©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
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◇興行収入56億円突破!早くも今年度No.1の呼び声も高い

 李相日監督が吉田修一の小説「国宝」を映画化。二人のタッグは「悪人」「怒り」に続き3度目となる。新作の舞台は歌舞伎だ。伝統の世界に生きる人たちの栄光と挫折を描いたこの作品の魅力を、歌舞伎評論家でもある犬丸治氏が鮮やかに描出する。

 映画「国宝」を、封切り直後の6月8日以来、4回観(み)た。吉田修一の原作は既に読んでいたし、カンヌに出品され話題にという程度の認識だったのだが、予想を遥(はる)かに超えた出来栄えに、ただ瞠目(どうもく)した。火照りは中々醒(さ)めやらず、毒のようにじわじわと身体を駆け巡り、人に逢(あ)うたび語りたくなるのだから不思議だ。

 歌舞伎を扱った映画は無論本物の歌舞伎ではないので、どこかに「チャチさ」「偽物臭さ」がつきまとうものである。しかしこの映画にはそれが全くない。優れたカメラ(ソフィアン・エル・ファニ)に助けられているのだ、という人もいるが、吉沢亮と横浜流星が踊る「二人藤娘」「二人道成寺」にしても、二人とも実にシッカリとしたフォルムで、1年半の稽古(けいこ)で流した汗と刻苦が偲(しの)ばれた。

 本職の役者と比べての技芸の巧拙へ批難(ひなん)も目にしたが、それなら歌舞伎座の舞台を観ればよいだけの話。いわば「国宝」は「血」か「実力」か、で葛藤する喜久雄と俊介の物語に重ねた、吉沢亮と横浜流星という二人の俳優が歌舞伎役者を演じ切るまでのドキュメンタリーなのである。3時間の長尺を倦(う)ませぬのは、登場人物と俳優、この4人の人生を観客があたかも追体験するからであろう。

 そればかりでは無い。喜久雄扮(ふん)する「二人道成寺」の白拍子花子が、花道でセリ上がってくる時視界に開けてくる劇場の天井、次の出番を待つ舞台袖、口上でタッツケ姿の大道具さんが幕を開けて行くときの衣(きぬ)擦れの音。舞台の裏表に棲息(せいそく)する興行会社・裏方・役者たちの息遣い。そうした空気感が実に細密に記録されている。私も五十余年歌舞伎を観て来て、学生歌舞伎の舞台に立ったりもしているが、初めて観る光景もいくつかあった。

◇血筋か実力か。歌舞伎の究極のテーマ

 とりわけ強烈な印象を遺(のこ)したのが田中泯(みん)演じる老女形小野川万菊。喜久雄が初めて楽屋を訪れた時、鏡越しに笑わぬ目線で睨(ね)め廻(まわ)す不気味さは忘れ難い。この皺(しわ)くちゃの老人が、化粧して舞台に立てば、「鷺娘(さぎむすめ)」では途端に艶麗な「美しい化け物」に変身する。ここに歌舞伎の「藝(げい)」の秘密がある。男性から虚構の性である「女形」を演じる、つまり喜久雄が後段酔客に罵倒される一皮剝(む)けば「ニセモノ」の人生を生きていくために、代々の歌舞伎の名優たちはどれだけの辛酸をなめて来たことか。

 しかし如何(いか)に鍛錬し磨き抜こうとも、肉体の芸術は、その肉体が滅べば滅ぶ。その魂を受け継ぐのは果たして「血筋」か「実力」か。これは歌舞伎界の究極のテーマである。「国宝」が、江戸歌舞伎の門閥閨閥(けいばつ)主義に比べて、比較的実力本位の上方(関西)歌舞伎を舞台に設定したのも、実子俊介ではなく部屋子喜久雄を登用するという「筋違い」(寺島しのぶ演じる半二郎の妻幸子)に説得力を持たせる工夫であったろう。

