[べらぼう] 四方赤良から大田南畝、そして蜀山人へ。大田直次郎の生涯 [大河ドラマ/解説]

※概要
昌平坂学問所の学問吟味に首席合格するほどの才能を持ちながら、狂歌、狂詩狂文の名手、さらに評論家としても知られる、多彩な顔を持つ大田南畝の生涯をざっくり紹介。

【関連動画】

2025年、NHK大河ドラマ「べらぼう」解説動画です。

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▼エンディング曲
お祭り太鼓 (feat. マニーラ) / Stardom Sound
(P) & (C) Star Music Entertainment Inc.

▼使用効果音
「効果音ラボ」
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「DOVA-SYNDROME」
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▼使用画像
「Wikipedia」
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Webニュース各サイト

▼使用動画
「MotionElements」
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▼お問い合わせ(☆を@に変えてください)
tonreki.ch☆gmail.com

こんばんは桐りです ラトですです [音楽] 歴史はエンターテイメント鹿歴史チャンネルへようこそ前回ね太田南ポが 19 歳の時に出した寝ぼケ先生文集のところでねお話が終わってしまいましたので今日はね大田南その後をまざっくりご紹介していこうと思います 確かにお話のことだったからね今回 うん彼のことざっくり そうそう彼のことねはい行こうと思いますねはいでままずね簡単に復習しますと太田南方通称太田直次郎は開演 2年成暦1749 年に府のお勝ちのえ太田正友の長男として生まれました ここまで前回ちょっと説明しきれなかった点をね補くしますと太田南部初の教科集がどうして寝ぼケ先生文集っていうねタイトルになったのかって言うと あ実はね当時ね先生寝ぼけたかっていうのが流行語だったんですよ なのでその当時1番ホットだった言葉を 自分の本のタイトルにしたってわけなん ですけどもこのねあの寝ぼけ先生文の作者 のところもねこう作者名っていうところが ね新カ粉四角ってなってて編集したのが アンポンタ親玉で構成したのが当木アンケ ってなってるっていうぐらいも全部オタボ がやったんですよ おふやったりしてるというま随所にねこういう悪ふざが天森にられてるま作品だったってわけなんですよねこの作品がヒットしたおかげで太田歩の名前というかま寝ぼケ先生の名前が世の中に一気に知られるようになったんですねちなみに前もね原井さんの動画で話したと思うんですけども根ぼケ先生文章を出した半元は素原一さんの新書道であの里太郎さんがやってるね 先生がヒットしたんで2年後には次の教師 州であるア伝っていうねいうのもま やっぱり素晴一さんのところで出したりも してるんですよねなのでまこの頃の太田南 っていうのは教師とかねえそれから監視 教文とかの方にま夢中になっていたんです けれどもえ雨より土平を出した名和6年 成暦1769年にま内山賃先生のところの ま同門のおデさん同士であるからカラドロ 傑州が強化の会を開いたのでそれに参加し たんですよねこれがま太田南歩がぐっと こう強化の方に才能を発揮するきっかけと なったわけなんですうん 元々自頭がいい人だったからことはできるんだけどそこに太田南方さんもなんか魅力を感じちゃったって感じなんかな そうですねそうですねまずそのカラゴロムキっていうのは内山賃先生とこで太田南部と一緒にま若を勉強していたっていう人なんですけどこのねからオロも喫っていうのはお師匠さんである内山賃さえも絶賛するほどものすごい強化の才能のあった人なんですよ だから太田南方よりもカラゴロム奇襲の 強化の際のがまず最初にあるんですよね カラゴロ傑州ってのは内田賃生がつけた 共鳴あの強化の読む時の名前であの本名は ねお島げ之助という歴としたおけ様で ございますでもってこのカラゴ州の教科会 に参加するようになったので太田南歩も 共鳴を当初はねの赤人っていうねいいう風 に名乗ってたんですよねでましばらくして あの有名な方の世のあててこう解明するん です ですけどねまどっちにしてもその赤ってけたのはこう寝ぼケ先生の時と同じで当時の味噌水の赤飲みかけ山のカラスっていうま言葉が流行していたのでまその流行語から持ってきた名前でもあったわけなんですね うーん 当時日本橋のあの野キべっていう酒屋さんがあったんですけどそこで居酒屋っていうのかななんか今で核打ちみたいなサービスを始めたんですよ そこで酒のつまみとして鯛イの味噌合えと かの赤みそ赤ま屋さんの赤み噌だからの 赤味噌っていうのを出してそれがむっちゃ 人気の商品になったのでそこから鯛イの 味噌の赤って言うとお酒を飲むことって いう意味に使われるようになったそうなん ですよ なので以前ドラマでさタジがさの赤に鯛イの味噌水の飲みや歌やちんどんちんドンって言った時によもっていうのが酒のことだっていう風にねご説明したんだけれども実はあのよの赤まででよっていう酒屋で出してた赤そ酒の魚の赤のことつまりお酒じゃなくて酒のつまみの方のことだったみたいなんでしょうね調べて分かったので訂正成させていただきますってことではい よもっていうのはそのお酒を作ってるあのよさんって酒屋さんの名前なんだけどそこの酒の魚の赤味そが人気になってもの赤って言うと酒飲みに行こうか酒飲もうかみたいな酒飲んでることみたいな言い方だから夜の赤って言ったら酒飲んでるんだって感じになるそういう意味なんですよ元々だから酒の魚の意味なんだけど酒飲むっていう意味になるってねそういうことだったらしいですはい [音楽] 素晴らしいそこをまだしっかり再度勉強し直す桐さんが素晴らしい [音楽] うんいやいやいや 多分私たちはそこら辺ふーんで終わってるから本当は うん覚えてましたはい それあ良かったよかったそれすら忘れてたって言ったら黙っといた方が良かったかなと思ったんだけど一応ま以前ねちょ以前ねちょっとなんかこうお酒だって言っちゃったんでまお酒飲むことではあるんだけど元々そういうね酒の魚から来てるっていうね意味でございました というわけでね名誉6年成暦1769 年太田南部は教科市世の明となったわけなんですけどあの私生活の方では 8年2年後ですね23 