参考文献
光成準治『毛利氏の御家騒動: 折れた三本の矢 (中世から近世へ)』
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光成準治『毛利輝元:西国の儀任せ置かるの由候 (ミネルヴァ日本評伝選)』
https://amzn.to/3QsZuuN
光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い (角川ソフィア文庫)』
https://amzn.to/4733esD
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毛利氏は関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が西軍の総大将になりながら、一族の吉川広家は東軍へ内応し、本戦でも大軍を率いながら南宮山から動かず、戦後は輝元が大した抵抗もなく大坂城を退去るというちぐはぐな行動を取っています。
この背景には輝元の実子 秀就の存在があり、秀就誕生に伴い養子の秀元に領地を配分する必要があったほか、戦後には秀就の後継者の地位を徳川家康に認めてもらう必要も出てきていました。
輝元は関ヶ原の戦い前から宗家の権力を強めるために吉川広家など一門衆の力も抑えにかかっており、結果、関ヶ原の戦いでは一門衆には指揮権が与えられず毛利軍は主体的に動けなかったという事情もありました。
今回は、関ヶ原の戦い前から毛利氏を悩ませていた後継者問題の実態、関ヶ原の戦いの結果にも影響を与え、戦後も続いた毛利氏の御家騒動について紹介します!
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#どうする家康 #日本史 #歴史
31 Comments
秀就が生まれなかったら、もしくはまともな出自を持っていたら関ヶ原の戦いはだいぶ変わっていたでしょうね。
輝元って意外とクズだよな。
大坂夏の陣において秀頼公が切腹した事を国許で聞いた輝元は家臣宛の書状で「秀頼が切腹した事は大慶である」として、かつては五大老の立場にありながら「秀頼」と呼び捨てにし、目出度い事としている。
秀吉も信長の死の直後の書状で「信長」と呼び捨てにしているから同類だね。
前から私は輝元計画倒産説を唱えています。つまり、西軍が勝利していてもそのうち内紛で崩壊は明白。輝元が生き残る道は反抗勢力の廃除と上下関係の確立が急務となるわけだが、結果的には輝元の思い通りの結果になったと言える。輝元と慶喜は不思議なシンクロをしている。敗軍の将が晩年何の不十もなく天寿を全うしている。慶喜も戊辰戦争の真の勝利者である。江戸に天皇を迎え首都とし、世界一の都市へと発展させ、幕臣を新政府の官僚として実質の権力をもった。保守的で武骨な侍は戊辰戦争で処分できた。輝元も全く同じである。もし計画倒産説が真実であれば、二人は家康を遥かにしのぐ古タヌキで決して暗君ではありません。
何もかもが少し足りない人、って印象ですね。やろうとした意図は分かるけど能力が足りない。戦まで起こしておいて思い切りが足りない。部下の嫁さんを寝取り、実子可愛さに家中に混乱を招くなど思慮が足りない。関ヶ原がスピード決着しちゃって、運も無い。
関ヶ原で西軍勝利に導ける唯一の立場だったはずと思うんですけどねぇ…。
毛利家がこんなにグダグダになってたとは………
最初は結束が固い兄弟でも、代が替われば繋がりも薄くなっていくし、寧ろ権力を取り合うライバルとなり得ると言うことなのか………
しかし、だとしても、配下の妻を略奪するとか、秀元・広家を統制するのに苦心するとか、祖父・叔父2人に比べると力量が不足しているように感じてなりませんね。
「元就公という戦神の孫で、隆元公という名蔵相の子がなんと情けない。」と言われ倒した結果かな。
東西本願寺よろしく家康の策だったら嫌だな。
この秀就とゆうのが素行のあまりよろしくない人だったのもね…
内憂外患どころか獅子身中の虫が、ミイラ取りがミイラになるって感じ…三本の矢が、三本とも両刃の剣に化けて毛利元就も草葉の陰で仰天してるんじゃなかろうか?😮
毛利元就『ワシがあと40年長生きして家康倒すしかなかったか…』
秀元は元々「三本の矢」ではなく、元就からも「虫けら」扱いされた穂井田元清の家系だから…