 ラスト、喜久雄が万菊と同じ「鷺娘」を舞うことに答えがある。小説では、万菊が踊るのは「隅田川」の我が子の面影を求めて狂える母であり、終局喜久雄が演じるのは「阿古屋」なので、「鷺娘」は李監督と脚本の奥寺佐渡子の創意である。同じ「鷺娘」でも、万菊と喜久雄は血が繫(つな)がっていない赤の他人。かつて万菊は喜久雄の「きれいなお顔」を褒めた返す刀で「いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね」と釘(くぎ)を刺した。つまり見た目の「花」だけではない「実」(地芸)が無ければ、歌舞伎役者はやがて忘れられる。だからこそ喜久雄は「歌舞伎がもっと上手(うま)くなるように」悪魔と取引し、安らぎを捨て、愛人と娘を顧みなかった。功成り名を遂げ、ついに人間国宝となった喜久雄が、わざわざ「鷺娘」を選んだのは、鷺の精が降りしきる雪の中、地獄の呵責(かしゃく)に悶(もだ)える姿に自分を重ねたからだけではない。喜久雄という「器」に、最後に万菊の藝の魂を注(つ)ぎこみたかったからである。

 ここには「血」は無い。「実力」があるのみである。芝居の神に照覧あれと、無心に舞う喜久雄を観ながら、私はいつの間にか万菊の舞姿を重ねた。YouTubeに「国宝」のメイキング映像があるのだが、確認すると万菊と喜久雄の「鷺娘」は、違った型(演出)で踊られている。

◇「国宝」以前と以後で語られる歌舞伎

 歌舞伎役者の八代目坂東三津五郎は、若き日「やりたいことは皆名人がやりつくしてしまった」と嘆いたが、能・宝生流の松本長(ながし)は「名人だって必ず忘れ物があるはずだ。それを探すんだよ」と励ましたという(『芸十夜』)。喜久雄は万菊の藝を受け継ぎつつ、その「忘れ物」を五十年目にしてようやく見つけ、新たな工夫を加えたことになる。

 このように李監督は歌舞伎狂言の名場面をただ配置したのではなくて、それぞれがドラマに深く食い込み、「鷺娘」などそれ自体の作品論にさえなっている。私を映画館に何度も足を運ばせた驚きもそこにあった。

 例えば「曽根崎心中」。近松門左衛門の人形浄瑠璃が原作で歌舞伎では永(なが)らく廃れていたが、戦後宇野信夫が脚色、二代目中村鴈治郎(がんじろう)の徳兵衛・扇雀(せんじゃく)のちの坂田藤十郎のお初は一大ブームを巻き起こした。特に闇夜に紛れ心中に向かう場面では、本来なら徳兵衛が手を引いて花道を入るのが定石だが、興奮した扇雀が入れ替わってそのまま引っ込んだハプニングが「型」となり、積極的な新しいおんなを創った。この引っ込みを李監督は「本物の役者になりたい」俊介の手を引いて劇場を後にする春江に重ねたのが秀逸だった。

 近松が卓抜なのは、お初が縁の下に隠れた徳兵衛の「死ぬる覚悟」を確かめる際、お初の足を取って自らの喉を撫(な)でる徳兵衛との互いの思いを「皮膚感覚」で鮮やかに実感させたことだが、そこに李監督は、壊死(えし)しかけた盟友俊介の右足に別れを告げる喜久雄という恐ろしく残酷で凄艶な絵柄を用意した。続く「天神森」の心中の、俳優の息遣いを聴くような生々しさと美しさは、永く記憶に残ることだろう。

 ある友人が「これから歌舞伎は『国宝』以前・以後で語られるでしょうね」と言ったのには深く肯(うなず)いた。課外授業などでは無く、自主的に「国宝」を観た数百万の観客の胸に、「歌舞伎」への感動が鮮烈に刻まれたのである。それが古典舞踊や近松であることが嬉(うれ)しい。これを機に歌舞伎座に初めて足を向ける観客も多かろう。彼らが新たな発見を胸に家路につくことを、私は疑わない。

◇映画「国宝」

任侠(にんきょう)一家に生まれた、美しい顔を持つ喜久雄。15歳の時に抗争で父を亡くした彼は、才能を見ぬいた上方歌舞伎の名門当主・花井半二郎に引き取られ、歌舞伎の世界へ。半二郎の跡取り息子・俊介と兄弟のように育てられ、ライバルとして高め合い芸に青春を捧(ささ)げるが、多くの出会いと別れが運命の歯車を大きく狂わせていく。

原作:『国宝』吉田修一著(朝日文庫/朝日新聞出版刊)

監督:李相日

出演:吉沢亮、横浜流星、高畑充希、寺島しのぶ、渡辺謙

全国東宝系にて公開中

◇いぬまる・おさむ

演劇評論家。1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。歌舞伎学会副会長、読売演劇大賞選考委員。著書に『市川海老蔵』(岩波現代文庫)、『平成の藝談 歌舞伎の真髄にふれる』(岩波新書)などがある












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