ヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』は、なぜかかつて海外で過ごしたある街を思い出させた。
その街の公園は美しく整備されていたが、地下鉄のトイレは、かつての日本の公衆便所よりも劣悪だった。しかし、毎日散歩していた公園では、人々が自然に視線を交わし、挨拶をしてくれた。
木々は友達だった。木の声があり、鳥の声があり、公園に集う人々の声があった。そこには「音」があったが、「騒音」はなかった。

対照的に、今この国で聞こえてくるのは、内容の空虚な、けたたましい政治の声ばかりだ。
自らの無能さを棚に上げ、白紙委任を国民に迫り、それを称賛する空気。
知性のかけらもない言葉が、連日空間を埋め尽くしている。

映画に登場するカセットテープとラジカセは、単なるノスタルジーアイテムではない。
それは「無音」の象徴だ。
現代社会に溢れる過剰な情報音、広告音、政治音、商業音、ハラスメント的な騒音。
それらと対比されるように、『PERFECT DAYS』の音は、極限まで削ぎ落とされている。

朝は鳥のさえずりで目覚め、
日中は人々の生活音に包まれ、
自然の音だけが世界を満たす。
この「音の設計」は、映画として極めて成功している。

ただし一点だけ、石川さゆりの楽曲だけは異質だった。
三浦友和が吸うピースは許容できても、あの挿入歌だけは世界観を壊していた。

政治も三流、経済も海外から見れば三流以下。
それにもかかわらず、国内ではそれを直視せず、内向きな政局ごっこに熱狂する国。
それが「この国」だ。

『PERFECT DAYS』が描くのは、「一人一人が生きている実感を持つ日常」だ。
だが、この国でそれはいつ実現するのだろうか。

この本質を突いたのが、日本礼賛に自ら酔う「幼稚な国」に対して、外部の視点から鋭く切り込んだヴィム・ヴェンダースだったという事実は重い。

何も変わらないほど、愚かな話はない。
それでもこの国は、「変わらないこと」を選び続ける国なのだろう。

世界には多くの世界がある。だが、つながっていない世界もある。
ここ数日のこの国の在り方は、
もはや「世界」と接続されていないように見える。
それを選んだのは、この国自身だ。

平山の涙は、単なる感情の発露ではない。
妹と姪を抱いたその涙は、「ここにはPerfect Dayは存在しない」と悟った瞬間の涙でもあったのかもしれない。
だからこそその後、彼自身の日常が崩壊していく場面に直面することになる。

静かで、穏やかで、美しい日常。
だがそれは、現実社会と切断された「理想化された孤独」でもあるだろう。

『PERFECT DAYS』は癒しの映画ではない。
むしろこれは、静けさを使った、痛烈なこの国に対する批評の映画だ。
どうしてこのような国になってしまったのかを問い続ける――
それは、この国の内部からは得られない「外部の視点」なのである。
騒音に満ちた国家、空虚な言葉に支配された社会。
その対極として提示される「沈黙」と「日常」。
その静けさこそが、
それを選ばなかった、そしてあらゆる面で愚鈍化していくこの国に対する、ひとつのメッセージなのだ。

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