【原作補足】映画 遠い山なみの光がよくわかんなかった人向けの解説動画!【ネタバレあり】
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https://gaga.ne.jp/yamanami/
▼引用
https://bunshun.jp/articles/-/81967
#遠い山なみの光
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映画版はつまり監督の石井系監督の解釈が 映像化された遠い山波の光という作品に なっています。原作ではどうやったら解釈 できる表現がなされていたのでしょうか。 本当に小説のこの終盤のところで お疲れ様です。今回は映画東山並光 モヤモヤした人向けの解説動画やっていき ます。先週公開された今作私の率直な見 終わった感想としてはよくわかんないと いう感想を抱きました。ごめんなさい。 同じように今作の結末を見て感じた人が いるのかもと思い、ま、そうなるとね、ま 、ちょっともったいないかもと思いました 。なので原作も交えながら私なりの解釈で 解説していきます。できるだけ納得感の ありそうな内容でお話ししていきますが、 ま、それぞれの個々の解釈があると思い ます。ネタバレありの動画になっており ますので気をつけください。え、あと よければチャンネル登録、高評価お願いし ます。それでは早速参りましょう。 結末についていきなり本題から入っていき たいと思います。今作は主人公子の目線で 語られる物語となっております。え、戦後 1950年代当時の長崎の暮らしとさち子 という女性とその娘マリ子との出会いが 描かれていきます。そして映画の終盤 明らかになる真実が立ち子と越子実は同一 人物だったというような表現がなされて 映画を終わりを迎えます。どういうことと 思う人もいるような演子になっていたと 思います。子の物語、さチ子の物語、この 2人が交わるお話が語られますが、どっち かが本当でどっちかが嘘のお話なのか。 終盤の回層シーンではこれまでさ子が演じ ていた映像がエツ子いわゆる広瀬鈴さんの 映像に差し替えられています。実際にあっ た出来事として映像表現されているように 見受けられます。エツ子のお腹の中にいた のは稽古。でもマリコはエツ子の目の前に いる。部分的な映像の表現で最終的な解釈 は見る側に委ねるような終わり方になって いたと思います。え、ではこっからは原作 を交えて補足していきます。原作に何か こうヒントがあるんじゃないかと思う人も いるのではないでしょうか。そもそもです ね、原作において越子とさ子が同一人物と 断定できるような描写はほぼありません。 後書きでも解説者が複数名文章で解説を 行っていますが、そこでも同一人物だと いう解釈では書かれていません。今作映画 版はつまり監督の石井系監督の解釈が映像 化された東山並の光という作品になってい ます。では原作ではどうやったら同一人物 だと解釈できる表現がなされていたの でしょうか?原作小説では本当に小説の この終盤のところでこの現代の越子ですね 1980年代の越子が1950年代の過去 の自分を振り返る時にあのみんなで ケーブルカーに行った時あの時は稽古も 一緒にいて幸せだったのよという風な セリフが出てきます。ただ読んでいる人と してはうんと映画を見ている人も思うはず です。なぜならあの時にケーブルカーで みんなに行った時に一緒にいたのはさち子 の娘マリ子のはずです。け子は越え子の お腹の中にいたはずですよね。一体どう いうことなのか。この辺の小さなこう1つ の文章がここの解釈によって別れ道になっ ております。あとは越え越子が自分らしく ない行動をしたことがあったりします。で もそのことは覚えてなかったり、え、それ だけになっております。なので他のパート で同一人物に捉えられるような明確な描写 っていうのはないんですね。原作における 越子の娘稽古はイギリスに来た後もっと 悲惨な運命を辿どっていて家にこう 引きこもりになっちゃうんですね。