#どうする家康 #石川数正 #徳川家康 #羽柴秀吉 #松重豊 #松本潤 #ムロツヨシ #小牧・長久手の戦い #松本城 2023 winter drama2023 冬ドラマどうする家康 29 Comments シバタ 3年 ago その後徳川幕府で家名断絶になりました❗ にゃおほっほー 3年 ago 1586年が1986年になっておじゃる😮 Yukichannel 3年 ago ウィキペディアを少し肉付けしただけの動画だね。 taka 3年 ago いや、徳川家を守る為に出たんやろ自分の家が潰れても松平、徳川の家を守りたかったんやと思う GO LD ダイア 3年 ago せなと信康を奪還したのに 家康は信長に言われるまま 殺害 かずまさの怒りが 秀吉側に 1111 kitaoka 3年 ago 少なくとも数正の都合だけの理由による出奔ではなかったと思う。もし家康にとって不利益な出奔であったなら息子康永は東軍につくことさえ許されなかったはず。 坊や雅 3年 ago 家康の糞を喰わされたからだよ ヤマヒロ 3年 ago 効果音がうるさい。ナレが聞こえない。 アフサラール ジャラル 3年 ago 秀吉に1度勝った時点で講和するべきなのに三河の連中は戦争継続主張するので、自分が秀吉に下ることで講和させようとしたと見るべきでしょうね。この時代の三河出身者がいかに無茶かは講和時に秀吉が徳川家に人質として出した大政所の宿舎の周囲に薪を並べ、家康が講和時に殺されたら火あぶりで殺そうとしたという事で明らかですね。当時でも無茶だったようで首謀者?の本多重次は戦歴にも関わらず大名になれずに終わっています(息子は大名になる)。 同じ大河ドラマで石川数正の出奔の原因で面白かったのは『真田丸』で真田昌幸・信尹の兄弟に騙されて(笑)、秀吉側に行って大名になったというのがあって、後で家康に刺客を送られたので数正は真田信繁(幸村)に信尹と昌幸に対するクレームを言っていました(笑)。 Xenolar 3年 ago 井伊のような、家康の寵愛で城持ちになる人が出てきてやる気がなくなったんじゃあ。ジャニーズ家康だからなおさらでしょう。 Besame Mucho 3年 ago 戦闘・勝鬨の音がうるさ過ぎて、折角の説明が聞きにくい。 黒助P 3年 ago 効果音で説明が聞こえない goodbye_Ukraine 3年 ago どうする家康は大河史上つまらないランキングに見事選ばれました HiDEさん 3年 ago 🇯🇵有数の企業のお偉いさんの考えがペェペェのドチンピラの俺達に分かる訳無ぇぢゃん Masaaki F 3年 ago タイトルバレはやめろ!迷惑 げんきなもり 3年 ago 既にわかっている内容ばかりだな。歴史の読書の範囲を超えていない。 リンゴ 3年 ago 徳川政権樹立後の石川家の経緯(お家断絶)も触れてほしかった。そのため、家康の対秀吉スパイ説は成り立たないという主張もあるので。 38chikuwabu 3年 ago 武骨で忠義を重んじる家康家臣団にあって、交渉上手の秀吉に渡り合えるのは数正しかいなかったんだろうな。秀吉がここまでのし上がってるまでに勝った戦の戦法は一貫して味方の兵の損失を最小限にし出来れば戦わずして勝つ戦法をとって来た事からも分かる事だが、戦いの前に必ず敵の家老クラスの調略が第一歩で、次に物理的なものにより相手に心理的圧迫を加え、いざ戦いとなったら位攻めを行う(位攻めとは圧倒的な数で相手を圧迫しながら相手を降伏させる秀吉独自の戦法)、水攻めや兵糧攻めなど兵を失わない戦法をとる。強い敵に対してはまず和議を行い外堀を埋めもう一度位攻めを行うという戦法をとっている。