ベルリン訪問中にローライフレックスカメラで警察官を撮影する20歳くらいの時の原節子(写真:ullstein bild/Getti/共同通信イメージズ)
誰もが日常を発信し、「いいね」を求める時代。有名人ならなおさらだ。公私を問わず、常に存在をアピールし続ける姿勢が求められる。だが、半世紀以上前、完全に姿を消すことで、逆に存在感を高めた女優がいた。
1962年、「永遠の処女」と称された伝説の女優・原節子が、42歳という人気絶頂期に突如スクリーンから姿を消した。その後53年間、彼女は一切のインタビューを拒み、公の場に姿を現すことなく、2015年に95歳で静かにこの世を去る。死去の発表すら2カ月半遅れた。これほど徹底して沈黙を貫いた女優は、映画史上他に例がない。
突然の引退が残した謎
原節子は1920年横浜に生まれる。14歳で日活に入社し、1937年にドイツとの合作映画『新しき土』で国際的に注目を浴びた。
1940年ごろ、20歳前後だった原節子(写真:ullstein bild/Getty/共同通信イメージズ)ギャラリーページへ
小津安二郎の「紀子三部作」(『晩春』『麦秋』『東京物語』)で清楚な娘役を演じ、黒澤明の『わが青春に悔なし』では意志の強いヒロインを熱演した。
成瀬巳喜男作品では夫婦の機微を描く演技が話題を呼ぶ。共演者の上原謙とは複数の作品で息の合った夫婦役を演じている。
1960年の成瀬巳喜男監督の東宝映画「娘・妻・母」撮影の合間に談笑する(左から)団令子、原節子、高峰秀子、三益愛子(写真:共同通信社)
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世間の人気も高く、ギャラは業界トップクラスだった。
1951年に映画1本のギャラは300万円(総理大臣の月給が3000円の時代)といわれた。小津が原を映画に起用しようとしたときに、松竹がギャラの高さから渋ったところ、原が「ギャラは半分でもいいから出たい」といったエピソードは有名だ。

『東京物語』の原節子と笠智衆(