新しい 外国という環境に馴染めずに引きこもりに なった結果家を1回出るんですけれども出 た後に自らこう命を落とすという悲惨な 運命を越子の娘稽古はたどることになって しまいます。大山並の光の原作本に書いて ある後書きの解説を引用するとその現代の 越子は過去の物語を記憶を回しながら自分 の選択による悲劇の運命つまり自分自身が イギリスに渡ったことで結果的に娘稽古が 自殺する運命になってしまった。それでも 記憶を探るような記憶の混濁が起こってい て結果的にあの時稽古もいて幸せそうだっ た。運命の不理な中から光を組み取ろうと する白表の光を掴もうとするという風な 解説がなされております。なので同一人物 という解釈ではなく越子もさ子も実際にい て越え子が過去を振り返った時に稽古も 幸せな瞬間があったんだっていう風に必死 にこう思おうとしているそんなですねが 込められた描写になっております。映画版 はどういうお話になっていたのかちょっと 違う感じになってるので私なりに解釈して この結末をこう着地させてみたいなと思い ます。今作ではその稽古を妊娠している エツ子ともう娘マリ子を産んでいるさち子 が出てきます。越子の方は良き妻として、 え、献心的な家を支える内女の子として 登場してきますがさ子は長崎から出たいと 考えている自由を求める女性像になって ます。献心的な古き良き妻からここから 逃げたいと思う妻。全く違う価値観に変貌 しております。この間が何が起きていたの かっていうところも解釈する必要があると 思います。この2人のこう共通点として 描かれている部分が被爆してという表現が あったと思います。越子は明確には言って ませんでしたから夫に私がもし被爆してい たらどうするという質問した際に夫は沈黙 してしまうという残酷な映像が流れました 。ひょっとしたらこの後何かしらで越子が 実は被爆した事実が明らかになりその子供 も被爆してるんじゃないかといった流れに なったのではないでしょうか。実際には その被爆2世ですね。お母さんが被爆し てるからその宿した子供に先点的な異常が あるとは確認されておりません。原作では 子供を産んだ後も数年間は一緒に夫自郎と 暮らしていたことが明らかになっているの で生活している中で夫から差別的な言動が あり元々持っていたその海外への憧れと いうか抑えていた感情が爆発しそこから 越子から飛び出しえさ子家を飛び出した 貧しい2人暮らしの生活が始まっていく。 いつかここを出てやるという秘めていた 海外への憧れで、え、外国の人に接する ような仕事とか言葉を覚えていって、良き 妻からうどん屋のパートに変貌していく。 ただこの時代で1人で生きていき、なんと か海外に逃げ延びるためには懸命に強がっ て強く生きるしかなく、ああいう性格に 変貌していったのかもしれません。で、 結局なんやかんや、なんやかんやっていい 人を見つけてイギリスに渡ることができた という形なのではないのかなと。え、原作 小説ではフランク出てくるんですけれども 、このフランクはまたね、どうしようも ないやつで途中で1回こう行方不明になっ たりとかどこかへ逃げていったりします。 そしてフランクは帰るのこうアメリカって いう風に言ってたのでひょっとしたらこの フランクと一緒に海外に逃げたというより は結局フランクにも裏切られて色々あって 別のイギリス人にたどり着いて都営したの ではないのかなと考えられます。というの もフランクって結構ダメ人間っぽい描き方 なんですけれどもイギリスにわったえ後の 夫はですね結構献心的で愛情を注いで くれる人物でした。古き良き妻であった 自分っていうのが元々のその自分の価値観 、いいと思って育ってきた自分なので、え 、誰かに胸を張って言える自分だと思い ますが、被爆して、え、家を出た後の 貧しい暮らしの自分っていうのを越え子は ひょっとしたらこううちに秘めて封印して 語らずにいたのかもしれません。語る時も 別の存在として自分の過去をさ子として 置き換えて語ってきたと思われます。