つまり、数正の裏切りは気を付けていれば秀吉のいつもの戦法であり、家康側の失策であるとみる。ちなみに小牧・長久手の戦いの際に無能と言われている織田信雄でさえ秀吉の調略に気付き鳥羽の自領の三家老の首をはねており、それにて家康側の方についている。秀吉としても大久保忠勝の調略よりは数正の調略の方が行いやすかったんだろうね。もし、忠勝を調略するならば、裏切者になるような戦い方を行い、一人になったとこを網でもかぶせ捕まえるしかなかったんだろうな、その調略のためには部下を何人か失う可能性もあり。まず、数正だったんだろうな。尚、その後この戦法を家康は秀吉のやり方を真似たんだろうね。大阪冬の陣夏の陣の際にはこの戦法を逆に豊臣方相手に行っている。まず、調略であるが一番有名なのが、七本槍の最後の一人の片桐且元を調略しており(例えば他の七本槍の一人福島は早々に家康側についている)、冬の陣のあと一度和議を行い外堀を埋めたのち、夏の陣で豊臣方を負かしている。だから、申し訳ないが戦国最大の謎ではないんだね。 airmen kazu 3年 ago 真相は不明 アカさん・幸せ実践塾&ナチュラルレイキ 3年 ago 面白かったのでチャンネル登録しました。ただ、戦闘の声などの効果音が少しやかましいので、抑えてもらえると聞きやすいかなと思いました。石川数正のことは、ある程度知っていましたが、松本城を築城した人だとは知りませんでした。何度も行ったのですが、中に入って説明書きを読んだりしてなかったもので。 お気楽ご酒楽 3年 ago 単純に派閥争いに負けただけ… 佳裕 青山 3年 ago タイムスリップして、本人に聞いてみたいね、何故か寝返ったか?ってね。後織田信長にも、会ってみたいなあ。😅 エンドウ ナツヒコ 3年 ago 効果音の音量が大きすぎる のらたろう 3年 ago その後、天下を取った徳川家臣団からハブられ一人でメシを食う人生になったとさ モモタロスタロウ 3年 ago 三河に美味しいものがなかったからだ畿内には美味しいものが沢山あり、秀吉についた自分勝手になり自由になって、家康に邪魔されず気を遣わずにものを食べたかったからだ 伊藤進 3年 ago 徳川家康を守ったのは石川数正、秀吉も数正を高く評価している。のちの秀吉の妹との結婚をまとめたのも数正、!。日米開戦時期石川数正が外務大臣だったらあんな馬鹿な戦争は無かったかもな。 お爺ちゃんセット 3年 ago 今の大河で家康の演技力の低さに嫌気が差したからじゃないの? チャンネルMK 3年 ago タイムリープして、石川数正本人に裏切った理由聞きたい! 船橋浩樹 3年 ago 本多忠勝、井伊直政等の若い家臣の活躍等も影響あるのかな~? Write A Commentコメントを投稿するにはログインしてください。
アフサラール ジャラル 3年 ago 秀吉に1度勝った時点で講和するべきなのに三河の連中は戦争継続主張するので、自分が秀吉に下ることで講和させようとしたと見るべきでしょうね。この時代の三河出身者がいかに無茶かは講和時に秀吉が徳川家に人質として出した大政所の宿舎の周囲に薪を並べ、家康が講和時に殺されたら火あぶりで殺そうとしたという事で明らかですね。当時でも無茶だったようで首謀者?の本多重次は戦歴にも関わらず大名になれずに終わっています(息子は大名になる)。 同じ大河ドラマで石川数正の出奔の原因で面白かったのは『真田丸』で真田昌幸・信尹の兄弟に騙されて(笑)、秀吉側に行って大名になったというのがあって、後で家康に刺客を送られたので数正は真田信繁(幸村)に信尹と昌幸に対するクレームを言っていました(笑)。
