大河ドラマ「どうする家康」に先立ち徳川四天王を紹介。今回は榊原康政の後編。三方原の戦いで武田信玄に敗戦した家康だったが、実は信玄は浜松城を落とすことができず、極寒の冬を長期間、野営で過ごすことになり死に至ったと考えれている。その浜松城を守ったのが榊原康政の陣営だった。康政は後詰の位置で陣をはり、武田軍の進軍を止めた。今回の動画でそんな三方原の戦いや康政の甲冑などについて解説する。
●楽曲提供:LAMP BGM
1、徳川家康を天下人へ導いた四天王とは 本多忠勝 前編
2、徳川家康が野戦に強かった理由 戦国最強 本多忠勝 中編
3、これぞ武士道!徳川四天王 本多忠勝が残した言葉 家康の凄すぎる家臣配置
4、信長・秀吉も認めた武将 酒井忠次 前編 知られざる家康との血縁関係とは
5、徳川最大級の悲劇 家康の長男 信康切腹事件の真相 なぜ信長に殺されたのか? 重臣酒井忠次の後悔
6、徳川四天王 榊原康政 下級武士が大名へ 知勇兼備と言われた理由
7、実は武田信玄を追い詰めていた 徳川四天王榊原康政の策略

28 Comments
1個目!
結局、勝って生き残った側の資料しかないからわからない
康政が秀吉を追うの絵を見て三国志中のか馬超曹操追うのを思い出す🤔👍👍‼️‼️
今回の大河のキャスティングは特に女性が良いと感じました。
キャストを無理やり古典キャラにせず現代の姿に近づけ観る側に好感を持てれば尚楽しい。来年も宜しくです☺
あんまり先生の意見には納得できない。まず、犀ヶ崖の戦いが実際にあった話かどうかもはっきりしていないという点。三河物語なんて後に天下人になる家康の事を明らかに判官贔屓して書いた資料だから全く参考にならないという点。酒井の太鼓なんてあったかどうかも分からない話、しかも実際にあったとしてもどうでもいいレベルの話を美談として書いてある点なんかを考えても三河物語は嘘っぱちな資料だと考えざるを得ない点。信玄がもし本気で浜松城を落とす気があったら、三方ヶ原の戦いのあとに浜松城になだれ込んで簡単に浜松城を乗っ取り、家康を殺す事も余裕にできたから、浜松城を落とせなかったというより落とす気がなかったと考える方がよっぽど自然だと思う。榊原康政が浜松城の後ろに陣取っていたとかどうでもいい話。信玄が野田城みたいな小城を落とすのに時間がかかり過ぎていたのは、信玄の具合がかなり悪化していて武田軍の指揮統制がとれていなかったというのが明白だと思う。とにかく信玄の西上作戦に際して、家康側は負けまくっていて褒める点が一つもないから無理やり信玄を動かさなかったとか難癖をつけて無理やり褒めてるとしか思えない。
現在、徳川軍と武田軍とが激突した三方ヶ原の戦いの戦場が判っていません。また、祝田(ほうだ)坂は狭く武田軍の大軍が到底通れるとは思えません。
一説には信玄は野田城で鉄砲により狙撃されたという説があります。
榊原康政、三河武士らしいですよね。地味ながら様々な面に配慮出来る武将で家康にとっては有り難かったでしょうね。武田四名臣と徳川四天王は好きですね。
康政の戦歴で唯一の失点は、秀忠に付いて真田昌幸に翻弄されて関ヶ原に遅参してしまった事だけですかね…。
大河ドラマ
どうするジャニーズ😂
これまでも三方ヶ原の解説は多かったですが、信玄の西上作戦の視点から解説興味深かったです。
信玄、徳川を軽く見すぎて初戦から計画が頓挫していたのかもしれないですね。
また、最後の康政の言葉は一見素晴らしいけど、彼が亡くなる前後は大坂城に莫大な金銀を蓄えた豊臣が「西の天下様」として存在し、まだまだ徳川支配体制は確立してません。本当に康政がそんなことを言ったのか疑問だし、言ったとすれば詰めが甘いですよね。
正信は権勢をふるったといっても終生2万石に過ぎず、自己の利益になることは一切してません。人の陰口も言ってません。それでも康政が正信をあしざまに言うのは、自身の活躍の場が少なくなるのに反し、正信の進言が家康に用いられることが多くなることへの焦り、嫉妬があったためかもしれません。
その点から名将言行録の「人品最も高き武将」との家康の言葉もすでに康政を第一線を退いた過去の人とみなしているように見えてきます。
武田信玄の死因は?
