■関連動画
・三浦義村解説
・三浦一族のルーツ
・三浦一族ゆかりの地ロケ
▼主な参考文献
三浦一族の中世 (歴史文化ライブラリー)
https://amzn.to/3Khp1Be
北条氏と三浦氏
https://amzn.to/3nI6Tas
現代語訳吾妻鏡(吉川弘文館)
など
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
【目次】
0:00 前置き
0:58 承久の乱と三浦兄弟
4:40 伊賀氏事件と三浦義村
7:40 シン・鎌倉殿の13人
10:13 義村死後の三浦と宮騒動
12:29 宝治合戦~三浦一族の滅亡と存続~
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
◆チャンネル登録はこちらからお願いするでござる!
https://www.youtube.com/sengokubanashi?sub_confirmation=1
◆サブチャンネル『ミスター武士道ch』
https://www.youtube.com/channel/UCp1o7vb0aWiashQAgmL9XDw
◆戦国BANASHIの公式Twitter
Tweets by sengokubanashi
※参考文献リンクURLはAmazonアソシエイトのリンクを使用しています。
■撮影・動画制作
株式会社メディアエクシード
https://mediaexceed.co.jp/
#鎌倉殿の13人 #考察 #山本耕史
30 Comments
鎌倉殿が終わった後も、週一回くらいのペースで結構ですから続きの動画をぜひお願いします。
今更ながら、大河ドラマ北条時宗の時に、政村(伊東四郎)が「母上、やりましたぞ」と言っていた意味がそういうことかとわかりました。
鎌倉殿の最終回では、泰時が「13名でございます!」と義時の再現する所とかありそうですかね🤔
相模三浦氏は後で支流の正木氏がいる、正木氏は里見氏の重臣として活躍し、正木氏は正木時茂死後一族を分裂し、時茂の弟は北条氏康に接近し、その娘於万(養珠院)は徳川家康の側室となり、徳川頼宣と徳川頼房を出産する、以後徳川家は三浦義村の血筋を引き継ぐ、今の宗家当主家広氏は三浦義村の血筋を持っていた
三浦義村の存在が一番解らないですね
最後の坂東武士だったのかな?
三浦一族を滅亡に追いやった安達景盛の安達一族は完全に北条得宗家の外戚として家人化しましたね
最後は安達一族も北条得宗家御内人の平頼綱(平禅門)に滅ぼされる
確か佐原義連は北条時房(時連)の烏帽子親だった気がします。
また松下禅尼と佐原盛連の子たちは宝治合戦の時は一族の三浦には味方せず,母の松下禅尼の指示で北条時頼に味方したため家名を残せた気がします。
元寇とか、宮騒動の内乱とか、北条は、時宗までは、完璧だったのでしょうね
武士道さんの熱意あふれる勉学心(”鎌倉殿”をきっかけに中世史に興味をを持ったので、これからも勉強し、動画をあげていきたいという心がけ)に感動しました。頑張って、これからも、私達にわかりやすい動画を発信していって下さいね。
三浦義村は、石田三成として蘇生すると信じています笑
見捨てるだなんてとんでもない!!笑
鎌倉殿が終わっても武士道さんの話はずっと聞いていきたいです😊🙌🏻
どこかで、徳川に三浦の血が繋がったようなことを見ましたが、それはどうなんでしょうか?
三浦義村の血筋は、女子に受け継がれ姓は変えながら、三浦姓に復帰し紀州徳川家の家老を代々勤めたのではないか?明治になり男爵の爵位を授かったのは三浦だと思う🤔将軍家直参ではないが、2万石ぐらいかな?何とか義村の血統は維持しているのでは?義理の関係だったらゴメン🙏なさい。
北条早雲のところ、偉人の歴史書の加来先生のやつ思い出してしまったw
泰時と初仲良く見えて離婚しそうにないけど何で別れるんだろ?
