これは音楽、政治、ドラッグ(ケタミンやエクスタシーほか)の痛快なコメディ映画であり、北アイルランドのベルファストを舞台とした、主役を務めるかの地のラップ・グループ、まだ正式なスタジオ・アルバムは1枚しか出していないニーキャップ(Kneecap)の伝記映画でもある。わずか1枚のアルバムしかなかったのに伝記映画を作ったのはセックス・ピストルズだが、本作は反抗の虚構を見せびらかせた『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』ではない。ここで重要なのは、ニーキャップが自分たちの物語や成功を滑稽に演じることでみずからを脱神話化し、音楽グループのありがちなサクセスストーリーに仕立て上げるのを回避していることだ。彼らの志はもっと大きい。ニーキャップと、『ガーディアン』などでジャーナリストとしても活動してきた1984年生まれのリッチ・ペピアット監督は、この作品でカウンター・カルチャーの大いなる可能性を描き出すことを追求していると言えよう。
 それゆえに、本作が、監督が大きな影響を受けたという『トレインスポッティング』に喩えられるのは納得だが、同時にヒップホップの文脈でいえば、ストリートの手に負えない悪ガキたちが図らずも国家権力を本気にさせるほど政治的にラディカルに突き抜けるという一点においてN.W.Aの伝記映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』を引き合いに出したくもなる。が、ここでまた重要なのが、N.W.Aのようなギャングスタ・ラップのマチスモとは、ニーキャップもこの映画も距離を置いている点だ。ニーキャップの歌詞には下品で挑発的な言葉が多く、女性蔑視的な表現が皆無とは言えないが(たとえば、“C.E.A.R.T.A.”のモ・カラの6ヴァースめ)、それだけで彼らをアメリカのポルノまがいの一部のヒップホップと同列に扱うのは早計だろう。みんなで踊ることを楽しもうとするレイヴ、ジャングル、ベース・ミュージック系の彼らの音楽の特徴も大きい[*編集部註:アルバムには808ステイトの“キュービック”ネタもあり。リミックス盤にはデイヴィッド・ホームズも]。ともあれ、ヒップホップ/音楽好きはもちろん、カウンター・カルチャーのパワーを浴びたい人は、いま観ておくべき作品なのは間違いない。
 たしかに、前提となる社会的背景は入り組んでいる。イギリスによる北アイルランドの長い植民地化の歴史、ベルファストとIRA(あるいはIRA暫定派)、1960年代後半以降の北アイルランド紛争(ザ・トラブルズ)、イギリスからの分離独立を目指しアイルランドの統一を目指すカトリック系住民とイギリスに帰属意識を持つプロテスタント系住民との根深い対立などの知識があるとより理解しやすい。しかし、それらの知識を抜きにしても楽しめるし、むしろこの映画を観ることでそれらの歴史や社会問題を知るきっかけになるという意味でも観る価値がある。

 主人公はドラッグ・ディーラーの2人組の若者、ニーシャ=モウグリ・バップと幼馴染のリーアム=モ・カラ。ひょんなことで逮捕され、警察の取り調べを受けることになったリーアムは英語で話すことを拒絶し、意地でもアイルランド語で応じようとする。そこに高校の音楽教師、JJ・オドカーティ=DJ プロヴィがアイルランド語の通訳としてあらわれる。リーアムのメモ帳に書かれたアイルランド語のリリックに才能を感じたプロヴィは、ラップをする2人を自宅のガレージの音楽スタジオに連れて行き、そこから3人の活動がスタートする。
 はっきり言って見どころだらけで、「うわあ、これはよくできている!」と感心しっぱなしだった。ベルファストは、IRAの武装闘争の舞台として語られもしてきたが、まず冒頭でそうしたステレオタイプな見方を否定するというか、相対化する。あなたたちが知っている北アイルランド/ベルファストの物語とは違うぜ、という軽いジャブからはじまる。というのも、ニーシャの父親のアーロはIRA(より正確にいえば、共和派準軍事組織)の生粋の活動家としてイギリスの植民地支配に抵抗する武装闘争に人生を捧げ、いまは死亡を偽装して逃亡生活をつづけている。アーロは幼いニーシャとリーアムに「アイルランド語は自由のための弾丸だ」と教える。その教育の影響を受けた彼らは、だからアイルランド語を使ってラップをする。それが彼らのアイデンティティなのだ。
 しかし話はそう単純ではない。ドラッグやセックスについてラップし、反警察的かつ反英国的でもある、素行の悪い彼らの人気が出てくると、アイルランド語を公用語とする運動に情熱を注ぐプロヴィの妻は彼らを煙たがる。彼らによってアイルランド語への悪印象がついて法制化の妨げになるというわけだ。さらに、アイルランド統一を目指す教条的な活動家からもニーキャップは目をつけられ袋叩きにあう。つまり、北アイルランドのアイデンティティとしてのアイルランド語を用いながら悪態をつく彼らのラップは、既存のナショナリズムの枠には収まりきらないのだ。そのように、北アイルランドの新しい世代の感覚や風俗を旧世代と対置させているのも興味深い。

