戦国時代の強い武将といったら「織田信長」、「武田信玄」はマストですが、実はこの二人「直接対決」をしたことがないんです。
もしも、「三方ヶ原の戦いの」の後、武田信玄が亡くならずに直接対決をしていたら、どちらが勝利していたのか気になるところです!
今回は、武田信玄と織田信長の戦略や考え方の違いを交えて二人のエピソードを解説します!
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44 Comments
ある意味環境や父親の行動でこうなったんだな
比叡山焼き討ちはなかった(一部に留まった)のでは??
肝がここになると、この動画の根本が変わる。
家康が喧嘩を売っていたというのもある。
互いの領土が離れてるから(今の山梨県と愛知県)ほとんど関わる事がなかったんだと思います。
動画にもあるように織田信長は、商人気質、つまり戦い方は、財力に物を言わせて最新兵器(火縄銃など)と相手より多くの農兵をサラリーで雇って戦うという単純な戦法だった。一方信玄は、根っからの軍人気質で最強騎馬軍団(これについては大将クラスだけが馬に乗り、あとは歩兵だったとする説もあり)と統率力に優れ、尚且孫子の兵法を使って戦う用兵の妙があり、とんでもなくいくさに強かった。しかし、信玄も火縄銃の重要性を理解していたが、経済的事情と内陸だった為硝石や弾丸があまり用意できなかったという弱点があったが、しかし信玄の時代はまだ火縄銃がそんなに主役じゃなかったから信玄にとってはそれは致命的な欠点ではなかった。しかし勝頼の時代になると火縄銃が全盛期になっていたにも関わらず武田軍の強さに自信過剰になっていた勝頼が長篠設楽原の戦いで、少ない兵力で陣城まで築いていて万全の準備を整えていた織田徳川連合軍にただ真っ向から突っ込んでいくだけという愚かな戦いを行った為に大敗北を決して約1万余りの武田軍の命や多くの重臣達の命を失ってしまい武田家滅亡のトリガーになってしまった。そんなこんなで織田一強の時代に推移していったのでした。
信玄は、絶対負けない戦をします。たとえ引き分けでもいいと言う考え方です。
信長は、もっとも合理的な武将なので、信玄と戦うのは兵の無駄、金の無駄、
一番は時間の無駄といえる。何年にもわたり戦った謙信との川中島合戦がいい例
結論とすれば、極力戦いを避け、その間に天下を取って
しまおうかと。天下を取ってしまえば武田などどうにでもなる。たとえば秀吉の小田原城攻め
のように、いくら北条強しでも天下人にはどうあがいても勝ち目無し。
でもはたして戦うことがあるでしょうか?信玄は合戦は得意、でも城攻めは苦手、
信長は合戦は苦手である、でも城攻めは得意(羽柴、明智など城攻め名人がおり、
兵数も多く、兵農分離により長期戦が可能)信玄は、信長が天下を取る前に、野戦で短期決着を
図ろうとするが信長は誘いには乗らない。信長は、やはり天下を取ってから20万以上の大軍で
四方八方から信濃、甲斐に侵攻するでしょう。(史実では、信玄から勝頼に代替わりしていましたが)
甲相駿三国同盟が大して信用出来ていなかったし、豪雪地帯で農繁期もあり戦争してる場合でも無かったのでは?
侵略されれば別だっただろうが
信長は信玄がもうこの先それほど長くはないという情報をすでに得ていたのであえて直接対決を
せず時を待っていた
信長とすれば戦う相手は幾らでも要るし、強敵だと言う認識はある。何時かはぶつかるが、負ける可能性が有るのに無理に戦う必要性は無い☀と言う感じかな☀
信長は勝てる戦しかしないようにしていた。本当に経営者感覚だなぁ。
((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
信長は中央の権力と金の力があればいずれ武田を潰せると思ってたんじゃない?