何しれっと三成は輝元と結託してるんですかねぇ…→秀吉の喪に服してる間に どの口で家康の婚姻どうこうに口出しできるんだよ…という
広家や隆景は元々黒田を取次にしてたけど、輝元は三成を取次にというのも吉川らからしたら面白くなかったろうなぁ 宗家へ中央集権したいという意図はわからなくはないが…
吉川広家が毛利秀元を悪く言う文書のなかで「このままじゃ鍋島に乗っ取られた龍造寺の二の舞になるぞ」という手紙を書いてたとか…
みなもと太郎、深谷陽の描いたモノとは、全然違う。
かなりショックです。
人間は生活基盤が安定した時から、堕落が始まるようだ。
油断しなかった徳川の勝ち。
毛利輝元は負けたと言うよりは旗をあげたのなら戦場に何が何でもこいよ。と、いうレベルの低さですね。
怎麼辦家康的毛利輝元,不是演過軍師官兵衛的足利義昭嗎
こんばんは。
鎌倉殿に出てた大江殿の子孫なんですよね。
これは、かなりダメダメの展開ですね!あの調略に長けた元就も、草葉の陰でため息ものでしょう。
レキショックさんも言われているように、いっそ秀就という遅い実子が生まれていなければ、優秀な秀元が宗家を継いでそれなりに処していただろうと感じます。実子可愛さとはいえ、明らかに秀元を敵に回すのは得策ではないので、もっと彼を優遇し後見役として立てるやり方を取るべきでしたね。吉川広家という身内がいるのだから、もっとうまく立ち回って、彼と結託して宗家をもり立てる方策を考えるべきでした。祖父の教え、三本の矢の強さを活かす方法を模索すべきでした。最終的に、秀元に政務を託しても家督は譲らずでは片手落ちで、秀元が反発し独立大名を目指すのも頷けます。関ヶ原の戦いでも、自身の後継ぎ承認のために見返りとして大阪城を退去してしまうというのは、本末転倒です。毛利家が、これほど内政でトラブっていたとは、意外でした!
レキショック様
毛利家は一枚岩ではなかったと自分は本で読みました。隆景が生きていればと思います。
宗茂の意見を受け入れて大阪城に籠城していたらどうだったのでしょうか。
一門も家臣もまとめきれず、ぐだぐだ
東軍に接触したとされる福原、益田、宍戸もお咎め無し…これが輝元の器量
Up主は「通説ではこうだが本当はこうだった」ということを言っているが、それもまた後世の人間の推測でしかなく、通説との信憑性の差は無い。事実は、【毛利氏が西軍についた】【輝元は戦わずして大坂城を明け渡した】【戦後、大減封を食らった】これは揺るぎのない事実。この事実から毛利氏の「ていたらく」は一目瞭然。
方針の違いはあれど、輝元の本家を第一にという点で毛利家自体は一枚岩と思ってましたが、そうとも限らなかったのか…
大奥に関する動画も出していただけると嬉しいです♪
やはり毛利輝元は、愚将。
「三本の矢」の逸話は何処へやら、まるで空中分解のような状況で江戸時代を迎えてますね…これじゃあ勝てるもんも勝てんわ。
輝元の事績を辿ると大体途中で投げ出してることばっかしてるのホントにどうなんだろなあ
まあそのおかげでなんとか大名の地位は維持できてはいるんですけどね・・・
毛利輝元って大河ドラマだと宇津井健さんがイメージですね
自分は輝元に大将としての役割が欠けてたと思うけどねえ、
書状のサインが大谷吉継や三奉行なのか輝元なのかで全然重みが違う、
だいたい関ヶ原なんて秀頼を戦場に引っ張るかどうかでほぼほぼ決まるのだから宇喜多と毛利の役割は拉致してでも秀頼連れていくことだったのにそれができてないのが何よりもダメだし。
輝元って、無能かつクズというどうしようもない人物で草
実際、秀元の方が有能だったし。
秀元「とりあえず、弁当食ってたということで済ますか…」
0:11: 🔍 関ヶ原の戦い前後に毛利氏が抱えていた御家騒動の実態について紹介します。
3:55: 🏰 小早川隆景の死亡と領地問題、秀元の処遇問題が重要な出来事であった。
8:09: ❗ 輝元は大阪城に壮大昇格し、徳川家を退治した。
11:58: 🔥 戦いの中で照元の権威が低下し、ひなりの後継者としての地位が危うくなる
15:48: 🏯 江戸時代における輝元と秀元の関係
Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
毛利元就が泣いてるぞ
朝倉宗滴、北条幻庵、毛利元就といった
稀代の大黒柱に支えられ依存し続けた家長は皆
それを失った途端厳しい現実に直面してるな。