クラウド・ラップやエモ・ラップがまいた種──すなわち、ネット発/情動過多/自己内省的/ジャンル撹拌的な音楽表現──は、2025年の現在いくつかの形に拡大した末、結実しつつある。その代表例が、ハイパーポップやデジコア、あるいはニュー・ジャズといった動きだろう。壊れた声、極端なオートチューン、歪みとうねり、過剰なスピード感や浮遊感。そうした表現の中に、泣きのメロディや激しく裏返った情緒が重ねられる。これらDIY精神と情緒の爆発力は、いまのユース層の音楽においてひとつの前提となった。メジャー/インディ、地域、ジェンダーといったさまざまな境界を越え、多様なコミュニティにおいて応用され、翻訳されている進化の形。たとえば国内に限ったとしても、lilbesh ramko、nyamura、Mom、Siero……と、それぞれがそれぞれの文脈と美学でこの系譜を継ぎ、各々のかたちで発展させている。

 そうした文脈のなかで新たな潮流として注目されるのが、クラウド・ラップ~エモ・ラップ的な情動を、素朴なサウンドへ “逆流” させていくアプローチである。ここではむしろ感情が、爆発という形式ではなく、静かに滲み出るような形として追求されているのが興味深い。アコースティックな音響と結びつき、声の温度や風景の描写としてじわじわと広がっていく情感。言葉にならないものを音と沈黙によって語るアプローチと言ってもよいだろう、その潮流を最前線で試行錯誤しているのは、レーベル〈deadAir〉のアーティストたちだ。ラップ的な自己語りを出発点としながら、ポスト・フォーク的な内省や風景の表現へと向かう方法論は、極めてパーソナルなものである。なかでもクアデカ(Quadeca)の近作は、クラウド・ラップが語りきれなかったことを沈黙と余白によって語ろうとする音楽として、その最前線に位置している。

 ここで、クアデカのアプローチを鮮明にするため、唐突ながら d4vd の名を挙げてみたい。いわゆるゲーム配信/YouTuberからはじまりやがて音楽活動を開始したという点で、いまや世界的ヒットメイカーとなった彼は、クアデカと非常に近い背景を持っているからだ。しかし筆者の見立てでは、両者の内実は相反している。d4vd は他者との関係性から自身を知るタイプで、恋愛や喪失、親密さといった対人関係を通して自己を表現する。一方クアデカは内省の果てに世界と繋がるタイプで、まず自己と向き合った先に、それが風景や景色とともに滲み出ていく。ふたりとも自己表現の新しいかたちを模索してきたアーティストでありながら、誰かとの関係を通じて感情を結晶化させるか、自己を滲ませ風景に同化させることで情緒を伝えるかで、明確な違いが見られる。ゆえに、d4vd の向かった先はポップへの昇華であり、クアデカがたどり着いた先はエクスペリメンタルな試みだった。もっと言うなら、このふたつのアプローチは、2025年のいま次のような極論として対置させることができる──ジャンルをまとめ直すことで情緒を切り取りいかにキャラクターとして届けていくか、ジャンルを壊し編集することで自己を滲ませ空気のように漂わせていくか。前者は TikTok などSNSのバズと相性が良く、後者は Bandcamp 的/Reddit 的な空間と相性が良い。

 もっとも、その両者の違いが明確に表れているのが、アコースティック・サウンドの使い方ではないだろうか。d4vd の音楽におけるアコースティックの導入は、多くの人に共感されるような現代的情緒があり、パーソナルであることと普遍的であることが同居する、TikTok 以後の方法として使われるケースが多い。対してクアデカは、ポスト・クラウド・ラップとポスト・フォークが融合した前衛的な実験として、アコースティックを編集手段のひとつに導入する。その過程で自己は風景化し、しまいには幽霊化していく。実際、『Vanisher, Horizon Scraper』は、複雑な構造やジャンル混合によって景色が何度も変わるような感覚を作り出し、作り手の輪郭は音響のあわいに溶けていく。

 ヒップホップとアコースティック。一見離れているようにも見えるこのふたつの音楽が、2025年のいま、クアデカの手によってつながった。その前段として思い出したいのは、『From Me To You』(2021年)の衝撃だ。トラップ・ビートやオートチューンなどのヒップホップ的プロダクションを基盤とし、語り口もラップ的だったこの作品は、初期における彼の情動の塊である。内向的で不安定な情緒の断片をエフェクトや壊れた構造で表現し、音響そのものを感情の器とした当作について、あのとき私たちは、クラウド・ラップ~エモ・ラップが捻じれた歪な作品として孤立させ捉えるしかなかった。しかし、『I Didn’t Mean To Haunt You』(2022年)や『SCRAPYARD』(2024年)を経て、クアデカ美学は先述した〈deadAir〉の動きとともに、大きなうねりへと肉付いていくことになる。より素朴なサウンドを伴い “情動の逆流” へと舵を切ったその表現は、自己語りと断片的な感情、そこから派生したポスト・クラウド的な破壊的構造を経由して、飾り気のない「情緒の風景化」にたどり着いたのだ。過去作にあった壊れた構造や感情の断片はもはや後景に追いやられ、「語らずして語る」境地へ向かっていった彼の試み。それは、ミニマルなモチーフの反復と緩やかな変化、静寂と轟音、微細と壮大のコントラストによる映像的/風景的なサウンドスケープである。と言うとどこか2000年前後のポスト・ロック勢を彷彿とさせるが、ここで重要なのは、クアデカがアコースティックの音響や叙情を用いてミレニアルのポスト・ロックに向かいながらも、あくまでポスト・インターネット的な感性を保っている点だろう。録音環境も音響処理も明らかにネット世代のものであり、そこではクラウド・ラップ的な情緒とアコースティックの飾らなさが見事に接続されているのだ。

 自己の内面を突き詰めた結果としての風景化、あるいは幽霊化。この事象にあえて説明を与えるとしたら、「あまりに自分の内面を見つめすぎた世代が、いよいよ外の風景と向き合いはじめた」ということなのだろうか。クラウド・ラップが内面の断片をネット空間に撒き散らした音楽だったとすれば、本作はそれを地に落とし、風景のなかに沈める作業を遂行している。それは、自己の内面や表象をアップデートさせるSNS的仕草へのアンチテーゼともとれるかもしれない。感情や考えを言語化し、視覚化し、他者に届ける装置としてのソーシャル・ネットワーク。自己内省の過剰なループは、次第に飽和し、閉塞感を生み出す。どこまで自分を見つめても、深まるどころか浅くなっていく感覚! その結果として、いま一部の若者は、風景や自然といった自分の支配を超えたものに惹かれはじめている。昨今、山間部で開催されているアンビエント~電子音楽系、あるいはポスト・フォーク~インディ系のパーティやミニフェスは、状態/風景を共有するメディウムとして機能している点で、いまの時代背景を象徴しているように見えるのだ。

 だからこそ『Vanisher, Horizon Scraper』は、内省を突き詰めた結果として沈黙と外界に向かう物語の音楽的具現化であり、いまの一部の若者の生理に深く根ざしていると言えよう。「自己の解像度を上げる」のではなく、「自己を溶かす」こと。クアデカの実践であり本作への到達は、SNS的な自己の在り方ではなく、代替するもうひとつの選択肢をひっそりと提示しているように思えてならない。願わくは、バズだけが正義とされるこの時代にどこか居心地の悪さを覚えている若者にとって、本作が静かな避難所のような存在となりますように。次の時代の価値観を生み出す起点は、じつはここにあるのかもしれない。

つやちゃん

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