歳で結婚しましてで翌年ね長女が生まれたんですけどこの子がね残念ながら整後 1 ヶ月で亡くなってしまうんですねその翌年かな第 10 代将軍の家春がその大川で水魚っていうねなんでしょうお家たちが住田川で泳ぐのを見るっていう事があるんですよ まそれもま言うたら軍事強連の一緒なんでねえそれでその太田南部もこれに参加して自服を賜まっておりますもうこれはねあの太田のおじいちゃんもお父さんも鼓水に参加してま将軍からね自服を溜まっているのでまおかちの公式用事の 1つだったみたいな自服ってなんか 腹っていうのは将軍からねま賜わるご褒美みたいなもんなんですけどま実際にはね着物というよりは端物をもらったのでんでしょうねあのほら平安時代の漬け物の伝統が生きてるて感じですかね あの去年の光るでもさなんか見事な若ったって言ったらこの布とかねてう肩にかけて書いたでしょねけ物っていうねまあれと同じなんですよね江戸時代には肩にかけて書いたりはしませんけどね一応まその上の人から布をもらうっていうのはその伝統として続いてたってことだ うんでもってね安4年成暦1774年27 歳になった南は初めてのおしゃれ本え公益神話というのを観光します まこれはねあの内藤新宿のま宿場女郎に ついて書いた話なんですけどシャネ本て いうのはちょっとねエッチな内容の本なの でま当然大体誰でも本名では書かなくて ペンネームを使うんですけど太田もこの時 は風倫三人っていうペンネームを使ってい ますこの本の差し絵が勝川が書いてて役者 のって言われてたね人ですねこのね シャレ本書いたのはその趣味とかね主と いうよりはどうもお金に困っていたから だったみたいなんですよ でもさ絵とかあれだけどG を書いたりそういう人たちのってお金をもらえずになんや武士の人とかは別にそれでお金はもらってないよみたいなことを前 あうん そうそうそうそうそうなんですよ現行量っていうのはもらわなかったんですよね当時ね そうそうそうそうだからまだこの頃はその銃を書くね作家の方に現行量を払うという少集感はできてなかったんですけど太田婦はねこの公益神話で自分でね反下を書いてるんですよ その今の出版社で言うとまその現稿をねあの印刷屋さんに持ってく 1 番最初銀行のことなんだけど当時の反下っていうのは保士の人が半を掘る前にこの半にこう反対向けに貼り付けるま完成現稿みたいなものでで普通はその反下を書く職人っていうのがやる仕事なんですよ つまりだから太田南が自分で反を書いたってことはその分の本来だったら職人がやる分の料金をもらえたから自分で書いたって考えるのが妥当なのでおそらくこの頃ね生活が相当迫していたのでまアルバイト的にシャレ本書いてでもほらシャレ本書くだけでは少集感としてお金もらえないから反まで書いてでそれは職人に払う分があるからその分を仕事としてねお金もらっていたっていうことなんじゃないかと言われています おそらくなんですけどやっぱり当時教師とか本を書くっていうのはま武士の趣味足並みたいなものでそれにさ人である本屋がお金を払うっていうのは失礼だ逆にブレだっていうようなね考え方があったんじゃないかと思うんですよ でも実際は太田みたいにさ武士だけどお金に困ってるって人もいてそうした事情してる本屋の方でもなんとかまお金を渡したいと思って反書いてもらえませんかってこう内職仕事としてお願いするって形でお金をね渡したんじゃないかなと思うんですよねだからあくまでもこれは武士のメツを潰さないようにお金を渡す手段として反下書きの依頼をしたんじゃないのかなとま思ったりもするんですよね 文章書くってすごいことなのに物資としての変なプライドとかいろんなのがあるからなかなかこうまくいかなかったんだろうねそれまでこうお金を渡してっていうのってうん そうですねまギリシャなんかでもさオリンピックに出るようなねそういう人にはすごい褒美が出たけどこういわゆる学者その知識というのはすごいものなのにそれにお金だったりそういうものだったりで大価になるのはおかしいって言ってあえてなんかそういう褒美は与えなかったって言うからまそういう考え方もあったのかもね そう文字書いてそういうねお話を書くなんての素晴らしい才能でそんなものにそんなお金だなんてっていうねそういうだから今私ちょっと違う感覚のね違いみたいなのがあったのかもしれませんねでも実際田ナパは貧しいとお金が必要 [音楽] なのでシャレ本の現稿にはお金は払えないけど仕事してもらったんだらお金払えるんで反書いてもらえませんかってねなんかほら里孝太郎さんじゃないけど素井さんみたいで人だったらうまくそういう感じでね言って丸くめてくれそうじゃないですか [音楽] さんの方がちょっと倍上というかがあったのかなと思ったりもするんですけどねでおげにねこの年あの貧乏すぎてね栄養不良だったんですかねあの太田南がね回線っていう皮膚病にかかって半年ほど寝込んでるんですよあなんだ皮膚病かってね思われるかもしれませんけどこの年の太田プはなんか全身の回線で歩けないまでになってるのでま皮膚病とはいえ重症になるとま笑えないほど大変な病気だったみたいなんですよね 貧しい上に当田南方が寝込んじゃったもんだから大竹としてはもうそれは経済的に非常に困ってしまったんですけれどもそこをねその明とかいう同門の友人たちがお金を出し合ってまいわゆるカですよね助けてくれたりもしたわけなんですこの年のま翌年というのがあの例のドラマでもやってましたけどもあの将軍の日光者さんあのずらっと並んでて日光り行くっていうですごいなんか見物が出たってねあれの年だったんですよね 一応 友人たちのカパのおかげで栄養状態が良くなったなのか医に見てもらったのかちょそれ辺はわかんないんですけども一応あのこの日光者さんの頃ぐらいにはなんとか病気も持ち直したみたいでオ太田もおかちとしての音をして江戸と日クをねこう歩いて往復したりもしているわけなんですね結構頑張ったわけなんですででもってね 4年後32 歳の時にま長男のさ吉ちが生まれましてあのこないだね津原井さんが抱いてたあの赤ちゃんですよね 翌年まあの例の気師ランキング本の菊層を 書いて法制のミルガ特区一水の夢を極上 蒸気地に評価してお礼にやってきた ツタジュートと知り合うっていうね形に なるわけです実はねあの太田南ポというと 教科とか教師で有名なんですけどあの文芸 評論家としての才能もかなりのものだった んですよ たくさんの気病師とかシャレ本読んで批評したりえ解説したりっていうのをしてランキングにするっていうのをこの頃オタナプはたくさんやってましてえそれがまた結構を得てるんですよね