それでもなお、わたしは執筆作品を完全なかたちのまま読むことは、実はそれほど重要ではないのかもしれないと考えずにはいられない。かつては、楽曲全体がサンプルを中心に、あるいはサンプルのみから構成されることなど、想像さえできなかった。それがいまでは、サンプリングは珍しいことではなく、わたしたちは音楽制作の流動性をバグではなく機能として認めている。

同じようなリミックス文化が読書にやってくるのを想像するのは、飛躍のしすぎだろうか? 数多くのバージョンが存在するニュー・オーダーの「Blue Monday」のうち、どれが本物なのか? この曲を愛する限り、その区別は重要ではないのでは? 同様に、わたしとあなたがそれぞれ(ハードカバーでもソフトカバーでも、翻訳版でも)別の形式の『リラとわたし』を読んだとしても、わたしたちはふたりともフェッランテ作品のファンになるのではないだろうか? ヘンリー・ジェイムズは、自身の著作が晩年に再出版されたとき、多くの小説を改訂した。テイラー・スウィフトは「Taylor’s Version」を発表した

わたしたちは著者の意図、アイデンティティ、著作所有権を気にかける。文章は特定の言葉の配列であり、それが並べ替えられると特異性が失われ、多くの場合で同時に価値も失われることを知っている。だが同じように、わたしたちは自分が読むものをAIで編集することも楽しめるかもしれない。

読書の限界をAIがカバーする時代へ

わたしの場合、読者としてのピークは、ジャーナリズムの世界に入る前、英語学の博士号を取得していたころだった。大学院過程の半ば、わたしは総合試験を受けなければならなかった──3人の教授による何時間にもわたる口頭試験だ。試験はその1年前に配布された図書リストに基づいて行なわれ、リストは英文学最古の伝承叙事詩『ベーオウルフ』から『ビラヴド』まで英文学のほぼ全体にわたり、ジョイスの『ユリシーズ』や『イェイツ詩集』なども含まれていた。わたしは昼夜を問わず読んだ。目を守るために、特殊なランプと台付きの拡大鏡を買わなければならなかったほどだ。

数年後には2次試験として専門の文学に焦点を当てた分野試験を受けたが、このときは自分でリストを作成できた。この第2のリストも1年分の読書を包括することが期待されていて、わたしのリストにはおそらく24冊ほどの小説と、終わりがないと思えるほどの文学批評が含まれていた。このときは背中を守るために立って読んだ。

人間の読書はどうしても有限だ。どれほど多く読めるかを自分で知るのはわくわくする体験で、試験勉強のおかげで、わたしは「すべてを読んだ人」に仲間入りする道を歩み始めた。それでも、重要作品のかなりの部分を読みながらも、存在する作品のほんの一部しか読んでいないことを意識せずにはいられなかった。わたしの大学の図書館は滑稽なほど大きく、地下にも多くの階層があり、書庫の奥深くで照明がちらつくと、少なくとも最近は誰も読んでいないと思われる本の棚が現れた。

また、いまになって振り返ってみると、別の種類の限界が存在したことも明らかだ。記憶力だ。わたしはエドマンド・スペンサーの長編叙事詩『妖精の女王』を読んだはずだが、要点以上のことを思い出せるだろうか? こうしてわたしは中年になってからというもの、読んだことのある偉大な本(『幼年時代』『少年時代』『青年時代』など)を再読することに、新しい本を探すのと同じくらいの時間を費やすようになった。

AIはこれらの限界に挑戦することになるのだろうか? きっと、AIが知的読書マシンとして、誰からも顧みられなくなったテキストから価値を掘り起こしてくれることだろう(このプロセスは化石燃料の抽出に似ているかもしれない。古い、専門的な、あるいは難解な文章が圧縮されて、新しい思考に力を与えるために利用される)。加えて、LLMが人間の読書記憶を拡張し、より深めるシナリオも想定できる。もしわたしがAIを傍らに試験勉強をし、その後も同じAIとずっと読書について議論し続けていたら、生きた共通記憶のような思考日記ができあがっていたかもしれない。

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