比較文学の研究者であり、大学教授としての顔を持つ一方で、映画・ドラマ化された『クリーピー』『イアリー 見えない顔』『号泣』など、サイコ・ミステリー作家として独自の地位を築いてきた前川裕さん。そんな前川さんが、昭和100年にあたる2025年に満を持して送り出すのが、新境地とも言える純愛サスペンス『K 時代の恋人』です。

物語の主人公は、昭和の時代に一世を風靡した女性歌手〈K〉のマネージャー。彼が恋に落ちたのは、〈K〉に雰囲気の似た女・キエ。二人の運命を翻弄し、そしてつなぐ運命の意図とは――。

昭和という時代の風景や空気感が濃密に描かれ、記憶に眠る“昭和”が蘇る本作のプロローグ全文を公開します。

プロローグ

 二〇二〇年、六月。
 コロナ騒動がようやく下火になり、東京都の自粛要請も解除されて一週間以上が経った頃、私は日曜日の午後一時過ぎ、靖国通りと明治通りの交差点の手前にある花園神社の遊歩道前を通り過ぎようとしていた。
 初夏の日差しは十分にまぶしかった。そろそろ暑くなって来た頃で、気温は三十度近くになることもある。その日も私の体感では、その程度の気温のように思われた。
 ただ、この時候の頃、ほとんどの通行人がマスクをしている光景はやはり異様だった。中には、マスクをした上に、フェイスシールドを付けて歩いている人もいる。何だか滑稽で、吹き出したくなるような衝動に駆られた。そんなに命が惜しいのか。
 だが、そういう私も、マスクだけはしっかりと着けている。すでに七十三歳の私でさえも、もう少し生きたいという人並みの願望はあった。ただ、ここで死んでもそれほど悔いはないだろうとも感じていた。
 少なくとも、必死でコロナから逃げ回りたいとは思っていなかった。だからこそ、未だに二波、三波の危険が叫ばれている頃、一番危ない年齢層に属する人間であるにも拘わらず、こうしてかなりの人混みの中を歩いているのだ。
 思い返してみれば、それなりに幸福な人生だった。私は三十四歳のときに結婚し、妻との間に一男一女をもうけた。子供たちは順調に育ってくれ、長男は現在、大手食品会社に勤め、十歳になる男の子と健康で明るい妻と暮らしている。
 長男より、二歳年下の長女もすでに芸大出身のヴァイオリニストと結婚していた。時節柄、コンサートは軒並み中止になっており、生活は楽ではないようだが、雨の日もあれば、晴れる日もあるだろう。長女夫婦に子供はいないが、夫婦仲は良いように見える。それが、私にとって、なによりの喜びだった。
 私の妻は三年前に乳がんで他界していた。もちろん、それは私にとって、大きな哀しみであり、心の痛手だった。だが、それまでの私と妻の幸福な人生は、配偶者の死という不幸でさえも、幾分、感動的なドラマに仕立て上げてくれた。
 私は六十歳くらいまで、小説を書く傍ら、芸能プロダクションを経営していた。小説はプロ作家としては、鳴かず飛ばずというところで、飛び抜けたヒット作にも恵まれなかった。
 ただ、出す本のほとんどがそこそこには売れた。出版不況の現在とは違って、大衆小説であれば、どんな小説でもある程度売れる、作家にとって幸福な時代だったのかも知れない。
 しかし、芸能プロダクションのほうは、妻の献身的な協力がなければ、三十年以上もの間、維持することはとうてい不可能だっただろう。だから、妻が死んだとき、決定的な喪失感がもたらす耐えがたい哀しみとともに、妻をようやく永遠の安らぎへ誘いざなえたという奇妙な安堵感を覚えたのも事実だ。
 私は結婚前までは、言葉には表せないほどの辛しん苦く の人生を体験したように思っている。だが、人生の伴侶を得たあとは凪のようにおだやかな人生だった。
 芸能界という華やかであざとい世界にいながら、私は特別な高揚感を覚えることもなかった。人を恨むことも、人から恨まれることもなかった。だから、この時期の記憶は淡い、透明な光に包まれている。
 しかし、結婚以降も、私の人生に屈託がなかったわけではない。それは、様々な事象として現れていたものの、結局は一つの光源から発せられるものであることは間違いなかった。
 私が花園神社の近くを通り過ぎようとするとき、決まって私の胸部に差し込んでくる疼痛を感じた。遠い過去に対する寂寥感が不意に押し寄せ、それは私の心を蝕み、執拗に纏わり付いた。
 私は花園神社の中に一度も入ったことがなかった。いや、それどころか、七年前までは近くに行くことさえなかったのだ。しかし、歌手のKが死んで以来、私は故意に花園神社近辺を徘徊し始めた。中に入る勇気はない。
 ただ毎年、Kの命日に開かれる、ファンの追悼集会は気になった。コロナの今年、それが開かれるかどうかは分からない。しかし、とにかく、Kが多くのファンから愛されていることは嬉しかった。
 できれば、私もその輪の中に入って、Kを偲びたかった。だからこそ、たいした用もないのに、その時期が近づくと花園神社の近くを歩くのだ。
 だが、所詮、私と一般のファンとの立ち位置は違う。その感情は優越感というのとも違い、ノスタルジーのような甘い感傷に近いものだった。
 ただ、Kの衝撃的な死は、その死によって多くの人々がKの姿を自らの心と体に刻み込んだという意味で、Kのマネージャーとしての、私の独占的な立場を奪い取ってしまった。
 その死によって、いわば神の資格を付与されたKは、ファンにとってはむしろ身近な存在になり、Kを内側から見ていた私にとっては近づこうとすると消える、蜃気楼のような存在になってしまったのだ。
 頭上から差し込む初夏の逆光が、雑踏の空中に漂う塵と埃を白く浮き立たせている。私は細い遊歩道から繋がる、花園神社境内の鳥居に遠い視線を投げながら、今日も足早にその場所を通り過ぎた。

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

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