でこの後ナパ自分でも希分を書くようになったんでランキング評論の方はま書かなくなっちゃったんですけど下作者としてより評論化の方の才能の方が絶対上だったと思うのでまできればねその評論文の方を出し続けてくれた方が良かったのになと個人的には思ったりもするんですけどね 太田南方さん前の時も言ったけどこう硬い 人とかのイメージがあったって言ってたの はそういうとこの評価論としてのものが なんていうの有名になるけど聞いてたから すごいおい人のイメージが私はあったんか なもしかしたらそうかなでもね評論化って 言ってもその気病とかさシャレとかの今で 言ったらラノベとかエロ本のね評論してる みたいなもんだからそのおいかと言われ たらちょ おくはないうんおくはないこの年にツタジュと知り合ったことでま後に強化と絵を組み合わせた強化絵本っていうものがま世に送り出されることになってまこれがきっかけで天名のま強化大ブームっていうのが巻き起こって太田南部の一躍時の人になったわけですね うん でもこの頃のねナの日記読とねもう連日連強の会に出かけていってまそれはいいんですけど大体強化の会って主演セットなんでねなんかもう連日連夜酒飲んでるんですよしかもあの今を解きめくね土山掃次郎っていうね田沼をバックにした人のパトロンを手に入れたもんだからも太田南部は我が世の春ですよ浮かれまくってついには吉原の松谷さんの友女巫美先を見受けしちゃったりもしております 苦労はしてたから多少のお遊びはいいけれどもそこまでやっちゃいましたか やっちゃいましたねもうなんかそれまで貧乏だったからねちょっと浮かれちゃってねでしかもさ若い時の恋じゃなくて中年の恋なもんだからね一になっちゃって夢中になっちゃったみたいで飲み込んじゃったみたいでねもうそで見受けまですなんか結構ねまはぶりがいいとはいえ裕服になってはいないんですよこの時もね だから多分身受けのお金とかでそれであの奥さんと一緒にクラスさせるわけにいかないからあの家増築したりとかしてるんだけどその辺のお金なんかもまもちろんそのいわゆる強化のね公表とかそういうのでお金あったりとかその色々ね先生に見て欲しいって言ってねとからも山のようにね送られてきたんでまそれのお礼とかもあったんでしょうけどまさすがにね受けの金となると土山掃次郎あたりに若干出してもらったんじゃないのかなとかも思ったりするんでまちょっとはぶりがいい時ではあったんですけど ねそれにしてもねま貧乏で友達からねカパしてもらってた時代のことを思うとま夢のような生活の時期ではあったわけなんですよねただね天名の強化ブームっていうのはムーブメントが大きすぎたのでま覚めるのがもう早かったのとあとねやっぱ田野大きつぐが執客して松やどもが老になってでそれであの感染の改革っていうのもねやり始めたのでま庶民の娯楽っていうのも締めつけられてこう一気にね強化分を冷え込んでしまうんですよね ということでま太田歩もその田沼派の土山治郎と親しかったってことで目をつけられたんですけど取調べまで受けたんですけどま一応音めなしってことにはなりますなるんですがここでも太田はこないだの小川春町じゃないけども強化はやらないって言ってね強化の筆を折ってしまって 1 年発起して今度はね翔平学問所で行われた学問吟味というま府の洋テストですよね これを受験しまして見事効果合格トップの成績で合格しちゃうんですよねでしかもあのこの年効果合格の 5 名のうちご家人の身分で合格したのは太田方ただ 1 人だったのでねだからおかげでお勝ちから感情業配下の支配感定ってのに大抜擢されてお給料も 100票5人無事30 票もアップするんですよねさすが現内先生に天才真新真の学者って呼ばれただけのことありますよね だからあとねあの強化ブームで生まれて 連日連ヤ酒飲んでてなんか2日酔いだとか 言ってた時でさえも結構 ねとかもしるのでだからまこの時期の おナンパを浮かれてる感じはするんです けどもま見た目よりは真面目な天才でも あったわけなんですねやっぱりその時の イメージがそれをどこでどうなんだから そう思ったのかが全然思い出せないんだ けれど も真面目になるのはこれからでございまし てね もあのパっと見この今までこのご紹介したこのね時期はかれとるないちびっとんなって感じなわけなんですがも今の本当ドラマの感じそのままなんですがこっから後はあのすごい真面目になりましてですね [音楽] あとちなみに太田南方が試験を受けたあのこの年の試験は時代劇でお馴染みの東山の金さんのパパの東山影道も高合格してるんですよ さらに言うならこの金パパの東山って後に ね長崎になるんですけどその時に日本と 通称したいってロシアのレザノフっていう のがやってくんですけどそれとね交渉し たりなんかもしてだからなかなか有名な人 なんですけどもであとねこの翔平坂学問所 の学問吟味のテストっていうのがまこの年 あの松平佐信が完成の改革の一環として 行ってるものなんですよそれまでなかった んですよね だからわゆる太田南方っていうのは松平サどもの改革のせいで教科師への道は閉ざされてしまったんだけどでもその松ではサ信のそのあの学問吟味のこう解説っていうもののおかげで別の爆としての出世の道を得たってことになるのでまだから損はしてないというかむしろ得した人と言っていいのかもしれませんね元々いろんな才能もあるし真面目な人でもあったからちゃんとそういうのを評価いい意味でされたんだろうなとも思うよね この人自身うん そうなのだから強化で浮かれてる時もものすごい人気にはなって毎日浮かれ騒いではいるんだけど日記にはバみたいな本来彼はやっぱ武士だし教化って武士としてのじゃないからねそういうもっとなんか正堂の方の学問とかで認められたいよなみたいなことを書いてるのでそういうバーンってブームになって受かり騒いだけどもしっかりそっちのねの方に立ち帰ったみたいな感じですかねこの時期はね本人的にはね それで今日は元年成暦1801 年に太田南方53 歳の時に大阪の座っていうのを命じられますま一応 A 点ですところがね大阪へ行った南方を待ち受けていたのが 先生強化読んでくださいよ あのやっぱり教科師世の明とか教師家根寝ぼケ先生の名前っていうのはもう今日大阪にも成り響いてたもんですからもう大阪の人たちにしたら太田歩くるって聞て根ぼケ先生くるって聞きもう手薬引いて待ってたって感じだったんですよちょうどこの頃うまい具に松田さ野も失客しちゃってで文化的な締め付けもまそれほど厳しくなくなっていたのとまあと江戸じゃなくて大阪だしっていうことで大田南部もそろそろ強化を読んでもいいかなて思ったみたいで で今度は教名を職産人としましてを再開したわけなんですね 路産人じゃなくて食産人どこから取ったのか色々なとこ取ってたもんね今までの名前 