婚活を通して何人もの男性を殺害したとされる女性は、美しくも痩せてもいなかった。それなのになぜ。彼女に取材を試みる週刊誌記者の人生は、彼女の言葉を追いかけるうちに少しずつ狂い始めていく。

人は、味をどうやって記憶するのだろう?

香りや温度、もしかすると音まで含めて感じる「おいしい」という感情を、なかなか言葉で人に伝えることは難しい。万人に共通のおいしさがあるかというと、それもまた疑問だ。

でも、何年たっても忘れ難い「おいしい」は、誰にでも一つや二つ、あるんじゃないだろうか。思い出したり想像したりするだけで、ほうっとため息が出たり、口の中がじんわりするような。

本書では、タイトルにもなっているバターがそんな味の一つとして、そして物語の重要なファクターとして描かれている。

「バター醤油ご飯を作りなさい」

主役は2人の女性。

1人は、若くも美しくもないのに、複数の男性に交際や結婚をほのめかして殺害した「梶井真奈子=カジマナ」。交際中には男性に貢がせた資金でぜいたくに暮らし、その生活ぶりを発信していたこともあって事件は大きな注目を集めていたが、逮捕後は容疑を否認し、どのメディアのインタビューも断っている。

と聞くと、2007年から09年にかけて起きた、木島佳苗死刑囚による通称「婚活殺人事件」がぱっと思い浮かぶ。が、本書はもう1人の主役、町田里佳に強くスポットを当てながら、別の物語へと進んでいく。

週刊誌の記者として特ダネを狙いながら、日々忙しく働く里佳が狙うのが、カジマナのインタビューだ。何通手紙を出しても反応がなかったカジマナの扉を開いたのは、「被害者にあなたが作った料理のレシピを知りたい」という一文だった。

カジマナは本当に殺人を犯したのか、その動機は何なのか──。インタビューを通して真実を明らかにしていこうとしていたはずが、いつしか里佳はカジマナとの会話を求めて足しげくカジマナの元に通うようになり、その言動は徐々に「いつもの里佳」ではなくなっていく。親友が「まるでカジマナの信者みたい」と眉をひそめても、おかまいなしに。

変化のきっかけは、バターだった。

カジマナが初めての接見室で里佳にささやいたのは、「バター醤油(しょうゆ)ご飯を作りなさい」の一言。仕事一筋だった里佳は、初めて自宅に炊飯器を買い、いまだかつて食材に払ったことのない金額をかけ、フランス産のバターを購入する。

炊き立てのご飯に、冷蔵庫から取り出した冷えたバターをひとかけ。そして醤油を一滴。

里佳の喉の奥から不思議な風が漏れた。冷たいバターがまず口の天井にひやりとぶつかったのだ。

里佳がコントロールしていたはずの2人の関係は、この瞬間から変わり始める。その折々で顔を出すのが、またもバターだ。

明太子(めんたいこ)とバターで夜中にパスタを作る。会食でゲストの分までガーリックバターライスをお代わりする。明け方、“バターましまし”の塩バターラーメンを食べる。高級フレンチではバゲットにたっぷりバターを塗りつけ、バレンタインにはバターをたっぷり使った焼き菓子を焼く。

その全ては、カジマナの指示によるもの。マーガリンを忌み嫌いバターを絶対視するカジマナを崇拝するかのように、里佳もバターにとらわれ、すらりとしていた身体には、いつしかたっぷりと肉がついていく。

「自分にOKを出す」ということ

里佳の変化を通して、著者は読者に「あなたは自由なのか?自分のことを認められているのか?」と問いかけているように感じる。

すっかり太った身体を周りが嘲笑しても、里佳は動じることがない。自分が律し続けていた欲望に気が付き、それを自らに許したことで、かつてないほどの自由を彼女は感じるようになっていたからだ。

痩せてている方がいい。
きれいな方がいい。
わがままは言わない方がいい。

世の中はそんな、たくさんの無言のルールでいっぱいだ。そして残念ながら、女性の方が多くのルールを抱え込んでしまう。

カジマナは(そして、木島佳苗は)、里佳の言葉を借りれば、そのルールをやすやすと飛び越えているように見える。

こんなにも彼女の事件が注目されたのは彼女の容姿のせいだろう。美しい、美しくない以前に、彼女は痩せていなかったのだ。

梶井は何よりもまず、自分を許している。己のスペックを無視して、自分が一人前の女であることにOKを出していたのだ。

里佳にとってカジマナは、そしてバターは、自分が女であることにOKを出すためのきっかけだった。バターを食べればカジマナを思い出し、カジマナと話すためにバターを食べ続ける。バターは、カジマナにとっても象徴的な食べ物だったのだ。

身体の上を、さまざまなできごとが通り過ぎていく。悲しいことも、苦しいことも、楽しいことも、うれしいことも。新しい人と出会い、去っていく人がいる。身体の中には忘れられない味の記憶が残っていき、その記憶は人の行動につながっていく。

このストーリーに「バター」と名付けた著者の鋭さは、恐ろしいほどだ。

本書は2024年、英国の本屋大賞ともいわれる「ウォーターストーンズ文学賞」を受賞した。刊行から7年が経過し、さらに木島佳苗の事件を知らない人が多い土地での快挙は、本書が描く「忘れられない味」と人間の関係や、自分にOKを出せない女性たちの息苦しさが、世界的に普遍的なテーマだと証明したのではないか。

『BUTTER』

『BUTTER』

新潮社
発行日:2020年3月1日(文庫本)、2017年4月(単行本)
文庫版:592ページ
価格:1045円(税込み)
ISBN:978-4-10-120243-3

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