38chikuwabu 3年 ago 武骨で忠義を重んじる家康家臣団にあって、交渉上手の秀吉に渡り合えるのは数正しかいなかったんだろうな。秀吉がここまでのし上がってるまでに勝った戦の戦法は一貫して味方の兵の損失を最小限にし出来れば戦わずして勝つ戦法をとって来た事からも分かる事だが、戦いの前に必ず敵の家老クラスの調略が第一歩で、次に物理的なものにより相手に心理的圧迫を加え、いざ戦いとなったら位攻めを行う(位攻めとは圧倒的な数で相手を圧迫しながら相手を降伏させる秀吉独自の戦法)、水攻めや兵糧攻めなど兵を失わない戦法をとる。強い敵に対してはまず和議を行い外堀を埋めもう一度位攻めを行うという戦法をとっている。つまり、数正の裏切りは気を付けていれば秀吉のいつもの戦法であり、家康側の失策であるとみる。ちなみに小牧・長久手の戦いの際に無能と言われている織田信雄でさえ秀吉の調略に気付き鳥羽の自領の三家老の首をはねており、それにて家康側の方についている。秀吉としても大久保忠勝の調略よりは数正の調略の方が行いやすかったんだろうね。もし、忠勝を調略するならば、裏切者になるような戦い方を行い、一人になったとこを網でもかぶせ捕まえるしかなかったんだろうな、その調略のためには部下を何人か失う可能性もあり。まず、数正だったんだろうな。尚、その後この戦法を家康は秀吉のやり方を真似たんだろうね。大阪冬の陣夏の陣の際にはこの戦法を逆に豊臣方相手に行っている。まず、調略であるが一番有名なのが、七本槍の最後の一人の片桐且元を調略しており(例えば他の七本槍の一人福島は早々に家康側についている)、冬の陣のあと一度和議を行い外堀を埋めたのち、夏の陣で豊臣方を負かしている。だから、申し訳ないが戦国最大の謎ではないんだね。
アカさん・幸せ実践塾&ナチュラルレイキ 3年 ago 面白かったのでチャンネル登録しました。ただ、戦闘の声などの効果音が少しやかましいので、抑えてもらえると聞きやすいかなと思いました。石川数正のことは、ある程度知っていましたが、松本城を築城した人だとは知りませんでした。何度も行ったのですが、中に入って説明書きを読んだりしてなかったもので。
29 Comments
その後徳川幕府で家名断絶になりました❗
1586年が1986年になっておじゃる😮
ウィキペディアを少し肉付けしただけの動画だね。
いや、徳川家を守る為に出たんやろ
自分の家が潰れても
松平、徳川の家を守りたかったんやと思う
せなと信康を奪還したのに 家康は信長に言われるまま 殺害 かずまさの怒りが 秀吉側に
少なくとも数正の都合だけの理由による出奔ではなかったと思う。
もし家康にとって不利益な出奔であったなら息子康永は東軍につくことさえ許されなかったはず。
家康の糞を喰わされたからだよ
効果音がうるさい。
ナレが聞こえない。
秀吉に1度勝った時点で講和するべきなのに三河の連中は戦争継続主張するので、自分が秀吉に下ることで講和させようとしたと見るべきでしょうね。この時代の三河出身者がいかに無茶かは講和時に秀吉が徳川家に人質として出した大政所の宿舎の周囲に薪を並べ、家康が講和時に殺されたら火あぶりで殺そうとしたという事で明らかですね。当時でも無茶だったようで首謀者?の本多重次は戦歴にも関わらず大名になれずに終わっています(息子は大名になる)。
同じ大河ドラマで石川数正の出奔の原因で面白かったのは『真田丸』で真田昌幸・信尹の兄弟に騙されて(笑)、秀吉側に行って大名になったというのがあって、後で家康に刺客を送られたので数正は真田信繁(幸村)に信尹と昌幸に対するクレームを言っていました(笑)。