そうあのこの頃の太田南ってほら大阪の座だったじゃないですか中国ではね銅のことを食産孤事っていう風に読んだです別名なので監視でよく出てくるんだけどね だからとりあえずまあまあ最初はね仮の共鳴として自分座だしだからまどのま別名別称である食っていうので座にいる人みたいな感じで食産人っていう風にしたみたいなんですけどでもそれが結局ね大田南部の生姜で最も知られる名前にはなっちゃったんですけどね太田南部が大阪に行ってる間にねあの息子のさき吉ちまドラマではまだね赤ちゃんでしたけどあの彼がねすでに結婚しておりまして大田ぼが大阪に行ってる間になんと男の子の孫が生まれてるんですよ [音楽] なので太田南この時おじいちゃんになったわけなんですねさらに髪型ではあのよくご存知の右物語ってねちょっと怖い話で有名な上田秋成なんかとも交をねしましてそういうね文化的なが色々ね盛になった後まやがて江戸に戻ってきますと天名のブームの頃ほどではないんですけども度々強化の会なんかを開いてま強化をね楽しむようにはなっていったんですね ただこの頃ねあの元々の法だった明ら観光 なんかはもうすでに亡くなってしまってい たのでよく一緒に強化の会をしたのが三年 とかねそれからあの極定馬金あの発見でね とかあと右塩あの落語の江戸落語の中高 無所とかって言われてたねあの人とかその 頃の江戸の文化人っていう人たちと教科の 会をやったわけなんですねただねこの頃 教科だけじゃなくて監視の友っていうのも 増えていたのでで監視の方なんでちょっと 各上のね旗だったり大名だったりなんかの 付き合いの方も多くなっていったのでま かつての強化にかれて町人たちとねこう 親しくやるっていうよりはまあ半々ぐらい か監視の方が多いかな重点かなぐらいの 生活ではあったですねうんドラマの イメージしかわかんないけどすごく 人付き合いが上手な人のようなイメージは するよね 交流をどんどん広げていくタイプの人だったんかなみたいなね そうですねただまあやっぱりそのこの頃になってくると年も年だし格上の人たちとのお付き合いも多くなったんで割とま貫禄のある感じのお付き合いみたいあんまり浮かれ騒いでというちょっと落ち着いたお付き合いみたいな感じにはなってたみたいですねさらに文化元年え成暦 184年になりますと大田ポ56 歳の時ですね長崎業詰をねじられまして長崎まで単心不妊をしております ちょうどこの頃そのさっきも言ったロシアのレザノフっていうのが幕府に貿易を求めに来ていてで長崎業ではその構想で天ワ屋の最中だったんですけど南保もその中にね長崎詰めになったもんだから長崎業その役人としてデザノ府一の対応に追われることになったわけなんですねでそんな頃ちょうど長崎業として不妊してきたのが例の金さパパの東山影道だったわけなんですよ なのでま東山影道とオ田南っていうのは実はね同じあの試験で同じ主席合格して一緒に長崎でもレザノフ対応をしたっていうねまそういう関係性でもあったりするわけなんですね このレザノ件ってのは結果的にレザノフがま通称はしませんてことで拒否されてま追されちゃうんですけどもその辺はねえ詳しい話はまた機会があったらお話しするとしまして太田保の方なんですけどもえレザノフ事件が解決した後に太田パ江戸に戻りましてでその後もりとして真面目に働く方々とか教師なんかを作っては同向の仲間たちとま暮らしたんですけれどもえ文化級 成暦1812 年には吉地がねようやくえ支配感情な として出集を始めてもう田歩も大喜びしていたんですがこのね吉っていうのがね熟の天才だったのかななんかね 17 歳の時に府のあの必然味っていうのに最年勝で合格するほど頭のいい子供だったんですよだったんですけど何ですかね 頭が良すぎて繊細すぎたのかなんかコミ障だったのかそれからなんかずっとね 32 歳になるまで就職もできず32 歳になってようやく支配感情見習いっていうので出資したっていうのでも分かるようになんか長年ずっとニートしてるんですよ ニト息子だったんですけどもなんかね後に罰金があの乱心して配信になったっていう風に書いてるので何か精神的障害があったのかまうつ病みたいな感じだったのかまとにかく就職できない時期が長くてやっと就職できたって喜んだんですけどもその翌年ぐらいからま色々問題があったみたいでまはっきりした年は分からないんですがどうやら仕事もできなくなっちゃったみたいなんですよね だから本だったらもう過超えてますからね してもおかしくない年なんですけど息子 そんな状態だしでだからなかなか仕事やめ られないし孫もまだ若いしってことでま ずっと働き続けて70個した頃にはもう なんか江戸城へ出資する途中に神田橋で 転んで怪我するとかねなんかあの具合悪く なって血吐くとかねもう健康面的にも結構 呼ぼよぼで某でそれで本人もね酒を飲んで も腹が膨れるばっかりで言わないし物事に も飽きて退屈して何にも面白くなくなって しまった 本読んでも楽しくないしただ楽しみといえば寝るばかりそれも若い時のように慣れた友女の元に通ってトロリっとトロトロと寝たりっていうのとはねもう覚醒の感だねってぼく分をね書いたりもしてるくらいなんですけどもただまとりあえずそのぼ文句言うとか言いながらもま楽しんでる感じはあるんですけどねなんか若い時楽しかったのね相当みたいなね分ではあるんだけどまあまあそんな感じでま文句言いつつもま 72 歳まではあの仕事を続けていたようなんですよね なんですがまあのさすがに夜年並みには勝てなかったのか分 6年成暦1823年の2月に家の2 階から落ちましてで怪我をしてしまいましてさらにはね 3 歳のひ子がこの年なくなってしまうんですよねでそれがやっぱり相当ショックだったのかとうとこの年の 4月の6日に亡くなってしまったんですね とはいね亡くなる3日前にはお目かけさん 連れて歌舞伎見物に出かけていってでその 後あのヒラメの茶漬け書き込んで水星 旗ムシ75巨所酒あり司法近く晩餐ひらめ なんて監修読んだりしてるんでま亡くなる 3日前までは相当だったみたいではあるん ですけどねまでもその3日後には朝起きて こなくて行ってみたらそのまま行って しまってたってことだったんでま最後は 安らかに大王情したってことみたいなん ですね でちなみにね太田歩の自性の区は今までは人のことかと思いしが俺が死ぬとはこいつはたまらんとなっておりましてまあまああの伝わるものによって多少のね言葉の違いんですけどま大体こんな感じなんでま最後の最後まで人生を着かしてる感があって楽しそうな人だなとは思ったりもしますね