『PRIZE』が本屋大賞にノミネートされた村山由佳さんによる最新長篇『DANGER(デインジャー)』。

本書は、バレエと戦争を通じ、どん底に堕ちてもなお希望を見出そうとする人々を描いた、愛と哀しみの物語です。

時は1990年代。バレエ団の来日公演に合わせ、編集者の水野果耶と記者の長瀬一平は世界的振付家・久我一臣にインタビューをし、記事を書くことになります。当初は久我の半生を辿りつつ、戦前戦後の日本バレエを紹介するつもりでしたが、彼が語り始めた過酷なシベリア抑留体験は、思ってもみなかった縁を掘り起こしていきます。

村山さんが「いつか必ず向き合わなくてはならないテーマ」に取り組んだと語る圧巻の輪舞曲(ロンド)、試し読みとして、冒頭部分を公開します。

 ***

 赤、がしぶく。
 噴きあがる鮮紅が打ち水のように弧を描き、壁一面を丹念に塗りつぶしてゆく。
 夢だ。わかっているのに覚めない。

 痩せさらばえた母親が、出ない乳を赤ん坊にふくませる。
 母親から先に動かなくなり、やがて赤ん坊も泣かなくなる。

 すし詰めの貨物車が揺れる。のしかかる重みに骨が軋む。
 鉄の箱のそこかしこから、弱々しい呻き声や呪詛が漏れる。
 食糧はない。水すらもない。
 立ったまま垂れ流しの足もと、吐き気をもよおす悪臭がかき混ぜられて立ちのぼる。