2期 が仕事として取材に来る。ただ話を聞いて いるうちに家をこう物拭している間に隠し てきた母の秘密に気づいたはその秘密の ことを教2人でこうトランクに蓋をして 私たちも変わらなきゃと言って元の生活へ と戻っていく。母の隠した封印したい過去 を知ったことで現代の光につがる。2期も 2期でその男性関係とか、え、妊娠関係に 問題を抱えていましたが、彼女は彼女なり の答えをこれから母の封印したい過去をも に生きていくのではないでしょうか。 古気良きこの花生の中にいた越つ子の頃は いい暮らしなんですけれども、映像表現と しては閉鎖的なおりの中にいるような表現 になってましたが、さチコになった方が 解放感のある自由な自然を感じる映像表現 になっていたと思います。あとは他にも 疑問に思いそうな解釈があったと思います 。まず映画の終盤ですね。娘マリ子がどこ かへ行った時にその探す時に見つけて縄を 持ってましたよね。なんで名を持っている の?みたいな不穏な空気が流れていくと 思います。なぜ名を持っていたのでしょう か?元々さち子はフランクの元に行くため にマリコが勝っていた幼い3匹の猫の命を 犠牲にしても構わないという風に言ってい ました。この映画の内容でいくならばこの さち子はさち子なんだけれどもエツ子でも あるはずです。ということはフランクの元 に行くために子猫を犠牲にしていいといた さち子は行きたくないとねるマリ子に対し て一瞬その時起きていた新聞でも報道され ていた幼い少女の生産な事件に見せかけて マリコを手にかけようと一瞬考えたのでは ないでしょうかですがその海外に逃げ出し たいという自分に対してそれは良くないと 思った越つ子として思いとまったのでは ないのかなと。だからこそこのシーンの後 にさ子が出てくる描写はなかったと思い ます。あともう1つが過去の記憶を回する 時に謎のこう防寒する現代のエツ子の姿が あったと思います。これは実際の映像では なくて、越子の頭の中にある脳内記憶、 過去の記憶をたどる自分の姿がその映像の 中で表現されたのではないかという風に私 としては思ってなんとか着地させました。 はっきりとしたことは分かりません。作 自体がその事実を映像化したというよりは そのエツコという人物の記憶の困を映像化 した作品なのではっきりとどこまでが本当 のことでどこまでが嘘なのかっていうのは ミルガーに委ねられてると思います。あと はちょっとした余談なんですけれども映画 の中で、え、ポスターでおそらくね生きる のポスターがあったと思います。黒沢明 監督の作品ですね。こちら公開されたのが この映画と同じ時代間の1952年に公開 された映画です。このポスターが何で貼ら れていたのかっていうのを考えるとこの 生きるが、え、海外でリメイクされた際に この作品の原作者小説を書いた石黒さんが 客職を担当されておりますので、ま、その 繋がりもあって映画内にポスターとして 登場されているのかもしれません。今作 かなり原作版からアレンジされているな。 監督の移行が反映された映画版だなと思い ましたので、原作がどんな作品かもご紹介 していきたいなと思います。端的に言って しまえばもっと静かで淡々としているのが 原作版です。解説でもね、言われているん ですけれども、小や筋郎監督の映画にある ような古気よき伝統的な日本人の着心知れ た間柄のこう心地よいね、会話劇みたいな のが、え、原作小説の雰囲気です。登場し てくる小方さんもめちゃくちゃいい人とし て描かれてます。ちょっとしたシレもあり つつ立派な人のように描かれていった そんな会話劇の中にゾっとするような ナチュラル女性刑士の表現が混ざってい たりします。例えば小説版の方では夫婦が 別の政党に表を入れるなんてありやん。昔 から変わってしまった消しからんみたいな ことも言い出します。基本的にはいい人な んですけれど。他にも将棋を息子である 次郎とやりますよね。その時に次郎を 夜更かしさせてしまった。あ、ちゃー みたいなことを言うんですが、その横で 越子さんに対しては全く心配の声をかけ ない。