あそれがねやっぱり亡くなるまでそういう風にできるっていうのが何よりもこうお金がなくって大変だったりとか色々あったけどある意味いい人生だったんだろうねっていうのがこの区でこの歌で分かるような気がします そうですねまなんかあのお金ないお金ないって若い頃はねすごいあのそういう強化も読んでるし日記にも書いてるしま相当色々ねあったんですけれどもそれでもいいことはあったけれどもそれを全部なんかこう楽しんでこう苦しい苦しいじゃなくてね楽しんで生きた人なんだろうなて まある意味人生の達人的な人だったのかなとは思いますねなので局面がありながらもその時その時で精一杯に生きてるっていう感じの人ではあったのかそれも楽しく精一杯に生きてるって感じの人だったのかなという風に思います ということで太田南部の75 年の人生をざっくりお話してみました太田南歩の人生楽しそうだないいなと思った方はチャンネル登録グッドボタンをよろしくお願いいたします 私もねこう太田南方さんをこう聞いて すごい面白いし字頭がいいし努力化だし 真面目な部分もあるんだろうなと思い ながらも1点だけあのねちょっと調子に 乗って見受けしたところだけが未だに 引っかかっておりますそういう方も いらっしゃるかと思いますがあの一緒にX を楽しみましょうよろしくお願いします 太田南歩楽しそうな人生でいいな でも桐リさんの方がもっと楽しそうに見えると思ったそこのあなた是非メンバーシップ そうね貧乏だった頃があるっていうのもそっくり同じかもしれないですねということでではまた次の動画でお目にかかりましょう 今も貧乏やろ まあ貧乏だけどねでま大田もだからその障害まそんなにお金持ちになるってことはないんですよね あのまあまあその出世したとは言ってもやっぱりなんかなかなかねあのやっぱほ息子が働いてないしでそれ孫もね言ったらなくなあのひ孫もねなくなっちゃったりとかで例のあれですよね稼ぐに追いつく貧乏王師ってやつであのなかなか稼いで頑張って稼いたんだけど貧乏だよなっていう障害でその辺もま似てるのかなと思ったりもしますけどねまただぼと違ってねえ子供も孫も暇もいませんけどねはい 悲しい で奥さんもおかけさんもいませんけどね [笑い] 頑張り までもねおおめかけさんはねあのま言ったらその一目惚れだったみたいですねどうもね へえ うんだからそれまであのやっぱ貧乏だから吉原とか遊ぶっていうことができなかったのがその土山ね掃郎みたいなパトロン手に入れたり強化でま言うたら先生を呼びたいって言うんでこう接態でねえ生きてくださいって言うんで吉原言うことが多くなるわけなんですよだからあのこの頃もね貧乏なんですよ別にほらなんてうのあの現行量が入るとかじゃないから貧乏なんですけど 貧乏なんだけどそういうね吉原にはもう毎日連日連夜ヤ行くしいろんななんかこのね酒飲む宴会には行くしみたいにはなってるんで不思議な感じの生活ではあるんだけどなんからそれでやってるうちにやっぱ奥さんは貧乏だからさどうしても走行の妻っていうのはま着物もなそんな綺麗なの買えないしでこう小もりもねしなきゃいけないしであとあの妹ももう 1人この当時ね生ま たからだんだんだんだんまじてくるっていうのはしょうがないじゃないですかねでそんな中吉原でおらんですからそりゃ綺麗ですよ若いしでそれで綺麗なおベ来てるしそれでもう働いてないから手もねそんなもう手にまでお城い塗ったりなんかしてみたいな人だし奥さんと違ってま吉原の言うたらまおらんじゃなくて心臓だったんですけどねふ袖で心臓だったかななんか心臓だったんでその言ったら知識もあるじゃないですか若読んだりぐらいはできるしね だからそういう共の面でもまなんだろうねそういう話もできるしみたいな感じでんでしょうねま中年の恋ってのは夢中になっちゃうもんなんですかねもう本当にもうま連日連夜もうまったなしみたいな感じでもう恋しちゃったらもう俺のものにしたいみたいななんかそんな感じの強化が多くなってでおそらくは多分土山治郎がお金出したんだと思うんだけど見受けしてまあと心臓なんでそこまでは高くなかったと思うんだね [音楽] 見受けしてでそれででも家には奥さんいるから家でこう暮らせないからあの家をね参生かなんかね増築するんですよでその増築の費用は誰が出したんだろうと思うんだけど増築してではそこにお絵かけさん置いてってことだったらしいんでねま奥さんにしたらたまったもんじゃないけどもその強化とか日記読んでるとその無が夢中感が可愛らしいなって感じでまそんなところもねまあんでしょう 太田のま要請なこういわゆるこう明るい 性格の1つのね現れなのかなっていうのは こういわゆる印にこう言うんじゃなくて ネット粘着室ってよりはもう好きだみたい な感じでねもうなんかちょがすごいんでね ましょうがないかなこんなだから奥さんも きっとこの人が仕方ありませんわねったん だろうなとかなんかちょっと理解できる 部分もあったりするんですねうん いえば今で言うと飲み会みたいなのが多かったから昔だったらよくあったこうね寿司の折りかなんかを家族に持って帰ってくれてたらねいいけどね 今ってあんなのもないよねきっとお寿司 そう 昔はよくねあの飲み会をあのお父さんがねなんかそういうね飲み会に行ったら必ずねこのお寿司の折りとかいわゆる竹のなんか皮みたいなねあの箱みたいなに入れて紙で包んで神紐でこうなんかねこうやって結んで持って帰ってたよね多分あれあのゆらゆラ売入れるからさ橋に寄らないからいいんですねこうやって持ってるとねお寿司がね握り寿司が潰れなくていいんだろうねそうねそんなのあったねそういえばね あったよね 昔ねなんかよくサザエさんとかでさ平さんがうええって言いながら持って帰れるとかの漫画は見たけど うんうん だからでも昔はさ割とあのそのお父さんたちが飲み会えするっていうねその今話だとさお父さん働いて奥さんは専業主婦が多いからお父さん飲み会えってのが結構あるんだけどその飲み会のさなんだろうその余ったのなんかこう焼き鳥だったりとかさ なんかそうそういうのをお土産に包んで持って帰るとかうちの家なんかはよくあってなのでなんか飲み会だって言われたら子供たちわいって感じなんだけどなんかお土産が必ずあるみたいな感じで 父親が早く帰ってくる 遅く帰ってきてなんかお土産もらう方が嬉しいみたいな そんなのはあったよねそういえばねまだから太田なんぼあの江戸の当時って割とそうお土産文化なんでそれはなんかやっぱりこう招いた人なんかもあの奥様とお子様にとかって言ってさあの子供用のお菓子くるむとかねお好きでしょうからって言ってなんか網でくるむとかなんかそういう焼き魚をくるむとかなんかはあったんじゃないかなと思うんで そうそうであってほしいと思った 割と家族大事にするタイプでもある [音楽]