直接対決するよりは一緒に幕府を担いでもらった方が楽やしな
時代が始め信玄を選び次に信長を選び秀吉を選び多分?時代に翻弄されたんだね
信長は今生きていたなら 総理しながら
日本を良くしていたと思います信玄は総理と、言うより県知事で
人の生活重視し
豊かにしているって思います
キャパシティが違うんだね 家康は前総理の下で我慢我慢 でも ここと言う場面に総理になる! 信長は発想に人並み外れなキャパシティに恵まれてた気がします
草木が絶えぬから。探すと名言も多いですね信玄公は。
信玄からしたら義昭から信長包囲網に誘われたっていうのは略奪許可もらったようなもんでしょうね。家康、信長から見たらやたらハングリーでガツガツしてる割に勝ってもあまりメリットのない相手だから、なるべく戦いたく無かったでしょう。
信玄は信長に二回負けたと思う。一つ目は同盟関係を信玄に破らせて道義的に信長が上になった事。もう一つは家康を武田に寝返らせられなかった事。家康が生きているか武田に寝返らせられない限り、信玄は信長と戦えない。三方原の戦いの後で武田軍の動きが緩慢になったのは、信玄の病気が悪化した事に加えて家康が寝返らなかった事でどうすればいいのかわからなくなったのではないかと思っている。
工藤かずや氏作の漫画「信長」の中に、「武田信玄も上杉謙信も共に田舎大名で終わる」というの一コマがありました。この表現が信長、信玄、謙信の立場をよく表しています。
間違いだらけの織田信長【倉山満】を見るとはっきり分かりますよ。
山梨県は、海無し県。
信玄は、産まれた場所が悪かった。
塩止めを食らった事でもわかるよね。
信長のように、居城を次々と変えて
いったように、信玄も駿河に拠点を
据えるぐらいの発想の転換が必要だった
のではないですか。
海運が、戦運も変えたかもしれません。
川中島で五回も対陣して時間を費やし過ぎて感じでは有るな~どのみち相容れない相手同士だろし手を取り合う事は出来なかったんだろうね・・
両者が本気で戦って両者の力が萎えた時に、喜ぶのは誰か。
最近では武田には騎馬隊は無かったのが説が支持されている。
武田軍は鉄砲を用意していたが、弾を充分に用意出来なかった。設楽長篠の戦いは八時間かかっている。関ヶ原より長く戦いをしている。
単純な話です
織田は豊かな畿内とその周辺を征圧するために忙しく、貧しい山国には用がありませんでした
武田は単なる実力不足です。朝倉と浅井を足した程度のパワーしかないので、徳川をいじめる以外、選択肢がありませんでした
直接対決があるとすれば織田の覇権が根本から揺らいだ時だけです
織田信長一人が天下布武のモチベーションだったのかいただけない。他の勢力ももっとアグレッシブでいないと。そりゃ信長抜きに出るでしょう。
信玄はとにかく地勢的に圧倒的に不利。兵を食わせる石高自体が貧弱だった。
甲斐と信濃合わせても尾張1国よりたぶん石高は低かったはず
武田は領地が山で塩も無く石高も低く長期戦では信長が有利だろうし鉄砲無いのも弱み 信長は安濃津 堺と豊富な資源があるからよほどでは負けないしまぁまぁ信長が有利だろうね
もし織田信長を倒す可能性がある大名と言うなら信玄、謙信しか居ないよね、昔から強い奴とは誰しも闘わないのが常識かな、やはり負けたら終わりなのはいつの世も同じですね?
