今西家住宅, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1720499 / CC BY SA 3.0
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今西家住宅
今西家住宅(いまにしけじゅうたく)は、奈良県橿原市の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている今井町にある歴史的建造物で、公益財団法人十市県主今西家保存会により保存維持管理されている。東京大学工学部建築学科による町屋調査を経て、昭和32年(1957年)6月18日に国の重要文化財に指定され、慶安3年3月22日の記がある棟札が重要文化財の附(つけたり)指定とされた。その後文化財保護法により根本修理に着手することとなり、奈良県教育委員会が今西家から委託を受けて昭和36年3月に起工し、同37年10月に竣工した。
戦国時代の構造様式を残す建造物で慶安3年(1650年)に7代目当主今西正盛によって裁判を行うために改築された屋敷であり、住宅で、別名「八つ棟」(やつむね)または「八棟造り」と呼ばれている。また、天正3年(1575年)、織田信長本陣となり、土間をお白州に見立ててお裁きが行われた。その折に信長は褒美として様々な物品を下賜し、今西家を眺め「やつむね」と唱えて本陣を後にしたことが旧今井町役場の資料に残っている。
現在の今西家住宅は、1650年の改築以前1560年代に今井郷の西端の要塞として櫓 (城郭)及び住居が築かれていたことから2度目の普請である。
今西家住宅北側の道路の本町筋では、住宅建物だけが北側の道路に突出していて、東西両端で道が大きく南に屈曲していて、前方の見通しが悪く、現在のように自動車が頻繁に通る都市としては不適当な町並である。今西家の前を通る道路は、この角で折れ曲がって小さい枡形を形成し、二階の窓は町内の道を真っ直ぐに見通す位置につくられている。その機能も意匠も物見櫓とよく似ている。
本建物の沿革については、解体修理の際発見された瓦銘や刻銘から述べると平瓦の中に明暦2年(1656年)の刻銘のあるものがあり、明暦2年は創立から7年後のことで、もし、この頃に屋根葺が行われたとすれば、銘のある瓦と同種の瓦が相当数出てこなくてはならないが、それらの資料の得られないところから考えると、何かの災害によって応急的に一部の瓦が補足されたのではなかろうかと思われる。
次に元禄6年(1693年)の瓦銘については、慶安3年に創立されてから43年後で相当数の平瓦が補足されており、また文政8年(1825年)の瓦銘のある瓦と同種類の瓦が半数近くあり、これらのときに屋根の葺き替えの行われていることがわかった。
元禄と文政の修理は屋根だけでなく、外部大壁および軒裏の塗りかえ、内部間仕切の改変など相当大規模な修理が行われてきたようである。
その後、昭和初年までは記録的には何の資料も得られなかったが、内部の壁が3回くらい塗りかえられているところから、文政以降にも破損の都度修理が行われてきたようである。
昭和2年(1927年)の北丹後地震により、本建物西に接続していた牢屋と、南の三階倉が倒壊した。この頃には本建物も相当破損していたようで、特に西南隅の地盤沈下に伴い、本建物が西に大きく傾いていたようである。
江戸時代であれば、この程度の修理は官費で賄えたであっただろうが、明治維新後は廃藩置県によって、長年勤めてきた惣年寄の役職もなく、男爵位を明治政府から薦められたものの華族の資産基準に満たないほど窮迫していたようで、一市民としては簡単な修理が精一杯のようであった。
それで牢屋や3階蔵の復旧は行われなかったが、牢屋接続部の屋根の修理と、これ以上本建物が西に倒れないよう土間西側から斜めに支柱を入れて補強し、別間も本建物と平行して傾斜していたので、本建物と接続する桁・母屋などの横架材を切り離し、別間だけ独立して傾斜を復旧していた。このとき仏間南旧4畳間の中央東西に筋違い用の壁を新しく設け、同壁の北に仏間側からの押入れ・南間西に2階昇降口、東に別間座敷側の押入れをそれぞれ新設し、2階も現在風に改変されていた。
このようにして別間の創立年代が明らかになり、昭和初年には立ちを直し、締め直しも行われてはいるが、軸部の弛緩激しく、東大壁の弛緩が特に目立ち、本建物に並行して修理の必要があったのであるが、予算の都合で壁の応急修理のみにとどめた。
今西家現在の宅地は、北・東とも道路に面して旧状どおり、南面は、県道(御堂筋)までになっているが、児童公園南春日神社境内一円も旧宅地であった。県道は、明治10年(1877年)明治天皇行幸…