1600年の関ヶ原の戦いの結果、家康は事実上の天下人となり、豊臣政権は一大名の地位に落ちたという日本史の通説は本当なのでしょうか。それに対する鋭い反証を、近世史の第一人者として知られる笠谷和比古・国際日本文化センター名誉教授の新刊『論争 大坂の陣』から、本文の一部を抜粋・編集し、試し読みとして公開します。

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東西二重国制の歴史的根拠

 関ヶ原合戦後の政治体制については、京都を境とした東国と西国とに統治対象地域を分有する徳川公儀と豊臣公儀とが併存する二重公儀体制として理解することが最も適切であると考えている。

 既述のとおり、関ヶ原合戦後における領地構造の観点からすると、京都を境にして西国と東国とでは顕著な差を有する二重国制の姿を示している。これは何人も疑いようのない明確な事実であろう。この二重国制に対応する形で、東国を基盤とする徳川将軍家を頂点とする徳川公儀体制と、西国を基盤とする豊臣関白家を頂点とする豊臣公儀体制とによる二重公儀体制として位置づけられるということである。

 関ヶ原合戦以後の政治体制としては、家康と徳川が支配の盤石の体制を作った式の歴史理解を受けてきた向きには、東西分有の二重国制とか、二重公儀体制といった概念は、非常に奇妙であり、受け入れがたい印象をもたれるかも知れないが、日本の長い歴史をふりかえって眺めてみるならば、それほど突飛な話ではない。

 この長い日本列島を一元的に支配するというのは簡単なことではない。古代の律令国家はいちおう統一的な国家を作り上げたが、箱根・足柄以東の東国の統治は畿内近国のようにはいかず、力による支配が横行しており、そこから武士団による所領形成のような動向が顕著となっていた。

 中世となると鎌倉を拠点として源頼朝を武士の棟梁として仰ぐ独自の東国政権が形成され、京都の朝廷を中心とする統治体制と対峙する。

 南北朝の内乱を経て、足利幕府の武士政権が樹立され、京都の室町に政権の拠点が置かれるが、こんどは東国を支配するために鎌倉に関東公方が置かれ、京の公方との二元統治の体制を取っている。

 その後、豊臣秀吉が天下を統一するけれども、秀吉は家康を関東に移封することによって、関東惣無事(裁判権と平和令の執行権)に関する包括的な権限を家康に与え、関東・奥羽地方を領域とする「事実上の征夷大将軍」としての支配を委ねていた。

 このように、日本の歴史はこの長い日本列島を一元的に支配するのには無理があり、東国と西国の二元統治をとるのが自然なあり方であったことを示している。それ故に、関ヶ原合戦で勝利をおさめた家康が、京都を境とする東西二元的統治体制を考え、京都から西を豊臣勢力地帯として独自支配を委ねたというのは、特に奇異な話でもないということである。

 ましてその関ヶ原合戦における、家康率いる東軍の勝利をめぐっては、徳川の軍事力よりも家康に同盟した豊臣系武将たちの軍事力が圧倒的であったという事情からしても、合戦後の勢力分布において京都から西を豊臣勢力圏として、家康・徳川の直接支配する東国勢力圏との間で棲み分けるのは、ごく自然に導き出される国制構想であったということなのである。

 そしてこのようにして設定された西国の豊臣勢力圏に対する統治の方式を問うならば、大坂城に拠点を持ち、これら豊臣系武将たちの主君筋にあたる豊臣秀頼に、それが委ねられることは自明なことであったろう。ただ秀頼は幼く、関ヶ原合戦の慶長五(一六〇〇)年では八歳の幼子であったこと、またその官位は同八年でも正二位内大臣であって関白には未就任ということから、西国全体に対する統治権を十全に行使するには不充分であり、個別の行政実務上の不足分は「五大老時代」と等しく家康の補佐を受けなければならなかった。

 しかしながら、西国全体は豊臣公儀の管轄圏という枠組みは確固としていた。それはこの区域には、徳川譜代大名がいっさい配置されることがないという事実によって示されていた。これらは西国を豊臣管轄圏として尊重するという家康の姿勢の表われであった。
 

二重公儀体制の根拠

 関ヶ原合戦後における国制を、豊臣・徳川の二重公儀体制と規定する根拠となる事実や事象についての説明は、他の拙著において詳しく述べているところなので再述は避けたい。詳しくは参考文献に掲げた拙著を参照されたい。ここでは、その要点のみを掲げる。但し、7の豊臣家による寺社造営事業は今回新たに加える問題なので、やや詳しく述べる。
 