小方さんも息子次郎も表面的には 仲良くやるんですけれども、古い考えの 小方さんに対して次郎もイライラして小説 版ではね、ちょっとこう突っかかりそうに なるシーンもあったりするぐらいです。で 、ポイントなのはエツ子は映画版だと ちょっとこう息き苦しさを感じるような 表現になってたと思いますけれども小説版 はそんなことないんですね。古気良き考え を持っている伝動的な小方さんのことが 大好きな感じです。むしろ小さんは戦後の 価値観の変化の中で小方さんは小方さんで 取り残されるような描き方になってます。 これまで、え、捧げてきた新念が教え語に よって否定されるシーンが小説版でもある んですけれども、小説版のこの後のシーン が個人的にすごく好きで、その否定された 後は何分もそこで佇んでしまうんですね。 そして小がさんは若いは自信があるなと 言ってなんとか切り替えようとしていき ます。そんな小さんを見て越え子はなんて ことを言う人なのと気にしないでいき ましょうって言って励ますような感じなん ですね。映画版だと小がさんが声を荒げて しまうので、ま、ちょっとこう老っぽくも 見えなくもないんですが、原作だとその誰 かがどうこっていうよりはですね、この 戦後の中で価値観が民主家によって変化が 起きて、で、それまで良いとされていた ものからガラっと変わったことでその 取り残されて困惑していく心地だけれども その中にあるこの不穏な空気とかちょっと ホラーも感じるようなですね、不上理沙と かが描かれております。ま、そういう複雑 な作品になっていて、原作者の和夫石黒 さん自体がですね、5歳まで長崎で育って 、え、その後イギリスに行って社会福祉の 仕事をする。その中で難民支援の経験が あって、実際にこの戦争によってそれまで 地位があった人がだいぶこう地位が低く なる瞬間を間の当たりにしたっていう経験 がこの作品にも反映されているそうです。 そんな周囲が変化していく中で古気価値観 をまだ持っていたエツ子は新しい価値観を 持つさ子と出会います。原作だとさチ子は ねもっとこう超心配になるメンヘラ機質と いうかヒステリックっぽい部分もあったり します。いんなを見て越子はこの人大丈夫 かしらと言って気にかけていくだけれども 自分自身もそんな活発で新しい価値観を 持つさ子に対して興味関心心が動かされて いきます。心配しつつもだけれども結局は 自分も自由を求めて日本を出ていって しまいます。で、ポイントなのがその結果 自分も自由を求めたのに娘稽古のために家 を出たのに稽古は結果的に引きこもりに なってしまい自ら命を落とすという悲劇な 運命が不上理が訪れてしまいます。ただ イギリスに行ってイギリス人の夫とできた 子供の2期自体は元気な現代女性に育ち ます。男性の言いなりになってつまらない 人生を送る女性が多すぎるのよみたいな 感じですね。最初は受け入れにくかった 女性像のさち子心配するような存在だった んですけれども結果的には彼女と同じよう に自由を求めたことで娘を喪出してしまう 。そして先ほども言ったようにあの日の頃 を未来になって思い出す時に実はこうそこ に稽古もいて幸せそうだったという風に 思い返す。でも実際には稽古はそこにい ないはずなのに不利な時代の変化の中で 混濁した記憶に希望の光を見ようとしたと いう解釈がありつつ、またこうそれぞれの ここの幅がある解釈があります。なので 先ほども言ったように原作の後書きの解説 ではエツコイコールさち子と解釈されて おらず、え、これは映画は映画で1つの 解釈になっております。なので原作自体は ですね、結構多格的な話なんですね。次郎 は次郎でちょっとこう色々思うところが あったりとか小方さんは小方さんでそう いう女性的なところがあるんだけれども昔 の価値観に取り残された。え、さち子は さち子で一見すると心配そうになるんだ けれどもでもこう彼女に影響を受けて しまうとか、え、そういったですね、 いろんな人のいろんな側面の話になって いるように私は感じました。