信長上洛前では元々仲良くて、決裂したのはそれこそ徳川と武田が仲悪化してからだし(そして氏康が死ぬまで家康が優勢だった)、本願寺との和睦に武田を仲介に使おうかってくらいの仲だった(顕如の嫁と信玄の嫁がそれぞれ姉妹) 朝倉義景らがメッチャ頑張ってる頃には仲良しで、かなり末期になってから信玄VS信長だからそれで協力しろと言われても…だったろう(朝倉等からしたら)
戦術や兵の練度は信玄。
経済力や物量は信長。
これは第二次大戦のドイツとソ連の関係に似てます。
信玄が勝つには電撃戦で織田領に侵攻し、決戦を強いて速やかに信長を破るしかない、これにに失敗し長期化すると、消耗戦となり物量や経済力、また遠征中で補給に難がある武田軍は、モスクワ攻略に失敗し、ソ連の物量に押しつぶされていったナチスドイツと同じように敗北するでしょ。それが具現化したのが2年後の長篠。信玄ならあそこまで惨敗にはならなかったでしょうが、信長の軍事力と真向勝負したら信玄も負けてたでしょ。
ただの信玄と信長の説明やん。くだらん
何で北条氏政と今川氏真の絵なのだろう?信玄の関係深いのは北条氏康と今川義元では
信玄の肖像画も、別人(畠山氏)の可能性が高いものかと
画像があってないの多すぎですね
親方様の信玄は「武将」と言うより「兵法の軍師」なので、信玄「軍略と騎馬隊」VS信長「兵力と鉄砲隊」です☝
ネームの百足衆は「金山衆の一派」で「伝令」も兼任する隠密部隊です☝
自分の先祖「柚木城跡」の城主です。
武田騎馬隊を率いる峡東地域を護衛しておりました。「主に雁坂峠」
織田信長討伐命令を受けた親方様「信玄」は進軍途中で息絶えたのは有名な話題です☝
信玄の一番の弱みは本拠地の甲斐に日本住血吸虫症が蔓延していたことよ
これではおちおち田んぼを増やすこともできやしないし人口もなかなか増えない
川中島の12年の歳月か痛いですね。
長篠の戦いは、織田徳川連合軍が野戦陣地を要塞化してるとこに、武田が力押して負けたて感じがする。イングランドのロングボウ兵に突撃して全滅するフランス騎士みたいな~w
この動画にアップされている信玄の肖像画は本人ではない可能性が高いようです。
信長は信玄の体の不調を知ってたから無理して戦う必要は無かった。信玄が死んでから武田を滅ぼせば良く日本の為なら信長は必要な人間。信玄は農民達を守る内政が良かったんだよ。まあ2人が本気で戦をしたらどちらも無事には済まないだろうね。
信長にとっても敵だらけだから、それだけは回避したかったはず
敗戦を2、3度位に抑えないと「戦下手」呼ばわりされるこの理不尽
武田信玄は五分の勝ちが1番良いと言っていたり、なるほどなぁとなる武将でとても好きです。
信長様は大胆な軍略家
朝倉、顕如、今川相手なら信長自ら勇敢に突っ込むのに自分より勢力が圧倒的に劣る信玄ただ一人に震えた覇王。信玄が最初から元気で義景のアンポンタンが兵を引き上げなければ、兵力が分散してる織田軍は各地で武田軍に大敗。が最後は我々の歴史では悲劇の英雄となった長政が信長を打ち取ると勝手に予想。
信玄は謙信に嫌われ、駿河に侵攻して三国同盟を壊し、遠江を攻めて家康との約を違え、信長との同盟を破り怒りをかった。北条氏政にも不信感を持たれていて、もし信長との直接対決があったなら周囲から袋叩きにあったのではないか。
強敵と直接対決より、上洛し天下に号令し、余勢をかり版と!勢力圏拡大を優先させたのです。その上、圧倒的な勢力優位を確保した後、武田をやっつける手筈だったのでしょう。私もその様にします。勝頼に代替わりしたが、それに近い形になりました。信長は単なる武将としてだけでなく、戦略家、卓越した政治家であったのです。
勝率を見ると一回の武田信玄が買った可能性が高いと思いますが、信長は前面の兵を足軽に限定することで負けても立ち直りやすいシステムを作っていました。
何回も戦えば信長が勝ったと思います。