今回は豊臣家が滅亡した大坂の陣の前提となる豊臣家と徳川家の知られざる関係性を掘り下げます。

なお、「豊臣」は氏であり、名字は「羽柴」であるため、本来は「羽柴家」と呼称するのが適切ですが、本動画では一般的に使用される「豊臣家」で統一しています。予めご了承ください。

詳しくは下記の動画で解説しています。
https://youtu.be/WWQjVX5nA1k

※本動画は「どうする家康」のネタバレを一部含みます。

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0:00​ オープニング
1:04 豊臣家筆頭へ
3:22 豊臣家からの独立
5:38 豊臣と徳川の協調関係
8:51 協調関係の破綻
11:32 強硬姿勢の秀忠
14:43 参考文献のご案内

についてお話しています!
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茶々と片桐且元の書状から羽柴家の滅亡に至る経緯を詳細に分析しています。後世、創作された茶々像とは異なる等身大の茶々の姿を垣間見ることができます。

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■今回の時代のキーワード
#どうする家康  #大河ドラマ #徳川家康  #大坂の陣  #徳川秀忠  #豊臣秀吉  #茶々  #豊臣秀頼

※使用している背景映像は河原撮影ならびにフリー画像・映像素材・ライセンス取得済みの素材を使用しています。
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19 Comments

  1. 【次回のライブは21:30スタートです!】
    前の仕事の関係で21時に帰宅できるか微妙なので、21:30スタートにさせてください!
    (お陰様で熱は下がりましたので、次回は元気に配信できると思います!ご心配おかけしました…!)

    【訂正】
    3:43 五大老の表ですが、前田利家ではなく前田利長の誤りです。初歩的なミスで申し訳ございません。

    【補足】
    「豊臣」は氏であり、名字は「羽柴」であるため、本来は「羽柴家」と呼称するのが適切ですが、本動画では一般的に使用される「豊臣家」で統一しています。予めご了承ください。詳しくは下記の動画で解説しています。
    https://youtu.be/WWQjVX5nA1k

  2. たとえ家康に豊臣家を滅ぼす意志がなかったとしても、豊臣家を各下にしようとしたこと自体相手には到底受け入れがたいものであり、そこに秀忠の汚名返上が絡んだ時点でどのみち大坂の陣は不可避であったと思います。

  3. この前飛行機の中で見た歴史番組では家康自体やはり豊臣家を滅ぼすつもりはなかったけど源頼朝が平家に許されその後平家を滅ぼすというのには影響されていたというのは間違いないだろうって小和田さんはおっしゃってましたね

  4. 今回も、新説解説により今までと異なる史実が見えて来ました。有名な寺社修復での豊臣家の支出のよる財政難もむしろ強調関係であったこと、大坂の陣後の約束違反の堀を埋めたことも創作だったのですね。途中までは豊臣、徳川双方が両立するような住み分け(ドラマでは豊臣は公家、徳川は武家と言われていました)ができていたのかもしれませんね。ただ、秀頼の成長に伴い、事態は推移していったのでしょう。
    秀忠が家康より強硬に豊臣家を滅ぼそうとしていたというのは、意外でした。娘のことを考えて躊躇するという面はなかったのでしょうか?秀忠は、後に家康時代からの家臣も多く改易しているので、脱家康路線を取りたかった、独自色を出したかったのでしょうか?そうであれば、ドラマで言われていた”凡庸な二代目”とは対極にありますね。ちょっと不思議に感じます。関ヶ原の戦い前は、秀頼の代理として土地分配をしていた家康が、戦後は豊臣直轄領を含む地を分配し、京都、伏見、堺を支配していたという視点が、新鮮でした。