正しくは「承久の変」です。
宝治合戦で三浦一族が滅亡した要因に、四代目鎌倉殿 頼経の存在が大きいかなと思います。
実朝が暗殺されて、半年たっても朝廷と幕府は次の鎌倉殿が決められず、ごたごたしておりました。
そこで浮上したのが、頼朝の異母妹の孫の息子 三寅丸
頼経の幼名 寅年の正月、寅の日の寅の刻に生まれたので、この名が付けられたという。
父は 九条道家 摂政 関白を歴任した大物貴族
政子が亡くなった翌年、元服して 頼経と名乗った。
13歳の時 頼家の娘 鞠子(竹の御所)と結婚 鞠子は28歳であった。
1234年 鞠子は出産するのだが、難産のため 母子ともに亡くなる。
頼経は後に、中納言 二条親能の娘を側室としてむかえ、局はぶじ男子を出産 のちの五代鎌倉殿 頼嗣
盛大な出産祝がおこなわれた。その筆頭に 名越流 北条光時がいた。
頼経の側近には 三浦光村がいたが、光時も急速に近づいた。
三浦光村は幼名 駒若丸 公暁の弟子であったが、稚児であったという説もあります。
頼経は27歳の時、三浦光村や名越光時と謀反を企てる。
その時、執権 北条経時が急死します。次は、弟の時頼が執権を継ぐ。
頼経側にとっては大いなるチャンス到来である。
ところが、新執権となった時頼は兄以上の人物でありました。
ついに時頼により、御所は包囲され万事休す。
光村は兄の泰村に応援を頼みのだが、泰村は、ついに起たなかった。
頼経はつかまり、京へ追いやられる。その時、息子の頼嗣は僅か8歳であった。
執権時頼の次の狙いは、九条道家 様々な手を使い失脚させます。
時頼の最後の仕上げは、三浦を倒すこと。
三浦光村は時頼の外戚 安達氏に攻められ、兄泰村をはじめ一族500あまり 頼朝の墓所 法華堂において自害します。
頼嗣が将軍を剥奪されたのは 14歳の時 父あとをおうように京へ追いやられます。
新しく京からやってきた、六代目鎌倉殿は 後嵯峨上皇の皇子 宗尊親王
1256年 8月 頼経死去 翌9月 頼嗣死去 相次ぐ親子の死に、毒殺の噂がながれたといいます。
二十数年で、摂家将軍は終わりを告げました。
栄枯盛衰ですね!
大河ドラマみたいに人物に焦点を当てるだけでなく、一つの時代(鎌倉時代とか)をギュッと凝縮して描いたら面白そう。
美作三浦氏と相模三浦氏は血縁関係ありますか?
フライングだよね、和田合戦以降に出てくる話かと。そもそも主人公死んだ後のことだし。でも同じようなYouTubeがもともとフライングしまくりだし本編では多分、直接描かれないからまあいいかと(笑)
ただしウィキでは承久の乱での義村と胤義との兄弟対立は出て来ない。このあたりが「狂犬」とも蔑まされた三浦(義村)氏と北条(義時)との繋がりを描いた三谷幸喜ならではの新解釈があるのかな。しかし『戦国BANASHI』さんが考察を重ねるごとに有力御家人の滅亡は坂東と鎌倉の安寧と少し?の権力を求めた彼らのなれの果てで義仲、義経、上総広常を滅した頼朝の真意を汲んた義時とそれを理解してた義村が本当の鎌倉幕府をつくったのかな。
承久の乱以降の内容はあまり触れられて来なかったので新鮮で面白かったです!
ドラマで上総介が「俺が味方した方が勝つ!」と言ってたけど、三浦義村もそう言える立ち位置にいる感じですね
義村って謎だらけだけど、たらればで歴史が変わってしまうほどのキーパーソンだったことがよくわかりました
義村はドラマでは軽いノリで信用できない感ありますが、義時の味方であり続けた理由はなんだったのか…直感みたいなものなのかなあ
宝治合戦は時頼が、蘆名氏滅亡は伊達政宗が・・・。
ということは、三浦氏滅亡は、
全部、渡辺謙のせい?w
義村が、四方八方に気を使い、裏切り、下げたくない頭を下げ守ってきた三浦氏も滅びるのですねー。無情!この動画のお陰で全くの空白だった鎌倉時代が少し判るようになりました。ありがとうございました。家康、そして紫式部も よろしくお願いいたします。
見捨てないですよ!
わかりやすい解説、ありがとうございます!
これこの前他の人もやってた
鎌倉時代中後期という泥沼解説楽しみしてます!
合議制の13人、三浦以外古株の御家人がいないのが寂しい…
官僚組除いたら後藤氏くらいか
、
私も同じ歴史好きとして武士道さん応援してます。
たまの歴史史跡探訪も楽しみにしてます‼️
ドラマより先のネタバレになる事ですが、吾妻鏡に沿っての解説が、ホント、上手いデス👍👏👌