42 Comments

  1. 「べらぼう」の頃の江戸っ子って、もうみんなこぞってコピーライターみたいだよね。軽口とか地口が身についてるからなのか、口から出る言葉が洒落まくってる!流行り言葉の坩堝だね🥰

  2. 恋川春町の不器用さが、とても自然で良かった。作家絵師だからこそプロとして分かる北尾政演作の良質さ、自作と引き比べた時の自身の劣等感は、誰よりも肌で感じたことだろう。才能で評価される世界の厳しさ、後輩や新人に絶えず脅かされるかもしれない不安感は、他の職業にはないものだろう。

  3. 長屋住まいの下級武士の家に生まれ、自身の才で作品の出版を果たし誰もが知る文化人となって行く南畝の人生は、まさに青本の主人公のようです。彼が実は有能な官僚としての後半生を送り、学問で身を立てたいという強い意志が昔からあったことが、一般の大田南畝のイメージと異なっている点だと思います。。”菊寿草”での耕書堂の記載が蔦重との出会いだったのは、ドラマと同じです。寛政の改革が契機ではあったかもしれませんが、それ以上に南畝の中では狂歌の担い手が初期の豊かな知識人から町人へとシフトして行ったことを敏感に察していたと思います。私の勝手な想像ですが、狂歌ブームが町人中心へと変化すれば自ずと趣向も変わり、武士としての矜持を保つという最低限のルールも踏み外しかねないことも起こりそうです。そこだけは南畝としては、どうしても譲れない線だったのではないでしょうか。彼の心変わりと狂歌本出版の加速が同時に起こっていたのが、皮肉でもあります。後半生でも、相変わらずの苦労は続き、なまじ人気があるから他からはやっかまれ、学問吟味も一度は不合格、息子の問題で孫の成長まで引退できず、頼みの孫も優秀でなく、一人で三世代を養うとは気の毒の極みですね。彼の人生そのものが、まさに狂歌にしたくなるほどのアップダウンに感じました。