井伊のような、家康の寵愛で城持ちになる人が出てきてやる気がなくなったんじゃあ。ジャニーズ家康だからなおさらでしょう。
戦闘・勝鬨の音がうるさ過ぎて、折角の説明が聞きにくい。
効果音で説明が聞こえない
どうする家康は大河史上つまらないランキングに見事選ばれました
🇯🇵有数の企業のお偉いさんの考えがペェペェのドチンピラの俺達に分かる訳無ぇぢゃん
タイトルバレはやめろ!迷惑
既にわかっている内容ばかりだな。
歴史の読書の範囲を超えていない。
徳川政権樹立後の石川家の経緯(お家断絶)も触れてほしかった。そのため、家康の対秀吉スパイ説は成り立たないという主張もあるので。
武骨で忠義を重んじる家康家臣団にあって、交渉上手の秀吉に渡り合えるのは数正しかいなかったんだろうな。秀吉がここまでのし上がってるまでに勝った戦の戦法は一貫して味方の兵の損失を最小限にし出来れば戦わずして勝つ戦法をとって来た事からも分かる事だが、戦いの前に必ず敵の家老クラスの調略が第一歩で、次に物理的なものにより相手に心理的圧迫を加え、いざ戦いとなったら位攻めを行う(位攻めとは圧倒的な数で相手を圧迫しながら相手を降伏させる秀吉独自の戦法)、水攻めや兵糧攻めなど兵を失わない戦法をとる。強い敵に対してはまず和議を行い外堀を埋めもう一度位攻めを行うという戦法をとっている。つまり、数正の裏切りは気を付けていれば秀吉のいつもの戦法であり、家康側の失策であるとみる。ちなみに小牧・長久手の戦いの際に無能と言われている織田信雄でさえ秀吉の調略に気付き鳥羽の自領の三家老の首をはねており、それにて家康側の方についている。秀吉としても大久保忠勝の調略よりは数正の調略の方が行いやすかったんだろうね。もし、忠勝を調略するならば、裏切者になるような戦い方を行い、一人になったとこを網でもかぶせ捕まえるしかなかったんだろうな、その調略のためには部下を何人か失う可能性もあり。まず、数正だったんだろうな。尚、その後この戦法を家康は秀吉のやり方を真似たんだろうね。大阪冬の陣夏の陣の際にはこの戦法を逆に豊臣方相手に行っている。まず、調略であるが一番有名なのが、七本槍の最後の一人の片桐且元を調略しており(例えば他の七本槍の一人福島は早々に家康側についている)、冬の陣のあと一度和議を行い外堀を埋めたのち、夏の陣で豊臣方を負かしている。だから、申し訳ないが戦国最大の謎ではないんだね。
真相は不明
面白かったのでチャンネル登録しました。
ただ、戦闘の声などの効果音が少しやかましいので、抑えてもらえると聞きやすいかなと思いました。
石川数正のことは、ある程度知っていましたが、松本城を築城した人だとは知りませんでした。何度も行ったのですが、中に入って説明書きを読んだりしてなかったもので。
単純に派閥争いに負けただけ…
タイムスリップして、本人に聞いてみたいね、何故か寝返ったか?ってね。後織田信長にも、会ってみたいなあ。😅
効果音の音量が大きすぎる
その後、天下を取った徳川家臣団からハブられ一人でメシを食う人生になったとさ
三河に美味しいものがなかったからだ
畿内には美味しいものが沢山あり、秀吉についた
自分勝手になり自由になって、家康に邪魔されず
気を遣わずにものを食べたかったからだ
徳川家康を守ったのは石川数正、秀吉も数正を高く評価している。のちの秀吉の妹との結婚をまとめたのも数正、!。日米開戦時期石川数正が外務大臣だったらあんな馬鹿な戦争は無かったかもな。
今の大河で家康の演技力の低さに嫌気が差したからじゃないの?
タイムリープして、石川数正本人に裏切った理由聞きたい!
本多忠勝、井伊直政等の若い家臣の活躍等も影響あるのかな~?