1925年に誕生して以来、ロールス・ロイス「ファントム」は単なる自動車を超え、時代を象徴する存在であり続けてきた。王侯貴族や大富豪に選ばれた格式の象徴である一方で、ハリウッド黄金期のスターからロックンロールのアイコン、そして現代ヒップホップのスーパースターにまで愛され、音楽史の舞台にその名を刻んできたのである。クラシックとモダン、伝統と革新、その両面を体現するファントムは、100年を経た今なお、アーティストたちの創造性とアイデンティティを映し出す究極のキャンバスであり続けている。

 

 

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「ロールス・ロイス」は、自動車史における 究極のラグジュアリーカー と称される存在だ。1925年の誕生以来、約100年にわたり王侯貴族をはじめ、世界の富裕層やセレブリティから変わらぬ憧憬を集め続けてきた。

 

 その魅力はとりわけ音楽界から篤い支持を受けてきたことでも知られる。ハリウッド黄金期の華やかな映画音楽の時代から、現代のヒップホップカルチャーに至るまで、アーティストたちはロールス・ロイスを通じて自身のアイデンティティを示し、そのクルマ自体をひとつのアイコンへと昇華させてきたのである。ジャンルや世代を超え、ロールス・ロイスは今なお「究極のステイタス」であると同時に、オーナーの個性を映すキャンバスとしての役割を果たしている。

 

 なかでも「ファントム」は、数あるロールス・ロイスのモデルの頂点に立つフラッグシップであり、音楽界との結びつきが最も深いモデルでもある。8世代にわたり、音楽史に名を残すアーティストやスターたちが選び続けてきたファントムは、卓越したエンジニアリングと最高級素材、そして職人技の極致によって、その地位を揺るぎないものとしてきた。さらに内外装を徹底的にオーナーの嗜好に合わせて仕立てられることから、多くの音楽家たちのファントムは、それぞれが唯一無二の存在感を放ち、時代を象徴するアイコンとなったのである。

 

 ロールス・ロイスが誇る、素晴らしい顧客リストの一端をご紹介しよう。

 

 

 

〈エルヴィス・プレスリー〉

 

 

 

 1956年、有望な若き歌手エルヴィス・プレスリーのセルフタイトル・アルバムが、ロックンロール史上初めてビルボード・チャートの首位を獲得し、10週間にわたりその座を守った。1963年、人気絶頂の「キング」は、数々のビスポーク仕様を施したミッドナイト・ブルーのファントムⅤを購入した。

 

 室内には、マイクがセットされた車内カラオケ、ひらめきを書き留めるための後部座席アームレスト内のメモ帳、完璧な姿で現れるための鏡や衣類ブラシが備えられていた。

 

 このファントムのオリジナルの鏡面仕上げの塗装があまりにもピカピカだったため、エルヴィスの母親が飼っていた鶏たちが、車体に映った自らの姿をついばんだという逸話もある。後にこの自動車は、傷が目立ちにくい淡いシルバーブルーに塗り替えられた。

 

 

 

〈ジョン・レノン〉

 

 

 

 1964年12月、ジョン・レノンはビートルズのシングル『ハード・デイズ・ナイト』の成功を祝してファントム Vをオーダーした。ウインドウ、バンパー、ハブキャップに至るまですべてブラックで仕上げられたこのクルマには、カクテル・キャビネットやテレビ、さらにはトランク内に冷蔵庫まで備え付けられていた。

 

 しかし、エルヴィスのファントムと同様に、レノンのファントムも後に大胆な変貌を遂げることになる。1967年5月、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のリリース直前に車体はスプレーでイエローに塗り替えられ、その上からレッド、オレンジ、グリーン、ブルーの模様が手描きされ、花柄のサイドパネルと、レノンの星座である天科座のシンボルが描き加えられたのだ。若者たちにとって、レノンのファントムは、その年に起こったムーブメント「サマー・オブ・ラブ」の自由奔放なムードを見事に映し出す存在だった。

 

 一方、年長者たちは一様に眉をひそめた。ロンドンのピカデリーを走るレノンのファントムを目にしたある女性は「ロールス・ロイスにこんな事をするなんて!」と叫び、傘で車の塗装を叩いたという。

 

 このファントムは 1985年にオークションに出品された際、その価格は229万9,000 ドル(予想価格の約10倍)で競り落とされた。当時、これはロックンロールの落札品としても最も高価なもので、オークションで売却された自動車としても最高価格であった。

 

 

 

〈フレッド・アステア〉

 

 

 

