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頼朝の死因が馬から落ちただったら悲しすぎる。
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
27 Comments
途中で出てきた妾のところに夜這いに行って家人に不審者として斬り殺されたと言うのが一番しっくり来るんだが(笑)
頼朝?
美術史に矛盾してて残念。
超絶傑作肖像画なのにいつまでも
あり得ない伝で使われ続けるのは
凄く勿体無い希ガス。同時代の世界水準を
遥かに超えた美しさで大胆な構図と端正な表情、身分表象として記号化された衣装など絵師の創意に満ちた国宝絵画の逸品。
太平記やる時は都合良くまた使いまわされると考えたら
足利直義。
清盛の樣に…外戚に為って將軍家の權力を磐石にしようとするも、御家人達の既得權保護を…朝廷に取り入る為に譲歩してしまった為、信用失墜→鎌倉殿としての価値が無くなった→御家人達は代替わり≒坂東武士の權利保全してくれる將軍を望む……頼朝、鎌倉に居場所が無くなって梶原景時の樣に西へ向かって逃げたが、相模川で討ち取られた…可能性も
個人的には女装して御家人に切り殺されたってのを大泉がやってたらみんなスカッとするかも?
日本初の征夷大将軍は坂之上田村麿では❓
まぁ、幕府は作ってませんが。
落馬
当時の馬はロバみたいな種
ちょっと背の高いチャリから落ちて死んでしまうとは何て運の悪い男
亡霊
のせいに、筋書を考えた人がいる
北条政子
平家の女子 。 平家の再興を実現させた
俺は大姫を後鳥羽天皇に嫁がせようとしたことが引っかかるんだよね。これって藤原氏や清盛と同じことやろうとしているわけじゃん?これじゃいつまでたっても貴族政治が終わらないことになる。だからこれを阻止するために御家人(たぶん北条氏や大江広元)が暗殺した。
北条義時に消された?
「飲水病」によって、大量に水を欲する。
そこで、頼朝用の水筒に少量の毒を入れておく。
その水を何度も何度も飲むうちに、やがて致死量に…なんて暗殺説を推したい。
「馬から落馬」とかいう「頭痛が痛い」みたいな言い方w
善児に間違って暗殺されたw
現代ドラマは原書を越えてなかなか表現できない。想像で表現するしかない。
北条氏の手先が後ろから弓を射たとしか考えられない。ケネデイ大統領暗殺に似ているかも。
最近は直義とされる肖像画
というか頼朝はあり得ないから
使わない方が良い筈。
歴史の事実として確実にいえることがある。それは鎌倉幕府の成立後朝廷は政治の実権を失い武家が統治する時代が訪れたということ。この時代は明治維新まで続いた。頼朝は武家政治の創始者と言われるが結構朝廷とは融和的だった。でも頼朝を支えて鎌倉幕府を作った武士たちの本音は自分の土地支配に対する朝廷の干渉の排除だ。このことに対して朝廷に譲歩しようとする者はだれであれ許さないという本音が確実にあった。頼朝の謎の死もその流れにあるような気がする。
承久の乱の契機になったのも院の荘園にいる幕府が任命した地頭の解任の要求を鎌倉幕府が拒否したことだった。
サムネの肖像は同じ河内源氏で同じく鎌倉で謎の死を遂げた、足利尊氏の弟の足利直義の肖像だろ。
なんか、うる覚えだが「幕府」という名称は室町から用いられたもので、近代になって歴史を遡って頼朝が最初じゃない?じゃあ「鎌倉幕府」ってよんでいいんじゃないの?……と明治以降に呼称されたとかなんとか。すると鎌倉幕が出来たのは100年ぐらい前だとかー。悪七兵衛景清が頼朝暗殺を計画していた…という歌舞伎狂言もありました。
浮気相手の家に入ろうとして警備していた者に斬られたっていう情けない死にかたが三谷幸喜が演出している鎌倉殿の13人で大泉洋が演じる頼朝には合っていて
面白いと思う
北条時政が放った刺客説。時政粛清も天秤にかけていた「半狂気」の頼朝を先手を打って始末した。時政が実朝の粛清を計画し失敗するが、実朝は孫というより、憎い頼朝の子のイメージだったのだろう。
吾妻鏡は、鎌倉幕府と言うより北条氏が作った歴史書ですから、北条氏に都合の悪い記述は消されているはずです。それにしても約3年間も、しかも初代将軍の死を含めた記述が抜け落ちているというのは異常すぎます。
同時代の人の日記などから、1199年の年末~1200年の年明けに頼朝が死んだのは間違いないでしょう。しかしそれから12年も経ってから、息子である実朝が父親の死の原因となった落馬事故のことを初めて聞く、というのも不自然です。となると、複数の御家人によって謀殺された、という可能性が高そうです。
あくまでも「落馬」にこだわるのであれば、乗っていた馬に何かを仕掛けたことによって、驚いた馬が竿立ちになったり暴れたりして頼朝が振り落とされた、というのが自然でしょう。では誰が?ということになると、確証はありませんがそれこそ「鎌倉殿の13人」なのではないかと思います。将軍を謀殺するための舞台を用意して誘い出し、まんまと仕留めても誰が咎められる事も無い、なんて一人二人の策謀では有り得ません。とすれば、「13人」の半数以上がこの陰謀に加わり、御家人の大多数に少なくとも「鎌倉殿の謀殺やむなし」という共通認識があったはずです。だから謀殺の事実がその理由と共に歴史書から消し去られたのです。もしかすると空白の3年には、暴君または暗君になった頼朝の行状が綴られていたのかも知れません。
幕府の源氏将軍一族が滅んで得をした連中は?
たぶん乗馬中に脳や心臓の病気を発症して落馬。落馬した際に当たりどころも悪く闘病の末に亡くなったのではないか。
徳川家康は、鯛の天ぷらを食べて、なくなったことに。
私の考える説は糖尿病からはじまり脳卒中を発症して落馬したのが原因だと思います。
頼朝は源氏の棟梁でもあり征夷大将軍というストレスも起因だとも思われます。
頼朝の女グセの悪さからして、いわゆる「腹〇死」だったのでは。あまりにカッコ悪いのでそれなりの期間伏せられてきたとも考えられます。したがって、証拠は皆無です。
鎌倉殿の13人の頼朝の最期はどこか哀しさがあったな。
鎌倉の内部抗争に巻き込まれる人物達に鈴の音が鳴ったところや、盛長が「鎌倉殿!」ではなく、昔の「佐殿!!」って叫んでいたのが切なかった。
個人的に義時に鈴の音がならなかったのは、義時が最期を迎える時に鈴の音が鳴って、「佐殿……」って言って昔の事を思い出しながら亡くなる伏線なのかなって思ってる。