名著には、印象的な一節がある。

 そんな一節をテーマにあわせて書評家が紹介する『週刊新潮』の名物連載、「読書会の付箋(ふせん)」。
 
 今回のテーマは「航海」です。選ばれた名著は…?

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 昭和の戦前、日本から海外に行くには、飛行機はまだ普及していなかったから船が普通だった。

 田中英光の「オリンポスの果実」(昭和十五年)は昭和七年のロサンゼルスでのオリンピックにボートの選手として参加した「ぼく」の物語。

 作者自身が早稲田大学のボートの選手だったときの体験を元にしている。

 横浜から日本郵船の大洋丸という船でハワイを経由してまずサンフランシスコに向かう。大洋丸は第一次大戦後、敗戦国ドイツから賠償として得た船。

 船旅は長い。選手団には女子選手も加わっている。そこにロマンスが生まれる。

「ぼく」は、熊本秋子という走り高飛びの選手にほとんどひと目惚れをする。

「その晩、B甲板の船室の蔭で、あなたが手摺に凭れかかって、海を見ているところを、みつけました」

「ぼく」は「あなた」に恋をする。といっても船内での恋愛はご法度。遠くから眺め続けるしかない。

 この小説は全篇、「ぼく」の「あなた」への憧憬が書きこまれた、日本の近代文学でも稀有なプラトニックな恋愛小説。

「ぼく」の「あなた」への想いは閉ざされた船内でのこと。いつしか先輩たちに知れ、からかわれ、純情な「ぼく」は傷つく。

 結局、長い船旅のあいだ二人はわずかな言葉をかわしただけ。

 最後、「あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか」と結ばれる。戦前の青年は純情だった。

新潮社 週刊新潮

2025年10月2日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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