LOVE LIFE
――糸が切れる、その瞬間にだけ見える景色
2022年の作品。
キャッチコピーは「孤独を抱いて、自由になる」。
だが、この映画を見終えたとき、私の中に残ったのは“孤独”よりも、“糸が切れる瞬間”だった。
不条理という設計図
物語は幾重にも不条理を配置する。
妙子は理不尽の象徴のように出来事に巻き込まれる。
夫・二郎の両親との微妙な距離。
二郎の曖昧さ。
山崎の計算高さ。
そして、パクという過去。
この映画は「誰が悪いのか」を明確にしない。
だが同時に、「どこまで許せるのか」を観客に突きつける。
その揺さぶりの中で、ある瞬間、視点がふっと上空へと持ち上がる。
深刻に見えていた人間関係が、急に相対化される。
それが、この作品の本質だ。
二郎という弱さ
二郎は典型的な悪人ではない。
だが、弱い。
「好きな人が、好きな人を探すということ」
そう言い放つ彼は、実は自分こそが常に“選ばれる側”でありたい人間だ。
目を見られないのは、本心を直視できないからだろう。
山崎はそれを知っている。
彼女は二郎の弱さを確認し、最後に手放した。
その時点で二郎に残された選択肢は、妙子と向き合うことだけだった。
パクという混沌
パクは説明しない。
説明できない。
そして繰り返す。
韓国でも、日本でも。
啓太の事故死の知らせを新聞で知り、現れ、妙子を叩き、自分を叩く。
その怒りは身勝手で、誰からも正当化されない。
だが怒りとは、多くの場合「どうにもできない」ことの裏返しだ。
妙子は、その怒りに触れたとき、初めて自分の感情の蓋が外れる。
泣くことさえ止めていた心が、ほどける。
それでも――
パクは嘘をついていた。
父の危篤ではなく、前妻との息子の結婚式だった。
この瞬間、妙子の中で、もう一本の糸が切れる。
ダンスという俯瞰
披露宴の場で、妙子は踊る。
前妻に蹴られるパク。
歓迎する息子。
混沌とした祝宴。
その中で、妙子の身体が自然に動き出す。
あれは解放というより、重力から一瞬だけ外れた身体だった。
パクの人生はめちゃくちゃだ。
それでも回っている。
ならば、自分が必死に守ってきた「こうあるべき」という像は何だったのか。
こうあるべき妻
こうあるべき母
こうあるべき嫁
その深刻さが、急に滑稽に見える。
俯瞰とは、達観ではない。
自分の真面目さが相対化される瞬間だ。
「わかんない」という答え
「どうする、これから、僕たち」
「わかんない」
このやりとりは、投げやりではない。
コントロールしようとすることをやめる、という選択だ。
散歩という行為。
閉ざされた室内から外へ出ること。
湿った空気から、風のある場所へ。
それをこの映画は「自由」と呼んだのだろう。
だが、私にはこう見えた。
自由とは、孤独を抱くことではなく、
“切れた糸を結び直さない”ことなのではないか。
この作品は、悲劇の物語ではない。
不条理を経て、深刻さを手放す物語だ。
そしてその瞬間だけ、人は少しだけ軽くなる。
それが、この映画の静かな衝撃だった。
