海が綺麗に思える)沖縄に限っては、津波は黒くならないような気がしますが···。

  9. Ijust met a ew people the other day at my local mall and they where surivers from Japan living in Pa now God bless Japan

  10. 防潮堤意味なくはないんだろうけど、温暖化で海面上昇したらあれだよな。
    津波が到達して防潮堤超えるまで高台に上がる時間稼ぎにはなるだろうけど、
    これで避難しなくても大丈夫ってなると怖い