寒河江氏, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=460404 / CC BY SA 3.0

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寒河江氏

寒河江氏(さがえうじ、さがえし)は、大江氏の支流である日本の氏族の一つ。寒河江荘を地盤とし鎌倉時代から室町時代初期までは藤原摂関家の請所(地頭請)として、それ以後は寒河江荘を国人領主として支配した。寒河江大江氏ともいう。南北朝時代末までは大江氏を称したが、以降は寒河江氏を称したとされる。

寒河江氏の祖である鎌倉幕府初代政所別当大江広元は、文治5年(1189年)の奥州合戦で奥州藤原氏を滅亡させた際の論功行賞で、長井荘(置賜郡:現在の置賜地方)および寒河江荘(寒河江市および西村山郡、北村山郡の一部)の地頭職を得て、広大な領地を拝領した。文治6年(1190年)寒河江荘には目代として多田仁綱を送り、仁綱は当初本楯(寒河江市本楯)に起居するが後に吉川(西川町吉川)に居を移した。建久3年(1192年)広大な所領は広元の子らによって分割相続され、広元の嫡男大江親広は寒河江荘の地頭職を相続するに至った。親広は寒河江八幡宮を産土神とし、長岡山山頂の観音堂を再興、建保2年(1214年)大沼大行院を再建した。また、承久元年(1219年)末弟を慈恩寺別当坊とするなど民心の安定につとめた。目代は引続き多田仁綱がつとめ、親広は鎌倉幕府重臣として活躍した。しかし承久3年(1221年)承久の乱が起こると、当時京都守護であった親広は後鳥羽上皇方に味方し、幕府側に付いた父広元や息子佐房と争うことになってしまう。広元は大軍による上京策を献策し、また佐房は東海道方面軍の先鋒として参加し、幕府軍の勝利に貢献した。敗れた親広は寒河江荘の内楯(現・寒河江市丸内)に逃れて隠棲する事になったが、父や息子が幕府軍の勝利に貢献したためか、親広に対する追及の手は厳しくなかったようである。しかし親広が幕府に反旗を翻して失脚したため、大江氏の惣領は大江広元死後、長井氏がつとめることとなった。嘉禄元年(1225年)大江広元が鎌倉で息を引き取ると、親広は息子佐房に命じて阿弥陀如来の尊像を彫刻させ、胎内に広元の遺骨を納め、堂社を建てて吉川に安置した。この堂舎は吉川阿弥陀堂と呼ばれ、後に多田仁綱が別当をつとめた。

貞永元年(1232年)御成敗式目が制定され承久の乱の親広の罪が許される。仁治2年(1241年)親広から次男高元に伝領された寒河江荘であったが高元が早世したため、妻の藤原親実(周防守)の娘に1代のみ相続された。周防守の娘が没すると寒河江荘北方は闕所となって北条氏の所領となり、高元の弟大江広時は北方を除く寒河江荘を相続した。広時および子の大江政広は鎌倉幕府の要職にあり鎌倉に定住していたため、寒河江には目代を送るにとどまった。文永3年(1266年)大沼大行院に大鐘を納めた。建治元年(1275年)5月六条八幡新宮造営費用として15貫を納めた。

13世紀末頃(1200年代終盤)に政広の子の大江元顕が、大江氏族として初めて寒河江に入部したと言われている。弘安8年(1285年)鎌倉幕府内の内訌であった「霜月騒動」の結果、大江氏の一族である大江泰広(佐房の曾孫:殖田又太郎入道 )、大江盛広(泰広の子)、大江泰元(泰広の子)らが討死しており、執権北条氏の圧力を避けるための措置であったと推定される。

永仁4年(1296年)慈恩寺で大火があり、本堂堂社や諸仏が焼失する。正安元年(1299年)造営が開始され嘉元4年(1306年)完成した。寒河江荘に定着した大江氏も尽力したものと考えられる。

正慶2年(1333年)鎌倉幕府が新田義貞に攻め込まれると、同族の大江(小沢)貞広・親顕が執権北条高時に殉じて討死した。貞広の弟懐顕や親顕の子顕広は寒河江氏を頼って落ち延びてきて、時茂の時貫見(大江町貫見)を領している。また後年大沼大行院を相続して雄尊と名乗った。

寒河江大江氏は南北朝時代になると南朝に味方し、建武2年(1335年)大江元政は陸奥守鎮守府将軍北畠顕家とともに上京して足利尊氏軍と戦い京より追い出す。翌建武3年(1336年)1月、再度の入京を目指す尊氏を摂津国で破り、尊氏は九州へと落ち延びる(豊島河原合戦)。北畠顕家が延元3年(1338年)に摂津で戦死すると南朝は顕家の弟北畠顕信を近衛中将兼陸奥介鎮守府将軍として下向させ、顕信は東北地方を転戦する。元政は顕信と共に主に出羽で戦闘に参加したと考えられ、観応2年/正平6年(1351年)の時点で、以前北条氏に没収された北寒河江荘の回復を果たしている。文和元年/正平7年(1352年)足利尊氏が長井備前太郎に対して、寒河江氏が出羽国寒…

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