  5. 豊臣秀吉だって織田家から天下奪ったんだからやられないなんてことは豊臣だって思ってないはずだ

  6. こんばんは♪
    動画ありがとうございます!
    ライブ開始時間了解です🫡

  7. 19日放送回では、ついに徳川四天王が全て退場となりましたね。名残惜しく寂しく感じつつも描かれ方は良かったですね。ドラマ上の茶々さまの焦燥ぶりは従来説通りですが、以前からご解説されているように、茶々=お江=秀忠=千姫=秀頼の関係から~徳川は豊臣の一定の権威を尊重・認めていて、一種曖昧ながらも二元体制に近い状態を許容したこと⇒よく理解出来ました。しかし、いつかは(家康存命の内?に)徳川に従属するあくまで一大名(家格は高いことを許容しても良いが)とすることを豊臣には認めてもらいたいと考えていたであろうと私は思っていました。やはりキーポイントは二条城の会見でしたかぁ・・・茶々+秀頼も天下の大権返上とまではいかずとも、一種の特別親藩待遇(縁戚関係があるから)みたいなところを希望していたとのご解説。新鮮でした。それは結構、豊臣としては現実路線と言えなくもないですから~それまで、てっきり「政権を禅譲しなさい!」がマストだと思っていました。

    秀忠さんの名誉回復指向の為、豊臣に対して家康以上に厳しく当たった説~あり得るなぁと思いました。家康も秀吉に小牧合戦以後の再征を強行的に仕掛けられたら徳川は危なかった💦との認識があったと思います。そこで臣従したら秀吉からの信頼を受けたことに関して感謝の気持ちも少しは有ったのかな❓でも秀頼・茶々もあと一歩妥協しておけば良かったのに😅と思わざるを得ません。しかし大坂城退去(=転封)も妥協できない必須条件になっていましたか❓すると織田信雄の「父祖伝来の地・尾張などから動きたくない!」が重なってきて、豊臣の先行き暗いですねぇ・・・

  8. 関ヶ原の時の味方の大名もバシバシ潰したのは秀忠で、或る意味で優秀。外様どころか譜代や兄弟の親藩まで潰しているので、これは秦・漢などが出来た時も忠臣を粛清したのと似ている。

    秦二世皇帝は宦官出身の実質の最高権力者に害されたが、これが宇都宮城の釣り天井みたいな謀反で、下剋上が起きなかったのが、違いかもしれない。

  9. お疲れ様です。
    平八郎、小平太が今回で最後。これで家康の若い頃からの家臣がいなくなっちゃて淋しくなります。あっ、正信が残ってましたね。我々がよく知ってる本田忠勝の肖像画、創作でしょうがいいエピソードだと思いました。確か、忠勝の辞世の句、家康の事を思うと死にたくない、死にたくないと詠んでたと、ドラマ同様に家康の事が好きだったんだなぁと思います。
    家康、小平太、平八郎の3人の笑い合うシーンが素敵だった。
    気になっていたのですが、寧々様の落飾は、もう少し先だったんですか?従来のドラマでは、もう尼の格好をしていたような。。。
    次回予告で家康を抱きしめたのは、もしかして氏真?

  10. まぁだろうなー^^;としか言いようがない。「徳川が陰謀で!」「家康が悪だくみをしたんだ!」っていうのは無理がある。
    そんなことしてるんだったら数年で徳川幕府は滅亡している。
    徳川家康の社会制度は、現代から見てもかなり合理的で、構造主義に則っているもので、東洋的政治の極致。
    だから260年も続いた。しかも天皇と将軍、大老などの相次ぐ崩御と薨去がなければ、まだまだ幕府が続いていた可能性もあって、徳川家康は本当にすごい人間だったんだなぁと感じる。
    現人神というか、あるいみ宗教的指導者的側面もある。やっぱり・・・神君なのだろう。

  11. 自分が秀忠だったらやはり豊臣家を滅ぼさない限り遅参の屈辱を晴らす事は出来ないと考えるだろう。

  12. 秀忠は家康の3男ですよ。
    江戸幕府2代目になりましたが、嫡男とは全然意味が違います

  13. 関ケ原の合戦後の家康の土地分配についてですが、一応関ケ原の戦い自体が豊臣家臣同士の争いであるとの名目である以上、豊臣家としては自分の直轄領からも勝利した家臣に恩賞を与えたという豊臣家も納得の分配という解釈でいいのですかね?

    200万→70万石というとかなり減ってしまうので、どういう名目で豊臣家の直轄領を減らしたのかと思ったのですが。

  14. そもそも三法師や織田信雄を一大名として扱い国替えを強制し応じなければ改易した豊臣家がなぜ国替えにたてついたのかが全く意味不明

  15. 五大老五奉行の表ですが、関ヶ原の合戦前に前田利家は病死してますけど‥

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