臨時ニュースが入りました。内陸部ではかなり大きな地震です。

21 Comments

  1. 僕はその時高3で授業始まってすぐだったので、ものすごく怖かったです。2歳の時にも西部地震を経験してますがほとんど記憶がないので、より怖かったです。

  2. 当時、高校3年生で震源にいた。
    地震が来たのはちょうど昼休みに終わりで、机から教科書を出したりして授業の準備してた。で、あっと思ったら、強い力で後ろに引っ張られるような感覚が体を襲って、気づいたら教室は揺れてるし、窓ガラスは割れて廊下じゃ女の子の悲鳴があがるしで、昼休憩のあの牧歌的な空気が一瞬でパニックに変わったのを覚えている。思考が一瞬でストップしてもう何がなんだか分かんなかった。

    そしたら、英語の先生が教室に飛び込んできて、叫ぶんだ。「外に出なさい」って。その時の先生は何時もと全然違って、びっくりするくらい顔面が蒼白だったから、私は今でも忘れられない。

    私たちはそれから、先生たちに誘導されながら、まだ余震で揺れ続けてる校舎から出て、校庭に待機することになった。
    外に出たら少しはどうにかなると、たぶん多くの子達が思ってたと思う。でも、外に出ても事態は全くよくならなかった。なぜなら向かいの体育館のガラス張りの窓が割れそうなぐらい激しく揺れているし、あちらこちで携帯の地震警報の音声が何重にも鳴り響いていたからだ。まさに地獄みたいで、本当に不安が掻き立てられるばかりだった。先生たちはこの状況を危険だと考えたんだと思う。生徒たちの前で先生が集まって、何度も話し合いをしていた。それで何度目かの話し合いが終わったと思うと、先生から親に連絡がついた生徒は帰宅していいことを告げられた。私はすぐにポケットからスマホを取り出して、家にいるはずの母のケータイに電話をかけた。ワンコールで母が出る。無事だ。ホッとして手が震えた。話をしてみると間のいいことに母は学校の近くにいることがわかった。5分もしないうちに母と合流し、車に乗って学校を出た。車内では、二人で家族全員の安否を確認し 、無事を確認できた。その流れで地震が起きた時の状況をわたしと母は話した。母は母の実家で農作業を手伝っている時に地震に襲われたらしい。何で電話した時に学校の近くにのかと聞くと、そこから私が心配になって実家から急いで車に乗って私の高校の近くにきていたからだと言った。
    車窓から見る由良の町は酷い状況で、とある家は崩れ、道端の電柱は大きく傾いていた。
    家に帰ると、中部は中部でも私の家のまわりは奇跡的に無傷だった。ただ、自分の勉強机の上は教科書とガラスの貯金箱の破片が散乱しており、大変なことになっていた。

    夜になって、なぜか車じゃなくて、家近くのウエルネスまで母とともに歩いて行った。その時に頭上で黒いヘリコプターが飛んでいるのを見て、プロペラの音を聞きながら自分たちが被災者になったのだと思ったのは印象深い。

    余談だが、この地震の後、半年ぐらいは常に自分の足元がぐらぐら揺れている感覚があって気持ち悪かった。
    後、受験生であったことからこの地震の影響で大学受験を受けられないのではないかと不安だった。(大学受験は無事うけられました🙌)以上、当時のことを記録しておきたくて書かせて頂きました。
    長々と稚拙な文章失礼しました。

  3. 大阪だけどグラーって感じで揺れてた
    この時学校にいてアホな男子はみんな喜んでたな

  4. この地震の時も大阪北部地震の時も「ついにこの時か・・・」って思いましたね。そのあと津波はないと聞いて安心しましたがそれでも被害は出ている。非常に複雑な気持ちでした。

  5. この時まだ小学生で大阪にいましたが怖かったです。(訓練中に本物の地震来た)

  6. m6.6で深さ10kmで陸の近くなのに、震度6弱だったんだ。
    速報値だから本当の値は知らない。

  7. 糞田舎の鳥取はいつか大地震で潰れますように🙏

  8. 僕が保育園のときですね。みんな寝る時間だったから危なかったしホールの大きなドアが倒れたりしました。怖かったです😱

  9. これめちゃくちゃ揺れたなぁ。普段災害なんて滅多に起こらないとこだから、こんなデカい地震生まれて初めてだったわ。