 軍服が覆い被さってくる。
 悲鳴をあげると頬を張られ、頭が痺れ、手脚が動かなくなる。

 もう、いい。
 もう二度と目覚めたくない。
 いっそ終わりにしてほしい。

 と──脳裏をひとつの顔がよぎる。
 まぶたをこじ開ければ、遠ざかる悪夢とともに愛しい顔までが揺れながら滲んでゆく。

 目を瞑るのはおそろしい。
 けれど、夢の中でなければ再びうこともかなわない。

 第一章

「おい一平、ちょっといいかな」
 編集長の井口さんから呼ばれた時、僕はちょうど遅い昼食をとりに出かけようとしているところだった。
「悪いな。三十分もあれば済むから」
 四階の『サタデー報日』編集部から、会議室の並ぶ二階までエレベーターで下りる。
 前に立つ井口さんは半袖のポロシャツにチノパンという軽装だ。そういう僕もまあ似たようなものだが、井口さんの場合、髪は潮焼けで脱色したみたいになっていて、顔と手の甲は見事な小麦色だ。週刊誌の編集部だからまだ許されるが、もっとお堅い会社だったら務まらなかったと思う。これでスーツを着たらホストみたいになるだろう。
 扉が開いたところで、隣のエレベーターからも二人下りてきた。
「お、きみが長瀬くんか。どうもすまないねえ」
 月刊女性誌『Freeda(フリーダ)』の吉田編集長が温厚な口調で労ってくれる。その後ろにいるもう一人は、なんと水野果耶だった。
 僕を見て、向こうも怪訝そうな顔をする。髪は素直なショートで化粧っ気もあまりないので、二十七という年齢よりだいぶ若く見える。女性にしては背が高いのも相まって、宝塚の男役の休日、みたいな感じだ。
 空いている会議室に四人で入り、二対二に分かれて腰を下ろした。長テーブルをはさんでこちら側に僕と水野果耶、向かい側が互いの部署の編集長。
 コーヒーを四つ、と喫茶室に頼んだあとで、吉田編集長がたまりかねたように言った。
「そんなに睨まなくたっていいじゃない」
「睨んでません」
 と水野果耶。
「悪かったよ今朝は。怒んないでよ」
「だから怒ってません」
 かぶせ気味に答える彼女を見て、井口さんが噴きだす。どうやら吉田編集長は部下の逆鱗に触れたらしい。
〈時代の先を切り拓く女性のための月刊誌〉である『Freeda』は、バブル景気の波に乗って創刊され、その泡がついに弾けたと言われる昨今も堅実に売れ続けている。それほどの人気雑誌の長が、言っては何だがこんなにでっぷり太った中年男と知った時は意外に思えたものだけれど、生え抜きの女性編集者たちがふだんはあれこれ文句を言うわりに頼りにしているところを見ると、吉田編集長には何かこう、僕みたいな若造には窺い知れない一面があるのかもしれない。
「それで? ご用件は何でしょうか」
 水野果耶が促す。〈とっとと済ませろ〉の婉曲表現だろう。
「そのことなんだけどね」
 吉田編集長が身じろぎするたびキャスター付きの椅子が不穏に軋む。同期の井口さんとは好対照だ。
「言い訳みたいだけど、今朝の会議のあれには事情があってさ」
「そうですか」
「きみの企画はなかなか良かったんだよ。保留にしたのは申し訳なかったけど、じつは急遽、どうしてもきみら二人に別の仕事を頼まなくちゃいけなくなったものだから」
 僕は目を上げた。
 今、きみら二人、と言ったか。
「それが、ちょっと大きめの企画でね。クラシック・バレエ関連の案件なんだけども」
 聞くなりドキッとして隣を見やった。案の定、水野果耶が身構えたのがわかる。
 横から井口さんが言った。
「水野さんはたしか、けっこう長くやってたんだよね。バレエ」
「……はい」
「姿勢いいもんな。脚は長いし、スタイルもすらっとしてるし、僕なんかからすると羨ましいよ」
 彼女は口を結んで黙っている。
「そんな警戒しないでよ。大丈夫、たいしたアレじゃないから」
 出た、と僕は思った。『サタデー報日』編集部に僕が異動してきてまだ半年ほどだが、一つだけ肝に銘じたことがある。この人が〈大丈夫、たいしたアレじゃないから〉と言った時こそ要注意だ。
「ちなみにきみたち、熊川哲也くんについては一応知ってるかな?」
 吉田編集長が手元のクリアファイルを弄りながら言う。水野果耶が硬い顔で黙っているので、僕がかわりに答えた。
「さきおととしのローザンヌ以降のことであれば、大体は」
「だよなあ。あれは、事件だったもんなあ」
 今や日本人のほとんどが彼の名前を耳にしたことがあるだろう。
 熊川哲也──平均からするとかなり遅く、十歳でバレエを始めた少年は、わずか七年後、世界中から選び抜かれた若手バレエダンサーたちの頂点に立った。一九八九年に開催された、第十七回ローザンヌ国際バレエコンクールでのことだ。
 ゴールドメダルの受賞は日本人初の快挙だった。おまけにコンクール直後にはこれまた東洋人として初めて英国ロイヤル・バレエ団に入団を果たし、十七歳で同バレエ団史上最年少のソリストに、さらに昨年には十九歳でなんとファースト・ソリストに昇格し、多くの演目で主役や重要な役を任されている。
 こんな細かいことまでなぜ僕が知っているかといえば、入社一年目の研修で彼を題材にした記事を書かされたからだった。一度は詳しく調べた相手だけにその後も興味を持ってきたし、活躍を目にすれば嬉しくなる。ファースト・ソリストまでくれば、最高位であるプリンシパルへの昇格も遠い話ではないだろう。才能だけがすべてを決める世界とはいえ異例の大躍進だ。
「ここ最近、日本ではかつてないくらいクラシック・バレエへの関心が高まってる」吉田編集長が言葉を継ぐ。「どう考えても熊川くんの影響だよね」
 そうかもしれない。素晴らしい日本人ダンサーは過去にもいた。男女ともにいたし、今も世界を舞台に現役で活躍している。けれども彼の場合は、〈初受賞!〉〈史上最年少!〉などの煌びやかなニュース性に加え、本人が秘めている爆発的なエネルギーとひたむきさ、そしてまごうかたなき才能の輝きに誰もが胸打たれ、心痺れるのだろう。
「こんな俺ですらそうさ」と、井口さんも言った。「サーフィン以外は全然興味なかったのに、たまたまテレビに彼が映ってるだけで最後まで観ちまうもんな。ああいうのを華があるって言うのかね」
 水野果耶が、二人を見やった。おそらく〈さっさと本題を〉と言いたいところを、ぐっとこらえた様子で言葉を選ぶ。