 ニーシャとリーアムは、アイルランド紛争が停戦した1998年以降に育った「停戦世代」。そんな彼らは、アイルランド紛争後を生きるなかで精神的な「トラブル」を抱えている、つまり「紛争世代」の子どもとして育ったことがトラウマになっている、というもっともらしい理由をでっちあげて精神科から処方箋をもらう。要は合法ドラッグを手に入れるための嘘をつく。こうしたユーモラスなシーンによって、現代の北アイルランドの若者文化やニーキャップの特異性を浮き彫りにするのが見事だ。それもあるし、いわゆる「政治の季節」の活動家のやんちゃな息子がラッパーとして政治的にもっともラディカルな存在となるというのは、ポスト公民権運動としてのヒップホップの可能性そのもの。と、模範的な構図に当てはめたくもなるが、むしろ政治的な使命感から解放されている町のチンピラの向こう見ずな勇気にカウンター・カルチャーの可能性を見いだすことが、この映画の物語を面白くしている。
 一方で、現実のニーキャップには理知的な側面もある。彼らが今年4月のコーチェラ・フェスティヴァルでイスラエルのガザでの残酷無比なジェノサイドを批判し、8月のグラストンベリー・フェスティヴァルでもパレスチナの解放を訴えたことは周知の事実だろうモウグリ・バップは最近のあるインタヴューで「パレスチナと植民地化という共通の歴史を持つ俺たちにとって、(パレスチナ連帯は)自然な流れ」と言う。さらに彼は「植民地支配の物語は世界的なもので、ウェールズ、バスク地方、オーストラリアでも抑圧の方法は同じ。彼ら(植民者 ※筆者注)は彼ら(被植民者 ※筆者注)の言語を奪った。誰かの言語を奪うことは、彼らのアイデンティティを奪うこと。そして、アイデンティティを奪えば、支配しやすくなる。この映画を通して、俺たちはそれを悟った。これは単にアイルランド語だけの問題ではなく、より広い意味での物語だ」と映画への反響を受けて、グローバルな反植民地主義について言及している。それだけではない。「俺たちは中流階級のカトリック教徒よりも、プロテスタントの労働者階級との共通点が多い。統一アイルランドは民衆に恩恵をもたらす必要がある」と、宗教や立場の違いをこえた下からの連帯を志向する。う~ん、素晴らしい。

 言うまでもなく本作は通りいっぺんのプロパガンダ映画ではない。くり返しになるが、図らずも国家権力を本気にさせてしまった町の兄ちゃんたち=ニーキャップという稀有なラップ・グループの伝記映画だ。だからこそ、宗教や立場をこえた連帯のユートピア(もしくはファンタジー)を、恋や愛をまじえて描く物語に感動があるし、ある意味では説得力もある。いち音楽グループの凡庸な成功物語に閉じることなく、この映画が目指したのは、抑圧のなかからより大きな夢を解き放つことだった、そう言えるかもしれない。「弾丸はなろうとしてなるものじゃない。いつから弾丸か知らないが、世界に放たれるときを待ってる。自分の速さを知るために。俺らは速さを知った」――クライマックスのこのセリフが素晴らしい至言として響いてきた。

【以下、編集部追記】
 以前、グラストンベリー・フェスにおけるニーキャップの反イスラエル/親パレスチナ行為がニュースになったことは書いたが、同フェスではボブ・ヴィランの「IDF(イスラエル国防軍)に死を」発言も問題となって、英国イスラエル弁護士会(UKLFI)から訴えられ、その後彼らのコンサートは中止させられた。ニーキャップのモ・カラもUKLFIが警察に通報したことでテロ犯罪で起訴され、ニーキャップのコンサートは中止となっている。こうした事態に対して、マッシヴ・アタック、ブライアン・イーノ、フォンテインズDC、ニーキャップらは、7月17日、イスラエルのガザに対する軍事攻撃について声を上げるアーティストのためのシンジケートを結成すると発表している。

 なお、ただいま、新宿シネマカリテ&アップリンク吉祥寺では、写真家ローレンス・ワトソンが撮影したKNEECAPのライヴ写真といっしょにプライマル・スクリーム、ポール・ウェラーと共演した〈GIG FOR GAZA〉のときの写真も展示されている。吉祥寺には、メンバーのモ・カラの裁判への抗議にポール・ウェラーと帯同した時の写真もあります。

二木信

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