 伝説的ダンサー&俳優のフレッド・アステアは、1927年製の ロールス・ロイス ファントムⅠタウンカー(シングル・カブリオレ仕様)を所有していた。格式あるクラシックスタイルのボディは英国の名門コーチビルダー、フーパー社によるもので、グリーンの車体にブラックのフェンダーを備え、内装はブラックレザー&クロスで仕上げられていた。隅々までアステアのセンスが光る仕様であった。

 

 ブロードウェイからハリウッド進出後、主にフォーマルな移動手段として使用された。当時から特別な存在であったファントムIは、アステアのステータスと芸術性を象徴していた。彼はキャリアの全盛期である1930〜50年代をこのクルマとともに過ごした。

 

 

 

〈リベラーチェ〉

 

 

 

 ワジウ・ヴァレンティノ・リベラーチェは型破りな音楽界の巨匠だ。クラシックからジャズ、ポップスまで、幅広い音楽を独自のスタイルで演奏した。豪華絢爛な衣装、舞台演出、ユーモラスなトークを織り交ぜたステージで人気を博した。きらびやかで多才な彼は、1950~60 年代にテレビ番組とラスベガスでの長期公演によって、世界で最も高い報酬を誇るエンターテイナーとなった。

 

「ミスター・ショーマンシップ」というニックネームを得た彼の豪奢な演出のひとつに、1961年式ファントムVがある。このクルマはボディが小さな鏡片で覆われており、ラスベガス・ヒルトンでの長期公演でステージ上に登場し、観客を魅了した。

 

 このファントムVは、数々の受賞歴を持つリベラーチェの伝記映画『恋するリベラーチェ』(2013年)にも登場し、リベラーチェを演じるマイケル・ダグラスがその短くも印象的な走行シーンを再現している。

 

 この他にも、ロールス・ロイス ファントムを愛したアーティストは、マリーネ・ディートリッヒ、デューク・エリントン、カウント・ベイシー、ラヴィ・シャンカール、エディット・ピアフ、サム・ムック、サー・エルトン・ジョンなど、枚挙に暇がない。

 

 2003 年にグッドウッドに移転して以来、ロールス・ロイスはヒップホップの中で最も多く名を挙げられるブランドとなっていった。2004年、ファレル・ウィリアムスとスヌープ・ドッグは、『ドロップ・イット・ライク・イッツ・ホット』のミュージック・ビデオにファントムVIIを登場させた。

 

 50セントは、テレビ・ドラマ『アントラージュ★オレたちのハリウッド』(2004〜2011年)にファントム VIIドロップヘッド・クーペに乗って登場し、そのシーンは広く拡散された。また、リル・ウェインのアルバム『カーターⅡ』(2005年)をはじめ、多くのアルバム・ジャケットにもファントムが登場している。

 

 さらに、ヒップホップはロールス・ロイスを象徴する装備「スターライト・ヘッドライナー」の人気を高めるうえでも大きな役割を果たした。 “stars in the roof(天井の星々)”というフレーズはラップの歌詞に繰り返し現れる。

 

 

 

 

 最後にロック史における、ロールス・ロイスの最も有名な逸話を紹介しよう。1967年8月23日、ザ・フーのドラマー、キース・ムーンの21歳の誕生日の出来事だ。天賦の才を持ちながらも破滅的な人生を送った彼は、ミシガン州フリントのホリデイ・インで、自らのロールス・ロイスをプールに沈めてしまったといわれている。

 

 その夜、実際に何が起きたのかについては諸説ある。1972年の『ローリング・ストーン』誌でムーンは、「プールに沈んだのは他の宿泊客のリンカーン・コンチネンタルで、自分がハンドブレーキを外して転がり込ませた」と語った。一方で、「そもそも車がプールに沈んだ事実などなかった」と主張する出席者もいる。

 

 真相がどうであれ、この伝説はあまりに強烈で、ロックンロールの象徴として語り継がれることになったのだ。

 

 

 

 

 ファントム誕生 100周年と、ロックンロール神話におけるその存在感を讃えて、ロールス・ロイスはこの伝説を現実のものとした。リサイクルを予定していた退役プロトタイプのファントム・エクステンデッドのボディシェルを、実際にプールへ沈めることで、この伝説を生き返らせたのだ。

 

 舞台となったのは、イングランド南西部プリマスにあるアールデコ様式の名所「ティンサイド・リド」。英国海峡に面したこのプールは、ジョン・レノンともゆかりがある。1967年9月12日、ビートルズが映画『マジカル・ミステリー・ツアー』(1967年)の撮影で訪れた際に、ここで写真撮影が行われたのだ。

 

 長きにわたりクラシックの伝統を体現してきたロールス・ロイスは、同時に時代の先端を突き進むロックンローラーたちからも熱く支持されてきた。その相反するふたつの顔が交錯することで、ロールス・ロイスは唯一無二の輝きを放ち続けているのである。

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