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承久の乱は作り話!?『吾妻鏡』のあり得ない記述
▼主な参考文献
承久の乱と後鳥羽院 (敗者の日本史)
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日本史研究叢刊44 『吾妻鏡』の合戦叙述と〈歴史〉構築
https://amzn.to/3hNz6gr
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【目次】
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#鎌倉殿の13人 #考察 #大河ドラマ #日本史 #承久の乱
39 Comments
どうでもいいと言われそうだが「承久の乱」ではなく「承久の変」であるべきだと思う。朝廷の側から動いたのなら、乱ではないよねぇ。
放送当初の山木館襲撃などで描かれたように、著名な武士(団)で数騎から十数騎程度の規模ではないかな、と根拠もなく想像しています。
馬も甲冑も高価ですし、当時の交通や兵站が数千騎を支えられるようには思えませんし。
お疲れ様です。いつになく硬派な内容でした。
在京武士が後鳥羽にほぼ従った一方で、東国武士は(政子の演説もあり)まとまって対処できた、と言うのは、「京の近くに本拠を置くと朝廷勢力に取り込まれてしまう、それを避けるため鎌倉に幕府を開く」とした頼朝の慧眼ですね。無論ここまでの戦いになるとは思っていなかったでしょうが。乱そのものは本編でもこれからです。寂し楽しみ。
戦国時代に足軽が出現した後の国人の動員できた兵力が1万石あたり300人~400人くらいだったから
さすがに19万騎はねぇ・・・
地図があるととても分かりやすいですね。
来年の大河でも地図を使って解説お願いします。
勝者が兵数を盛るのは古代・中世の習わしだと思えばいいと思いますね
それだけの人望があったと後世に伝えればいいですから
幕府軍の実際の兵力は半分がくらいが妥当だと思いますね
鎌倉殿は宇治川の戦いだけやって、あとは京入場で終わりかも🤔
東アジアでも次々に終焉していた神権政治や王権政治
2世紀に中華から伝播し半島でも10世紀に発生
実力で政権が打倒される事態が当たり前になった
上皇サイドの撤退があまりに呆気ない印象です。もしかしたら、在京御家人たちも上皇の顔を立てて従っただけで、殆どが早期和平派だっのでは?と勘繰ってしまいますね。
西国の勢力や比叡山の判断も、その空気を読んでの行動だったんじゃ無いかと……
内線作戦するにも上皇軍の練度とか幕府軍の規模を考えるとかなりキツそう。。
幕府軍19万人、陸上と海上自衛官を合わせて18万3千人。
vs朝廷軍1万9千人、航空自衛官の半数2万2千人。
火器等の装備品は無しで車両と小銃で陸・海自衛官vs航空自衛官1/2の戦い。
武士道先生🥰
動画、ありがとうございます!
歴史上の数値には文化的数値と理数的な数値がございね。 大陸は文化的数値のプロパガンダが得意ですが、日本は明治維新以降では矢鱈に理数的数値に拘泥しているようですね🤣
なんだかんだ鎌倉側勝てたのは奇跡だと思う
騎馬武者で19万騎って…随伴の従者とかも含めるとどこまで兵数膨れ上がるんでしょうか?やっぱり盛ってるのかな?
お貴族様が、ずる賢いのは昔からのお約束。
まぁ、坂東武者はバーサーカーですからネ。
情報をわかりやすく変換して下さっているので、スイスイ頭に入りました。解説ありがとうございます。
日本には昔から話半分という便利な言葉がありますね、それを見越して更に倍に盛ってるかもしれませんが
北陸道で北条朝時と糟屋有久が戦ったっていうのが、比企の因縁というかそういうのがあってエモい。
どうやったら朝廷軍が勝てたか、歴史好きで集まって討論したい🤔
これ鎌倉方が京都に攻めのぼらずに関東で守りを固める作戦をとってたら、その間に九州四国の武士たちが集まって、戦力は互角になってたかもなぁ
時代が時代とは言えど、天皇家の権力を武力でねじ伏せ、軍事家が政治を乗っ取るって相当ヤバいよね
やっぱ歴史の勉強に地図は必須ですね〜非常にわかりやすい!
後鳥羽め、
ざま~。。。
来週が楽しみだ。。。
高速道路の戦い
現在、陸上自衛隊の定員が約15万人
ウクライナ侵攻でロシアが当初配置していたのが17~19万人、だそうです。
19万騎は盛ってるなぁ・・・
河野(かわの)氏?
朝廷対幕府という単純な戦いではなく、朝廷側の無謀な戦いでもなかったという武士道さんの総括、良かったです。来週の承久の乱に備えてのタイムリーな動画、ありがとうございます。数はかなり盛っていると思われますが、具体的なルート解説、とても面白かったです。
官軍の超大敗ですぐ終わったという内容ばかりだったので、こういうの欲しかった。
えー、河野氏上皇側だったのか。
よくそのまま居れたな。
やっぱ源平の時源氏に付いてたのがでかかったのか?
21:25 時房のあのシーンはこれの伏線…?
地図を使っての解説で、人、経路、戦場の位置や動きが、より具体的に入ってきましたよ!次の回へ向けて、良い予習になりました。
いつもありがとうございます🐉
旅先の松山にて最終回を満喫します
幕府の兵数は当時の日本の人口がおよそ1000万人だったことから実際は幕府軍二万騎、朝廷軍は七千から八千騎くらいじゃないかと言われていますね
兵站どうしてたんだろう?現地調達なのかなぁ?
地図を使った新しい解説の試み、とてもわかりやすくて良かったです👍衛星写真なのがまた良し!地形が鮮やかでさらに分かりやすい😄(でも地理苦手な方は、どこの話かついていけないかも?)
この試みは、来年のどうする家康の解説に向けた準備なのかな〜と思いながら見てました😁
多くの歴史家が誤解しているが、山田重忠(?~1221)は尾張源氏(満政流)である。
献策した積極攻勢論が受け入れられていれば、史実は変わっていたかもしれない。
馬一頭に5mぐらいのスペースが必要として、10万騎が一列に並んだら500km、大阪から東京までの列になります。まあ間違いなく盛ってますよねww
名誉より恩賞の土地を選んだ時代背景ですね。
藤原秀康って俗説レベルで和田殿の甥っ子の子という説もあるんですよね。
俗説なんで大河ドラマで直接触れなくても良いけど、隠し要素っぽく役者さんを髭面にして欲しかったですw
もしくは、承久の乱の合戦の時に泰時が「あの単純な挟み打ちは和田殿のごとし」とかうっすら行ってくれないかなーと思います。