今日の話題は 源頼朝の子孫ってどうなったの?噂される○○家との意外な繋がり!?です。 【おススメ動画】 【鎌倉殿の13人】八重姫たち女性のトイレ事情!【歴史雑学】 【歴史解説】つらい!キツイ?ニッポンの浪人物語【MONONOFU物語】 【世界史】残酷な最期を迎えた女性たちワースト5 歴史の闇に消えた女性たちの悲しい物語 今じゃ考えられない遊女の食事のヤバイ闇! 歴史上、最も有名な花魁5選と悲劇の遊女「若紫」 #日本史の謎 #歴史 #源頼朝の子孫 偉人摩訶不思議浪漫の館日本史源頼朝源頼朝の子孫 6 Comments にのまえちゃんねる 4年 ago 私のご先祖様は源頼朝公の家臣で頼朝公の従兄弟にあたります。 家臣でもあり従兄弟でもあるって2人の関係はどんな感じだったのかなぁ?と思ってます。 伝え聞くところによると頼朝公からはかなり信頼されていたようです。 坂田火魯志 4年 ago 佐竹家も頼朝のご落胤説がありますね。あと実朝暗殺は三浦家が黒幕だったという説もあります。和田義盛を裏切り将軍を暗殺したこの家は戦国時代後北条家に滅ぼされますが学研漫画の北条早雲では恰好よく「名門三浦家の最後を見よ」と言っていましたが和田義盛裏切ってよく言えたものだと読んでいて冷ややかにそして子供心にざま見ろと思ったものです。 野口慎介 3年 ago おぉ、ご先祖~( ´ ▽ ` )ノ" の 半ペタ 家系図とかあったら、見てみたかったよ(笑) usa 3年 ago 島津家の頼朝の御落胤伝説は後世に作られたものだな。リアルタイムの記述だと整合性が取りにくいから。島津家に残るものだと、頼朝の御落胤説に沿って、島津家初代の忠久の生年を1179年としているが、実際には、治承3年(1179年)2月8日、春日祭使の行列に供奉している記録が史料上の初見である(『山槐記』)。つまり、1179年に忠久が生まれるはずがない。また、忠久は、元暦2年(1185年)8月17日付で惟宗忠久は島津荘下司職に補任されている。また、同年6月には功があって伊勢国(現在の三重県)で地頭に補せられている。1179年生まれだと、あまりに幼すぎて年齢があわない。 みんなのグラさん プログラミングチャンネル 3年 ago よりとも! ナナシ 3年 ago 竹の御所の源義子の話も、詳しくやって欲しいです。😊😊
にのまえちゃんねる 4年 ago 私のご先祖様は源頼朝公の家臣で頼朝公の従兄弟にあたります。 家臣でもあり従兄弟でもあるって2人の関係はどんな感じだったのかなぁ?と思ってます。 伝え聞くところによると頼朝公からはかなり信頼されていたようです。
坂田火魯志 4年 ago 佐竹家も頼朝のご落胤説がありますね。あと実朝暗殺は三浦家が黒幕だったという説もあります。和田義盛を裏切り将軍を暗殺したこの家は戦国時代後北条家に滅ぼされますが学研漫画の北条早雲では恰好よく「名門三浦家の最後を見よ」と言っていましたが和田義盛裏切ってよく言えたものだと読んでいて冷ややかにそして子供心にざま見ろと思ったものです。
usa 3年 ago 島津家の頼朝の御落胤伝説は後世に作られたものだな。リアルタイムの記述だと整合性が取りにくいから。島津家に残るものだと、頼朝の御落胤説に沿って、島津家初代の忠久の生年を1179年としているが、実際には、治承3年(1179年)2月8日、春日祭使の行列に供奉している記録が史料上の初見である(『山槐記』)。つまり、1179年に忠久が生まれるはずがない。また、忠久は、元暦2年(1185年)8月17日付で惟宗忠久は島津荘下司職に補任されている。また、同年6月には功があって伊勢国(現在の三重県)で地頭に補せられている。1179年生まれだと、あまりに幼すぎて年齢があわない。
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私のご先祖様は源頼朝公の家臣で頼朝公の従兄弟にあたります。
家臣でもあり従兄弟でもあるって2人の関係はどんな感じだったのかなぁ?と思ってます。
伝え聞くところによると頼朝公からはかなり信頼されていたようです。
佐竹家も頼朝のご落胤説がありますね。あと実朝暗殺は三浦家が黒幕だったという説もあります。和田義盛を裏切り将軍を暗殺したこの家は戦国時代後北条家に滅ぼされますが学研漫画の北条早雲では恰好よく「名門三浦家の最後を見よ」と言っていましたが和田義盛裏切ってよく言えたものだと読んでいて冷ややかにそして子供心にざま見ろと思ったものです。
おぉ、ご先祖~( ´ ▽ ` )ノ" の 半ペタ
家系図とかあったら、見てみたかったよ(笑)
島津家の頼朝の御落胤伝説は後世に作られたものだな。リアルタイムの記述だと整合性が取りにくいから。島津家に残るものだと、頼朝の御落胤説に沿って、島津家初代の忠久の生年を1179年としているが、実際には、治承3年(1179年)2月8日、春日祭使の行列に供奉している記録が史料上の初見である(『山槐記』)。つまり、1179年に忠久が生まれるはずがない。また、忠久は、元暦2年(1185年)8月17日付で惟宗忠久は島津荘下司職に補任されている。また、同年6月には功があって伊勢国(現在の三重県)で地頭に補せられている。1179年生まれだと、あまりに幼すぎて年齢があわない。
よりとも!
竹の御所の源義子の話も、詳しくやって欲しいです。😊😊