東日本大震災特別企画「ともに」。今回、お伝えするのは震災当日、仙台港に停泊していたカーフェリーについてです。地震の発生と大津波警報を受けて緊急出航したフェリーは、松島の沖合で大津波と遭遇しました。その瞬間が写真に収められていました。当時を知る乗組員の方の証言とともにご紹介します。なおこのあと、津波の画像が流れます。
仙台と名古屋、そして北海道の苫小牧を結ぶ「太平洋フェリー」。現在、3隻のカーフェリーが就航していますが、いずれも船体の長さはおよそ200m。乗用車およそ100台の他に大型トラックも150台以上積めるため、物流面でも大きな役割を果たしています。
寺田早輪子 アナウンサー
「すごい…船に乗るまでの道のりが長いから…これは大きい船なんだな…」
今回、船の頭脳とも言える操舵室に、特別に入れていただきました。
寺田早輪子 アナウンサー
「失礼します…寺田と申します、よろしくお願いします」
早川題隼(はやかわ みつよし)さん、太平洋フェリーの一等航海士です。航海士には一等から三等まで階級があり、いずれも船長をサポートしながら船の操縦や見張りを行います。さらに、一等と二等の航海士は入港や出港の際には甲板に出て、現場作業の指揮も行います。震災発生当時、早川さんは二等航海士として苫小牧から来たフェリー「きたかみ」に乗っていました。当時、乗客は既に下船し、船内は乗組員だけだったそうです。
大平洋フェリー 早川題隼さん
「苫小牧港から積んできた荷物を全部下ろし終わって、ちょうど地震発生時は部屋で当日は作業がなかったので部屋でそれぞれ休憩をしていた。徐々に揺れが大きくなってただ事ではないと。すぐにブリッジ(操舵室)に来た」
寺田早輪子 アナウンサー
「船が海に浮かんでいても揺れが?」
大平洋フェリー 早川題隼さん
「かなり揺れます。すぐにキャプテン(船長)の指示で、『緊急出航する』と。私がその当時二等航海士、担当が船尾になりますので、開いている船尾のドアを格納するために走っていきました」
船尾のドアを閉めるには3分ほどかかります。いつでも閉められるよう船長からの指示を待つ間、早川さんには焦る気持ちもあったそうです。
大平洋フェリー 早川題隼さん
「ここで作業していると防災無線がずっと入る。船尾に着いた時には『3~6mの津波』。ここで船長からの指示を待っている間に、『6~10m』という数値に変わりました。変わった時が『ここにいたらやばいのかな?』『早く出港するために(船尾を閉めるケーブルを)巻きたいな』という気持ち」
船長の指示で船尾を閉め、再び操舵室へ戻った早川さん。そこで目にしたのは、レーダーに映る大津波でした。
大平洋フェリー 早川題隼さん
「これは静止画なので止まっているが、この波がどんどん船に近づくスピードが速かった。黄色い点は仙台港から避難する船。当時はかなり船が混み合っていた。他の船がどちらの方へ向かっているというのを船長に伝えながら、船長が最適なコースを選んでいく…。雪が降って視界も悪かった中、その仕事をこなした」
午後3時56分、「きたかみ」は10mほどの高さがある津波の第1波と直角に向き合います。横から波を受けると、転覆の恐れがあるからです。この画像は同じように仙台港から避難しようとしていた愛媛県のタンカーが撮影していました。
大平洋フェリー 早川題隼さん
「当時、私は…レーダーを見ていたので、ほぼこの位置にいた。第1波はすぐに波が当たったので、通常、窓からは海面が見えるが、この窓から空しか見えなくなる。波をやり過ごしたら、今度はこの窓から海面しか見えなくなるぐらい落ちる」
寺田早輪子 アナウンサー
「ここに立っていられた?」
大平洋フェリー 早川題隼さん
「もちろん津波を超える時にはこういう所につかまって…」
ディレクター
「つかまってたのは片手?両手?」
大平洋フェリー 早川題隼さん
「もちろん両手ですね、ここにいた三等航海士はここにつかまったり、船長も手すりに…みんな乗組員はつかまっていた」
ディレクター
「普段つかまって操船は?」
大平洋フェリー 早川題隼さん
「台風シーズンはそれなりのうねりの中を走ることはあるんですけども、そういう時にちょっとつかまることはあります。ただ…体を完全に抑えて、津波が来るぞという感じで抑えることはあまりない」
寺田早輪子 アナウンサー
「初めての経験?」
大平洋フェリー 早川題隼さん