 1 豊臣秀頼に対する諸大名の伺候の礼。幕府成立以後も島津、上杉といった旧族外様大名までが、大坂城の秀頼の下に伺候している。

 2 朝廷から派遣される年頭慶賀の勅使は、徳川ではなく大坂城の秀頼の下へ赴いている。

 3 慶長期の伊勢国絵図の控え図には村ごとに大名・旗本らの領主名が記入されているが、秀頼の領分においては豊臣秀頼の名ではなく、秀頼の家臣(「大坂衆」)の名が記載されている。秀頼は諸大名の上に立つ存在である。

 4 秀頼の直属家臣である大坂衆の知行地は、摂津・河内・和泉国を越えて、近江・丹波・伊勢・備中国など西国全体にわたって広域分布している。従って、豊臣秀頼の領有石高は、それら家臣の知行石高を含めて摂河泉六五万石を大きく超えることになる。
  なお大坂衆の知行地は西国に限定されることなく、東国にも散在している。
  このような直轄家臣団の知行地が、諸国に散在するといった存在形態は、通常の大名ではありえない。徳川幕府の直轄家臣団である旗本の知行形態と相似的である。

 5 秀頼に対して徳川幕府から大名普請役が賦課されることは皆無。

 6 将軍の本城である江戸城普請に際して秀頼の家臣二名(水原石見守・伏屋飛騨守)が、将軍秀忠の家臣四名、大御所家康の家臣二名と並んで普請奉行、すなわち工事監督官として臨んでいる。秀頼は、西国大名に対して普請課役の執行を命じ、監督する立場であった。

 7 豊臣家が各地の寺社の修復・造営を盛んに行っていたことは周知のところである。そしてそれについて、豊臣家が有している財力を削減させるための家康の深謀遠慮によるものとする理解が昔からなされてきた。
  それは確かに一面の真実には違いない。しかしながら、京都の北野天満宮、伊勢神宮、出雲大社など、修復対象の寺社名刹が摂河泉を越えた地域にある場合には、豊臣家と秀頼の権威が広範な地域に押し及ぶという政治的効果を見逃すことはできない。さらには、当該寺社を支配下に置く当該地の大名との連携が自ずから生じてくる。

  下記のものは出雲大社の修復のケースであるが、大社を領内に有する出雲国の国持大名である堀尾吉晴との提携関係が生じていることを示すものである。
  修造なった出雲大社に納められた棟札には、堀尾吉晴と片桐且元が連署して、忝(かたじけなく)も正二位右大臣豊臣朝臣秀頼公の鈞命(きんめい)あり、謹(つつしん)で堀尾帯刀吉晴・片桐東市正且元、これを奉じて修造の功を越す」と記している。
  豊臣秀頼の命を受けて、堀尾吉晴と片桐且元が協力して、出雲大社の修造事業をなし遂げた旨が明記されている。
  さらに秀頼の寺社建造事業の最大のものとなるのが、亡き秀吉の悲願であった方広寺大仏殿の築造事業であった。慶長一四(一六〇九)年から始まる建造に際しては、中国・四国・九州の豊臣系諸大名から、建築従事者たちの飯米および諸経費にあてるために大量の米が豊臣家に供出されていた。

 8 後述するように慶長一六(一六一一)年の二条城会見における当初座配は、秀頼が上段の上座、家康が下段の下座であった。家康は下段の平間であるのに対して、秀頼は主君筋の人間を通す上段の「御成りの間」であった。

   家康はそのような豊臣優位の関係を改めて、豊臣と徳川とが相互対等であるような関係を取り結ぶことを提案したが、秀頼はこれを固く辞退し家康を上座に据えて拝礼した。秀頼は徳川による政治主導を認めたが、それは秀頼の自発的意思によるものであった。徳川側が秀頼に用意した当初の座配は上段の上座であったことに留意しなければならない。

 9 この徳川幕府の政治的主導を秀頼が受け入れた二条城会見を踏まえて、家康は全国の諸大名から幕府の発する(「江戸より」の)法令を遵守する旨の誓詞を徴するが、豊臣秀頼はこの誓約者に含まれておらず、この段階においてもなお超然たる存在であった。
 
 これらを見るならば豊臣家と秀頼の権威が、いかに高いものであったかということが理解されると思う。豊臣公儀体制は関ヶ原合戦によって解体されることなく持続しており、徳川幕府が成立してもなお、それを凌ぐだけの権威をもって存続していたということである。

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

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