そして2期の 話は映画版みたいにですね、これ男性関係 とか、え、妊娠の下りっていうのはですね 、あんまりなくて、ほぼほぼ聞き手の役割 になっております。なので映画の方がです ね、結構こう女性の息き苦しさの映画に フォーカスが当たっているような作品に なっているなと思いました。え、さらに 被爆の描写ってね、原作ではほとんどない んですね。私で買ってるんですけれども、 え、被爆って検索してもそのワードは出て こなかったと思いますし、映画のこの予告 でも代々的に使われていたフックとなる シーン、自分を責めるシーっていうのは 原作小説にもありません。なので、え、 かなりですね、映画版は監督の移行によっ された作品になっていますので、え、その 辺は見る人の意見の別れ目になるんじゃ ないかなと思います。この新しい解釈が 好きだっていう人もあれば、原作の解釈と ちょっと違うんじゃないかと。ま、自分 自身はですね、結構小説版の方が好きだな と思います。インタビューの基地を見たん ですけれども、数石黒さん自体はですね、 原作に忠実ある必要はないと。新たな解釈 で新しい世代によって語り継がれて映像で 作られていくことに意味があるという風に おっしゃっていましたので、ま、そういっ た意味ではね、まだ幅広い遠い山波の光と いう新しい作品が生まれたのかなと思い ます。ただ個人的な感覚として言わせて もらうのであればそもそもの原作にあった この独特なね複雑みのある味わいが変わっ てる気が映画版しましたし前提として映画 版のこの終わり方は面白いのかなっていう 風に思ってしまったっていうのは正直な ところでしたね。はい。皆さんはね、 どんな感想を持ちましたでしょうか?ま、 楽しめた方もね、たくさんいらっしゃると 思いますので、え、そういったいろんな人 のこう解釈の幅っていうのもあると思い ますので、え、コメントで教えてみて ください。ということで、最後までご視聴 ありがとうございました。 [音楽] と言いつつも、ちょっとどうしてもね、 モヤモヤするところがあって、そこをね、 こう語らしていただきたいです。この パートは個人的な思いが強いので、ま、人 によってはね、不快な気持ち理解できない かもしれないので、後で消すかもしれませ ん。いろんな人のこう感想コメントを見て 感じたのが結局どういうことだったんだろ うって、この疑問を抱くっていうところで を割っているんじゃないかなって思いまし た。映画において意味が分からなくても 読み解く自由さがあるっていう作品も 大いにあるし、それも面白いと思います。 私もそういう作品好きですし、解説動画も 出しています。ただやっぱりいろんなこの 長崎県に住む人たちもこの映画を見に行く と思うんですね。長崎ってこの映画の上映 されている映画館って3巻しかないんです よ。しかもこの3巻ってこ長崎市内に2つ 、あとは差せ干に1つ結構距離があるん ですね。長崎の境い目ってこの辺なので、 これ左側にも本当はね、長崎県の離島が あるんですけれども、全体的に緑かってる と思うんですけれども、この緑かってる ところはね、結構3輪地帯になるので、 本当に海沿いに町ができているわけなん ですよ。まっすぐ道が通ってないので行く の結構大変なんですよね。移動時間も かかるし、田舎なので乗車だってバカ高い です。僕は地元が長崎なんですね。地元に 通ってる電車は世界一電車とも言われて おります。そもそも電車が通ってない エリアの人もいます。もう本当に先週実家 に帰ったばかりです。長崎に帰った時、 長崎のテレビ番組ではバンバンこの遠い 山波の光のCMが流れるんですね。って なってくると、やっぱり長崎に住んでる人 からすると、あ、戦後長崎が舞台になるん だ。しかも予告では私がついた嘘。切な すぎる真実とは。で、広瀬さんが私のせい なんですって泣いてるんですが、映画の 中盤入れて予告のフックとして使われてる わけですよ。なった時に、あ、じゃあ長崎 は舞台だし、好きな俳優も出てるし、 ミステリーっぽい結末がありそうだと。