  4. 太田南畝→桐谷健太のキャスティングは秀逸だなぁと思いました。
    はじめは桐谷さんの滑舌がムッチャ心配だったんですが、なんか慣れてきました(笑)

  5. きりゅうさんちゃんと勉強をかかさずに偉いですね👏
    太田南畝さん大往生でうらやましい😂

  6. いつから本の作家を評価する賞が生まれたんでしょうか?日本の芥川賞や直木賞とかノルウェーのノーベル賞以前はなかったんですか?

  7. お妾さんや見受けした遊女さんですが、太田南畝が亡くなった後の身の振り方はどうしたのでしょうか?

  8. 銅座の新しい役人さんが来る、じゃなくて狂詩・狂歌の大先生が来るで!、で話題になるのが大坂っぽいwww

  9. 疥癬は清朝6代目皇帝乾隆帝もかかっていて、如懿伝というドラマでは乾隆帝がかかる元になった人は亡くなった、となってました。
    痒くて熟睡できなかったみたいだし、体力落ちてたら亡くなることもあったんでしょうか。
    遊女の身請け、私も引っかかりました😅それパトロンさんのお金やん!😅老い楽の恋は人を変えちゃうんでしょうね。
    中国の皇帝でも若い頃は名君と言われたのに年いって若い側室に入れ込んで国を傾けちゃった人が居ますしね😅

  10. 大田南畝は一見天才風だが、努力を影でして外の人には見せないタイプの人だったように思われますね😃中年になってから正統派の学問(朱子学や漢詩?)で公務員試験に合格するような感じで登用されるところは、普段からの研鑽がないと出来るものではないでしょう❗戦の無い時代に家格も低いとなると~出世の糸口は学問しかありませんものね😅それでいて、狂歌・戯作・文芸評論と多芸でもある・・・まぁ凄く出世はしなかったけど、今なら覆面作家で文芸活動をするノンキャリの官僚さんと言ったところでしょうか😁それも兼業禁止が厳しい枠組みで・・・💦💦

    狂歌ブームの衰退の波~寛政の改革の時に規制にも遭ったが、一時の大ブームのせいもあり⇒マンネリ化とか作風が荒れた部分もあったのでしょうね🤔もちろん、また盛り返す時も来るのでしょう・・・

  11. 太田南畝について詳しい解説をいただき、ありがとうございます。太田南畝については、1回だけではとても解説しきれないと思っていましたので、再び詳しい解説していただき嬉しいです。四方の赤についての説明もよかったです。四方屋(銘酒「瀧水」が有名)は現在でも赤坂で酒屋さんとして営業していますよね。
    川合さんがご指摘いただいたように、太田南畝が土山宗次郎の庇護の下、連日吉原で宴会をもっていたことは有名なのに、大河ドラマではそんなシーンは全く出てこないんですよねぇ。万載狂歌集にも軽少ならんこと土山宗次郎の狂歌がたくさん掲載されているのに。たが袖だってそこに同席していて狂歌を詠んだはず。だからたが袖の狂歌が万載狂歌集に載っているですよね。
    私は「をやまんとすれども雨の足しげく又もふみこむ恋のぬかるみ」という狂歌が好きです。三保崎に入れあげて長雨を押してでも通い詰めた太田南畝の心情を伺わせる歌です。

  12. 恋川春町の小島藩の陣屋跡の紹介があって嬉しかったです
    とてもシャイでネガティブなのに頑固な性格だけど、歌麿や喜三二や蔦重によって自分の才能や本能に気づいて良かった
    ラストはフンドシ姿でプープープーと踊り出して皆んなで楽しくなって面白かったですね
    大田南畝は貧乏でも楽しく生きていて最期も笑って天国へ逝ったと思うと幸せでしたね

    意知は松前藩の弱みを探って誰袖に間者をさせて身請けの約束までして‥心配です
    治済の陰謀の手にかかるのが
    目に見えてますね

  13. 以前印刷業界にいた者ですが、版下(製版用の原稿、今どきはデジタルデータ)って元々そういう意味だったのですね😳
    勉強になります!

  14. 朝井まかてさんの『秘密の花園』を読みました。
    馬琴が主役で、蔦重や京伝も出てくるので、タイムリーでよかったです。

    馬琴が旅に出るのに、京伝に揮毫をかいてもらってそれを贈り物にした、という描写があって、興味深かったです。
    泊めてもらう代わりに屏風に絵を描く、みたいな話はよく聞きますが、そういうこともよく行われていたのでしょうか?