「そうですね」
大きな波は合わせて4回、何とか乗り切り、36人いた乗組員は全員無事でした。そのまま苫小牧へと向かい、今度は緊急支援の車両や物資を運ぶ役目を担います。
大平洋フェリー 早川題隼さん
「港には船が着いた時には、緊急車両がかなりの台数集まっていた。乗組員はみんな1台でも多く、できるだけ早くといった感じですね」
あれから11年が経ち、早川さんは一等航海士に昇格。様々な場面で指揮を執る立場になりました。早川さんは震災を経験したことで船におけるリーダーのあるべき姿を再認識したそうです。
大平洋フェリー 早川題隼さん
「あの時私が感じたのは、当時の一等航海士や船長が、津波を前にした状況になっても落ち着いて指示を出していた。そういう状況でも平常心を保てるならば、的確な指示が出せるということ」
19 Comments
これ。uhbで放送する価値あります。北海道は、船舶無いと本当に生活出来ない地域です。
完全に船首が海面の中に入ってることで、津波と対峙する壮絶さが伝わってきます。
これぐらい迅速に地上でも避難してたら人的被害はもっと減ってたんでしょうね…😔
北海道旅行の際 何度もお世話になってる船です。与えられた職務を迅速に的確にこなす姿は心打たれます。ありがとうを伝えたい。
福島県沖・大津波に遭遇した巡視船
という動画では、艦内からの動画を見ることが出来る。やはり船乗りは勇敢でカッコいい。
船首が可動して車両の搬入路になってるタイプの船だけども、
あれだけの波を乗り越えても直ぐに苫小牧から支援車両と物資と人員を乗せてとって返すタフさに驚いた。
まぁ貧弱では荒れた海の長距離航路をこなせないだろうけども、それにしても凄いなぁと思う。
フェリーはトラックドライバー不足と労働環境改善の中で益々その重要性が増してるらしいし、
災害時の支援物資の大量輸送でもその力は偉大なんだなぁって改めて考えさせられたわ。
海保の巡視船が避難している時のブリッジ映像を見たが波が来て船が持ち上がりエンジン全開でも前に進めず引き波で外洋に出たのだった。
音声で捕まれ、戻されているとか入っていた。
本当にありがたい事だ。
3:30 すごいですね、大津波もレーダーに映るのですか。
4:07 そして別の船が撮った太平洋フェリー「きたかみ」がかなり斜めになっていて、釜石港内で大津波に遭った巡視船「きたかみ」の操船の難しさが伝わってきます。
こいつら何も凄いことないじゃん?
ただロボットみたいにマニュアルに沿って機械的に対策してただけだろ
すごいのは10mの津波でも沈まない船を設計して作った日本の技術者
仙台苫小牧航路で、「きそ」と「いしかり」は何度も乗船したけど、「きたかみ」だけはまだ乗ったこと無いんだよなぁ。
津波が来るから緊急出港はわかりますが出港に際して岸壁でロープはずしたりした人も乗せてあげたんでしょうか?
甲板 こうはん なんやで
かんぱんは自衛隊とかがいうんやでー
船員のチーム力が確りとして居たから、自船も他船も傷つけないで出航できた、素晴らしい事だと思います。だからこそ、緊急派遣の車両・人員・物資を素早く輸送する事も出来たのですから、初動の判断の大切さを感じます。
操舵室からの動画は既出だったりするけど他の船から見た画像は初めて見たけどすごいな
貴重な資料ですね
語尾を〜〜す、それはやめるべきですからね。あの女性はおそらく20才笑笑を過ぎているのでしょうが、あの挨拶は中学生の挨拶ですね。
この人達が適切に出港したことでフェリーが失われず、救助隊や物資の輸送を行ったことで助かった命が有るんだろうなぁ。
乗船員36名も船も無事で本当によかった。そのまま苫小牧に入り支援船になったのか。ありがとう。仙台港は完全に壊滅、火の海、油の海、瓦礫の海となった。もう戻れない母港の思いが去来したはず。あの震災の中、生き残るのはなみたいていではなかった。生きるより死ぬほうが身近だった。鎮魂慰霊1万8千人。亡くなった方がたの分までこれからもがんばってください。
長野から北海道平取町に仕事に行ったとき高速道路で仙台まで行き太平洋フェリーに乗って苫小牧まで行ったときにお世話に成りました。
後日本海フェリーさんにも新潟~小樽に行ったときもお世話に成りました。
長野県には海が無いのでない物ねだりで海に憧れ、1級船舶の資格を取りプレ-ジャ-ボ-トに乗ってましたので
1級航海士は憧れの的です。頑張って下さい。