「『別の仕事』というのは、熊川さんに関することなんでしょうか」
 すると、井口さんが声を低めた。
「関係なくはない、かな。ここから先のことは情報公開がまだだから、外へはもちろん編集部のみんなにももうしばらく伏せておいてほしいんだが……じつは、ボリショイ・バレエ団の来日が決まってね」
 水野果耶が目を瞠る。
「演目は俺らみたいな素人でも知ってるやつ。『白鳥の湖』とか『ロミオとジュリエット』とか」
「全幕ですか」
 と彼女。
「そうらしいけど、なんで?」
「だったら十年ぶりくらいじゃないですか。二年前に来た時はもっと小規模で、第二幕だけとか、パ・ド・ドゥだけとかでしたから」
「おお、さすがよく知ってるなあ」吉田編集長が目尻に皺を寄せる。「来るのは来年、九三年の九月初旬から十月の半ばまでだって。けっこう長いこと滞在するもんなんだね。東京以外にも全国主要都市で公演が予定されてるそうで──ここまで話せば察しはつくだろうけど、例によって、うちも関わってるわけだ」
 クリアファイルからようやく取り出した薄いレジュメを、ころころと丸い指で僕らのほうへ滑らせてよこす。上演スケジュールや演目や会場などの情報が記されたリストを目で追ってゆくと、なるほど下の方に〈主催〉として『報日新聞社』と『報日テレビ』の名が並んでいた。
 とっさに僕の脳裏をよぎったのは、チケットが安く手に入ったりしないだろうかというみみっちい考えだった。『報日新聞社』は、僕らが勤める『報日出版』の親会社にあたるのだ。
「これ、水野さん的にはどう?」
 吉田編集長が水を向ける。
「どう、とは」
「感想とかさ」
「観ていないのでわかりません」
「そりゃそうだけど、何かしらあるでしょうよ。印象とか所感とか」
 しつこく食い下がられ、不承不承レジュメのページをめくった彼女は、ややあって口をひらいた。
「ロミオ役は今回、アンドレイ・ウヴァーロフなんですね」
「誰それ」
「ざっくり言えばボリショイのスターダンサーの一人です。一九〇センチもの長身で、貴族的だけど力強い踊りを見せる、いわばボリショイの伝統をしょって立つようなダンスール・ノーブルです。今回の演目にはないみたいですけど『ドンキ』もやってくれたらよかったのに。彼の踊るバジルは凄いので」
 ははは、と井口さんが嬉しそうな笑い声をあげた。
「面白いほどちんぷんかんぷんだな! やっぱり呼んだ甲斐があったよ。この仕事はきみが頼りってことだ」
「ちょっと待って下さい、私は、」
「なあ一平、彼女にしっかりついて行けよ」
「いや、僕にも話がさっぱり……」
「きみら、同じ大学の先輩後輩だったよな」
「え、はあ、まあ」
「二人に、力を合わせて記事を書いてもらいたいんだ。これから来年までかけて徐々にボリショイ来日を盛り上げていくような連載記事をさ。バレエ関係者へのインタビューなんかいいと思うな」
「もちろん、きみらがそれぞれ忙しいのはわかってるんだよ」吉田編集長が先回りする。「水野さんなんか、取材をまとめる力も文章力もあって、そのぶん仕事が集中しがちな中でほんとによくやってくれてると思う。だけど、だからこそ、今回は力を貸してもらいたい」
「インタビューの人選含めて俺らも相談に乗るからさ。とにかく誰かこう、イイ話の聞けそうなバレエ関係者をピックアップして、来年の九月までの連載だ。うちは毎週、そっちは毎月、それぞれ一回につき何ページでもかまわない。会長が感激してひっくり返るくらいの内容を頼むよ」
「会長?」
「ああ。この件、トップの肝煎りでね」
 呆気にとられて声も出なかった。親会社である新聞社の、そのまたトップを僕らは〈会長〉と呼ぶ。難しい人物で通っているその老人と、一度、うっかり同じエレベーターに乗り合わせたことがある。目が合っただけで石になるかと思った。
 僕の横で、水野果耶が大きく深呼吸をする。吐く息とともに言った。
「無理です」
「またまた」
「っていうか、嫌です」
 吉田編集長が目を剥く。
「ちょ、頼むよ! 僕らの周りでバレエに明るい編集者ったら水野さんしかいないんだからさ」
「考えてごらんよ、詳しくない人間が話を聞きに行くなんて先方に失礼じゃないか。一平なんか可哀想に、何もかもこれから勉強するんだぜ? 助けてやってくれよ」
 彼女は頑としてかぶりをふった。
「いくらお二人揃って圧をかけられましても、私は今抱えてる仕事だけでいっぱいいっぱいなので」
「いや、そこは僕が部内のみんなにうまいこと割り振るからさ」
「とにかく私はお引き受けできません。すみませんけど他の人を当たって下さい」
 うーん……と、吉田編集長が唸った。うつむいてしきりに呻吟しながら、シャツの上からもわかるほどまるまるとした腕を組む。やがて、やや上目遣いに彼女を見た。額や鼻のあたまにうっすらと汗が浮いている。
「あのね、水野さん。僕のところにだって、全然聞こえてこないわけじゃないんだよ。きみとバレエのその……微妙な部分に関してはさ」
 水野果耶は黙ってレジュメに目を落としている。
「だけど今のきみは、うちの編集部員なんだから。私情の部分は横へ置いといて、求められた役割は果たしてもらわないと」
 筋は通っている。だけど、と僕は思った。こっちだって水野果耶について正確なことを知っているわけではないけれど、たぶん彼女にとってそれは、〈私情〉のひとことで済むほど単純な話ではないんじゃないか──。
 どちらも口を開かない。腕時計の秒針の音まで聞こえそうな沈黙が続く。
 やがて、井口さんの長い溜め息がこちらへ寄せてきた。
「できれば俺としても、こんなことを切り札みたいに言いたくなかったんだけど……」
 ちらりと僕を見ながらも、ひときわ抑えた声で続ける。
「水野さんだって、知らないわけはないよね。うちの会社は、業務外のアルバイトは禁止だってこと」
 彼女がぎょっと目を上げる。僕のほうは身じろぎもできない。
 見ている前で、陽に灼けた井口さんの頬がゆっくりとゆるんでゆく。
「いや、気にしなくて大丈夫。そのこと自体は今、たいしたアレじゃないから」

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

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