微積分や二進法、モナド論、計算機など、数学や哲学で多大な業績を残し、歴史家や発明家としても活躍したライプニッツ。あまりに巨大で全貌の見えない「最後の万能の天才」を、私たちはどうすれば理解できるのか。

 ライプニッツ研究の第一人者である歴史学者ミヒャエル・ケンペは、70年の生涯の中から、あえて「7日間」だけを選んで詳述することで、その人物像と創造の現場を立ち上がらせようとする。その画期的な試みが評伝『ライプニッツの輝ける7日間』(新潮社)だ。

 ライプニッツの実像とは、いったいどのようなものだったのだろうか。

 第1章からその一部をお届けする。

コーヒー、少しのワイン、そしてたっぷりの砂糖

 机にかがみこむように座っているその男は、たえまなく本を読んだり何かを書いたりし、ときおり手をあげては自分と同じほど砂糖に目のない厄介なハエを追い払っている。ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツはおそらくこんなふうだったと想像される。彼は昼前からこの場所に座り、休みもとらずに働いている。ハエの視点から何が起きているかを想像するのは、ライプニッツにとって難しいことではなかっただろう。結局のところ、彼の考えによれば世界は全体として、それぞれ異なる視点をもつ多数の行為者の認識から構成されているのだ。

 パリの晩夏は――今年は特に乾燥していた――とうに過ぎ去り、徐々に肌寒くなってきている。ストーブに火を入れなければ、一日のほとんどを座って過ごすのは耐えがたいほどだ。だが、ザクセン出身のこの学者は、こうした生活のしかたをあえて選んだ。彼は29歳で、中背で、やや痩せ型だ。髪の毛は茶色。彼は自分のことを、衝動的でも憂鬱的でもないごくバランスのとれた性格だと、そして頭の回転が速く、強い感情の持ち主だと描写している。

 目下の一番の懸念は、長時間の座業と運動不足のせいで、早死するかもしれないこと。日中は砂糖をたっぷり入れたコーヒーを飲み、夜はワインを少しだけ飲む。ハエにはありがたいことに、ライプニッツはワインにも少量の砂糖を入れるのを好んだ。

 グレゴリオ暦が標準であるここフランスでは、この日は1675年10月29日の火曜日だ。彼はフォーブール・サンジェルマンにあるギャランシエール通りに住んでいる。約220メートルのまっすぐに延びるこの通りは、当時はまだパリ市の中心部からは外れていた。

 10月の終わりのこの薄暗い火曜日に、ライプニッツはパリで、数学を根本的に変えることになる記号を初めて紙に書き留めた。この火曜日に彼の羽根ペンから流れ出たものは、そして今日では高等数学課程の標準カリキュラムの一部になっているものは、17世紀最高の数学者の知識をみごとな形で集結した単純な記号であり、その発明者の手で、新しい数学的手法の主たるシンボルへとさらに発展していく。

 ライプニッツが記した「∫」という記号は特大の「S」で、今日では積分記号として知られる。これを利用すると、曲線の長さと曲線の下の面積の両方を、まったく同じ方法を使ってエレガントに計算し、簡潔に表記できる。10月29日は、ライプニッツの長年にわたる無限小にまつわる数学の研究が、最高点を迎えた日だ。

 この「∫」という記号によって彼が作成したシンボルは、扱いやすい公式の枠組み内で無限小の値を扱う計算方法の開発に、非常に重要な貢献をする。それはこの先数カ月と数週間で明らかになっていく。だが、駆け足で話を進めるのはよそう。

この火曜日の前の夜、おそらくライプニッツは例によって、遅くに床に入った。「遅寝、遅起き」を標榜する彼にはよくあることだ。ライプニッツは普通の人々がもう寝入ったあと、夜更けまで精力的に働くのに慣れていた。約1年前からこの勤勉な深夜労働者は、リュクサンブール公園からそう遠くないこの狭くて暗い通り沿いに住んでいる。だが、そもそもなぜライプニッツはパリにやってきたのか? 遠いザクセン地方から彼をここまで導いた道は、月並みからは限りなく外れていた。

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

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