謙信は上洛してるけど、信玄は上洛してるのかな。
なんで、NHK 追っかけ番組になってしまったのだろう。残念?
榊原康政が陣取った位置、西島とかいうらしいが、城から随分離れているように見えます。三方ヶ原の合戦のときでもよいので、もう少し、説明して下さい。
信玄の死因について、様々な説がある。信玄の死因は、肺結核説や胃癌説が有力。肺結核は信玄が若い頃から患っている病気で、何度か血を吐いたこともあったと言われている。胃癌説も有力。信玄の部下、高坂弾正が残した「甲陽軍鑑」に死因は「胃癌」または「食道がん」と記されているからである。また、信玄が日本住血吸虫症だったという説もある。
市橋先生、お疲れ様です‼️今回もビックリしましたヨ‼️まあ色々の説明文からも有るので市橋先生も言っているように色々の説があるから歴史は楽しいのかなぁ‼️笑笑
布橋は当時はどうか分かりませんが、今は「ぬのはし」と呼んでますね。
二俣〜三方原は徒歩でも3日あれば十分行ける距離ですが、野田城まで2ヶ月はかかりすぎなので、何らかのトラブル等の事情があったと思います。
犀ヶ崖付近に住んでますが三方原から犀ヶ崖付近には至るところに戦死した武田軍の慰霊碑が建っております。
将棋でもなんでも先に動いた方が負ける。
先生さすがだなー将棋も指せるんだ。
でもその考えは大山時代の考えよ
市橋先生の解釈・解説は説得力ありますね。地道な調査での裏付けもすばらしいです。これまで、歴史の書籍や番組を見ても納得いかなかったことが色々と合理的に説明されていて、とても楽しく視聴させていただいております。
犀ケ崖地元では崖下に竹槍設置してあり落ちた武者が苦しくて唸っていたので恐ろしく魂を弔う為に今でも遠州大念仏という風習が残っています。7/15日に犀ケ崖資料館で大念仏が披露され、受け継ぐ町では今も新盆を迎えた家庭にも招き弔っています。また中区に元亀神社という小さな祠もあり合戦で多くの人が亡くなって幽霊が出るので地元民が慰めたとか。
また歴史好きな無亡父の話だと浜名湖に流れ込む都田川上流、フルーツパーク近くには武田軍が陣を張った陣の谷という地名があるので北方からも進軍したと思うし、祝田の農家で信玄が亡くなっているという話があるとか無いとか。井伊家が赤備えになったのも縁があるかもしれませんね。
もう今夜の2話が楽しみでしょうがないです🙆👍🙏😆💐応援しています👏👏👏👏👏一年間よろしくお願いします、ちなみに私、一回目から涙流してみてました😭😭涙腺弱くなりました😂😂
結局、織田は武田を三河で長く消耗させてから織田は武田と戦うという戦略ですか。頭いいな信長は。
徳川家康に榊原康政という筆の立つ部下がいたように、後の東郷平八郎の下には秋山真之という名文家がいましたね。
武力同士のぶつかり合いの中にあって時に筆の力が威力を発揮するという点で、繰り返される歴史の面白さを覚えます。
武田家滅亡の責任は、みんな勝頼の責任にされるけど
武田家が、三方ヶ原で大勝してるなら浜松城を落として徳川家を吸収するべきだった
信玄は、足利義昭の上洛指令に応じて西上したのでは?足利義昭を担いで、自らは執権か副将軍のような立場になり、実質的な権力を取ろうとしたのでしょう。
浜松城を落としておけばと言うが、二俣城や野田城程度で苦労した武田軍が、浜松城を落とせるとはどうしても思えない。有名な空城の計なんてのは完全に創作で、実際はガチガチに守りを固めていたことだろうし。
名将言行録はあまり信憑性がないのでは?
を
市橋先生が戦国時代に生まれておられたら、面白かったでしょうね?好きなように暴れまくる戦国武将だったでしょうか、それとも名僧か?逆にホストのお姉さまがお市、ねね、お江以上の天下を動かす女将で市橋先生が名顧問で使われていたかも。いやはや、お二人とも生まれる時代を間違えたのではないでしょうか。ただ人生は一発勝負の連続で、かなりは運かな。神仏が決められることですがどうなりますか。勝家、お市、ガラシア、鶴姫など精一杯生きて花火のごとく光りかがやき散っていった人たちには、くいはないでしょうね。ここいらの人生観や生き方がその人の値打ちを決めるかに思えます。生きるとは、この世に自分という名で旅をしにきているのに同じですからね。
信玄は駿府に本陣(拠点)を移すべきでした。信長が岐阜に移転したように。甲府を離れられないしがらみが最後まで足を引いたのではないでしょうか。