  15. 流石の大河ドラマ、皆様演技が上手すぎます🎉誰袖そう行っちゃうの(?_?)と思いながらも楽しい回でした❤大田南畝、貧しくて疥癬(**)ビックリです❣疥癬怖いよ、伝染るよぉ〰️三畳増設🤣幕府にはお金が無いけれど、南畝先生はバブリ〰️だったんですね❣遊女を身請けする→長生きすると遊女も年を取る→若いおなごが良くなる→生活の面倒は見なくては→ちゃんとみてたのかなぁ?身請けした方々🤔🤔🤔❓️大田南畝先生の事を詳しく教えて下さって有難うございますm( _)m今回も楽しかったです✨

  16. きりゅう先生の貧乏時代の話し、めっちゃ聞きたいです❤歴史と関係ないので、メンバーシップでも良いのでご検討ください🙇

  17. 何時も楽しい配信ありがとうございます。

    疥癬について補足したくコメントします

    疥癬はダニが皮膚に入り込み卵を産み付けてそれが孵化し皮膚の下にトンネルを作っりまた卵をる事で皮膚病が繰り返される病気です

    栄養失調で疥癬ダニエルの餌食になったのですね

    健康な人にはかかりにくいですが
    痒みが強くて酷いときには指の間から侵入することがありますので、ご注意下さい

    拙い知識ですが
    昨今
    マダニや南京虫のように過去の話になっておりますが
    現代でも沢山ありますので
    ご注意下さいませ

  18. 三畳間増築で身請けされた振袖新造遊女は外出できても座敷牢みたいで気の毒😢
    某は和歌や漢詩の知識もなく狂歌は詠めないが、昨日🏇競馬のWIN5のWIN2クビ差撃沈に「転寝💤に/決勝線/目前チン」川柳詠んでみた😎

  19. 恋川春町はじめ武士の頭が低いのはドラマだから?この時代実際そうだったのかしら?

  20. 先日のドラマでの田沼意知、蝦夷について、ペラペラ喋り過ぎだろう!と思って観てましたが、大田南畝の陳奮、安本丹に滕偏木… そこまでふざけると、もう何でも許します😂

  21. 疥癬は病気というか、ある種類のダニが寄生することなので、免疫力が落ちていたうえに住環境も悪かったんでしょうね・・・(今でも時々老人ホームなどで発生したりしてます 今は薬があります)

  22. もともと漢学者を志してただけあって、勉強家で頭良かったんですよね~ただ遊んでた訳じゃないのよね😂
    動画でも言っておられましたが、定信政権になって狂歌はやりにくくなったけど、学問吟味で漢学の素養が評価されるようになったから、狂歌師としての評価は受けられなくなるけど本業の漢詩で評価されるようになったのは良かったのかなぁと思う。

  23. 大田南畝の生涯についていろいろ学べました、ありがとうございます😊
    貧しいけれど文芸で活躍したり、勤めで出世もしたり、家族想いであり、常に一生懸命な人なのですね😊
    蜀山人の名のほうは知っていました、すごい文化人、くらいの知識で😅

  24. 大田南畝、浮かれちゃってもちゃんと真面目な所があったんですね。75年の人生を伺って折々感じますね。明るい魅力のある人物の解説ありがとうございました🙏❣️

  25. 当時は、妾持つなんてステータス。奥さん(御家人の妻だからご新造か)も気分は良くないだろうが、甲斐性のある夫を持ち、自分も正妻として立ててもらえれば、文句を言う筋合いではなかったのかと。

  26. 太田南畝が蜀山人だったとは知りませんでした。蜀山人のことは、『北斎漫画』序文(3編・6編)で(名前だけ)知っていたので、今回は特に興味深く拝見しました。

  27. 太田南畝の生涯をきいてたら、なんか元気出ました!困ったことあっても、明るくいけばなんとかなるなる!(?)
    ところで、疥癬てダニが原因の感染症で、今でも大変です、死ぬほどかゆい!体が弱ると感染しやすい。介護施設従事者ですが、集団感染で大騒ぎになった経験あり。近年、特効薬はあるのですが、江戸時代は、身体清潔と自分の免疫力で治すしかなかったと思います。太田南畝先生、エラかった!

  28. 大田南畝って大田蜀山人の事だったのですね!今回初めて知りました。蜀山人の狂歌はいくつか知っていたし、落語のマクラなどで取り上げられる事も多いので、眼からウロコです。詳しく教えていただき、有り難うございました!

  29. ちょっと本題から離れた余計な感想だけど
    今回のべらぼう、名前だけだけど御先祖の高山彦九郎出てきた。松前廣年、松前道廣と交流あったのか、、、知らんかった。
    その後だよね、九州でなんか怪しいことするのは。閉鎖的だった薩摩領内にも入ってるし、不思議ではあったんだけど、、、
    尊皇攘夷論を広めたい自分の思惑とそれを利用しようとする力を持った人たちの間で知らずにスパイ的な役割を担わされてたのかな?
    利用するつもりで利用される、蔦の絡まるように複雑すぎて解けない。精算するにはチョッキンと簡単に切り離される、、、御先祖ーーー🙏

  30. 疥癬って今でもあります。ヒゼンダニという小さなダニが、皮膚内に住み込んで繁殖してしまう皮膚病です。ダニですので触ったり剥がれ落ちた皮膚に触ったりすると人にうつります。脱いだ服に潜んでたりするのでそれからもうつります。全身に疥癬トンネルが出来て卵が産み付けられ、どんどん増えます。皮膚が腫れ上がり、めちゃくちゃ痒いです。今はイベルメクチンで治療できますが、昔は薬が無いからどうしてたのかなあ?介護施設でたまーに出ると隔離され、介護士は全身ガウン、グローブ、ビニキャップでガードして介護をしなければいけません。イベルメクチン飲んだら毎日お風呂に入って全身にかゆみ止め塗るのを一ヶ月は続けます。昔はムトーハップという入浴剤入れて入浴して殺虫してましたが、一時期自殺に使われるようになって販売中止に。あ、昔は硫黄泉入ってたのかなぁ?辛かったろうなあ。太田先生😅

  31. 明治初期に奇人として名を馳せた画家の淡島椿岳が詠んだ辞世の句「今まではさまざまの事してみたが死んでみるのはこれが初めて」は、太田南畝の本歌取りというか、少なくとも下敷きにはしている感じですね。

  32. 南畝先生やってんなあ!

    太田南畝=蜀山人は知っていましたが幕府のお役人としてのあれこれは知らなかったので、楽しく聞かせてもらいました。(この辺りはドラマじゃやらないでしょうしね)

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