で 、時間とね、旅費をかけて、電車をかけて 行って映画館に行ってみようかなと思って 、行った結果、その真実っていうのがご 自身の解釈でお楽しみください。断片的に しかお見せしません。うん。正直ですね、 ま、どういうことなのと予告で言われてい た真実って結構ピンと来ないんじゃないか なと思います。私は小説も読みました けれども、小説だったらあれ、このセリフ どういうことあったんだろうって、その場 で読み返すことができますし、後書きにも 解説があるわけなんですよ。ただ映画館で 映画を見たら1回見終わった後は配信まで 見ることってなかなかできないですよね。 ま、もちろん映画館近くだったらいいです けど、分かんなかったらモヤモヤを抱えた まま映画館を出て家に帰ることになるわけ ですよ。考察だったりとか解釈をするのが 好きな人もいると思いますが、やっぱり私 何回も長崎地元帰ってるんで、みんな そんな余裕はないんじゃないかなって。 そっちの人の方が多いんじゃないのかなと 思います。この解釈の自由度が高い作品を パンフレットも見ましたけれども、自分の 解釈を入れて表現するのであればもう少し 映画作品としてはっきりと面白さを提示し た上で終わらせて欲しかったなっていうの をですね、私は感じました。予告で興味を そるフックを使ったのにお金と時間と体力 を使ってこの映画を見終わった時になんか よくわかんなかったっていう感覚を持つ人 の方がま、多いんじゃないのかなと。ま、 ちょっとこのパートはね、本当消すかも しれません。地元に帰って色々思うところ があったので、ナーバスになってるだけか もしれませんが、私はこう思いました。と いうことで、え、最後までご視聴 ありがとうございました。それではまた次 の作品でお会いいたしましょう。さよなら 。バイ。
8 Comments
感動ものかな?
と思って観に行ったけど、
最後、なぜ人が入れ替わってるのか理解出来なかった。
サスペンスものだったの? 推理もの?
だったらもっとハッキリと描いて欲しかった・・・
観に行って損した映画だった。
「国宝」も皆の評判信じて行って、ごくありふれた映画だったし・・・
たて続けに2連敗だわ〜。
人を信じた俺が、悪いのね・・・
本作、俳優の名演と映像美のおかげで、最後まで飽きずに観れました。しかし「正直手放しで素晴らしいとは言いにくい映画」だなと。
分かりにくい箇所が多く、後であの場面の意味はこうだったんじゃないかとか、色々考えて自分の中で辻褄合わせをする感じ。
あとで他の人の考察も多く見たけれど、納得出来るものは余り無かった。ただ後で考える楽しみ方も有りな映画かなとは思いましたが。
今回、ツッチさんの解説は学びがあり、良かったです。可能性は低いですが「別の監督による映画化があれば、凄く観たい!」と思いました。
こんな再生数見込めないマイナー邦画よりチェンソーマンの解説やってくれや
映画がわからない……
解説を聞かないと理解できない😢
映画が難しい
「あ、面白そう」で見に行くのが怖い😱
「原作を読んでなければすんなり理解出来ないような映画は観ない」のがモットーですw。
観終わった時「観客に丸投げかよ!」って怒りのほうが強かったです。当然「どうゆうこと?」もありましたから(笑)
広瀬さんが戦前の教えや考えの悦子、二階堂さんが戦後自由になって離婚後の悦子だったのは理解しましたし、
長女の自殺が原因で今の悦子が苦しんでいるのもわかるのですが、
吉田羊さん悦子の本当の心情が見え難いから、ラストはそこをハッキリさせて終わったほうが良かったかな。
でも、数日この映画の事を考えてしまったので、好きな映画だったのかも(笑)
石川慶監督
この映画の制作について石川慶監督が原作者イシグロ氏の OKを得ているのだから、原作者の許容範囲であれば原作と映画は別物。映画は原作の要約版ではないし、コジツケ的な理屈や空想で伏線回収をして見せる例題集でもない。上映時間が2~3時間の映画では、描写を省略して観客の想像に任せたり、原作にない脚色を加えることはよくある手法。