アルバム最後の曲 “Asshole” の冒頭、足音が聞こえた気がした。それはゆっくりと地を踏み締め進む、このバンドのことを思わせる音だった。後ろを振り返ったり足元をみたりしながら、その日その時のスピード、歩き方であゆみを進めることの大切さが、そこには宿っているように思えた。実際それは、グランドピアノのペダルを踏む音だったのだけれど。とにかく自分の耳にはそのように聞こえた。

NOT WONKの5枚目となる『Bout Foreverness』は、12年間3ピースで活動してきたバンドが、二人になったタイミングで作られた。なにかを埋め尽くすようなフィードバック・ノイズと、対照的な静けさ、問いかけるような歌声、それらを内包する多彩なエイトビートが、目の前に現れるかのように鮮明な録音で、一つの作品としてパッケージングされている。パンクを “優しさ” や “真面目さ” と捉え、社会に対して開けたメッセージを作品に反映させてきた彼らにとって、今作はもっとも個人的で、内世界を映したような内容になっている。

 タイトルにあるように、この作品の大きなテーマは「永遠性」。時間を超えて、変わらずに存在し続けること。かなり幅のあるテーマだ。音楽作品においては、どの時代でもその素晴らしさを再発見できる、不朽の名作がもつ性質ともとれる。そんな永遠性もこの作品はかね備えているが、それだけではないみたいだ。

 時間はまっすぐ前に進んでいるのだろうか? 普段生きている中でそんな疑問を抱くシーンはあまりないかもしれないが、音楽がなっている場所でそんな気分に陥ったことがある人は少なくないはずだ。BPM100で曲がスタートして気づかないぐらいのテンポチェンジによって95に変わっていくとき。遅い曲から早い曲にシフトチェンジしたとき。無音になったとき。あるいは楽器やサンプリングがリヴァースするとき。場の空気は少しずつ歪み、時が一定の速度で前に進んでいるとは思えなくなったことがないだろうか。音の前で、時間は伸び縮みしやすい。そんな音が持つ性質に、この作品は挑戦している。歌詞もだけれど、曲の「ループ」の部分にその跡がみえる。

 あらゆる音楽において意識的、無意識的につかわれる「ループ/繰り返し」。特に “Some of you” において顕著にその実験がみられる。リムショットと和音を爪弾くギターからはじまり、ツーステップに移行するとギターと変調させたヴォイスが渦巻き、ノイズのハレーションを起こすこの楽曲。途中で降り注ぐ声のサンプリングは、曲中の別パートから持ってきたものらしい。だからなのか、どの音のディレイか分からなくなるほど深いエフェクトの作用か、終わりと始まりが曖昧になっていく感覚をおぼえる。そうして終盤に刻まれるハイハットは、曲の頭に鳴らされるものと同じテンポで、確かに時が移ろっていたことを示しているのだ。また、今作の聴きどころとして、フィードバック・ノイズの使い方がある。「最終的にマニュエル・ゲッチングとかスティーヴ・ライヒの話をしながら録ってた」というインタヴュー内の発言にもあるように、フィードバック・ノイズは時として、ミニマル・ミュージックやドローンのような反復として、今作のなかで鳴っている。

 「ループ/繰り返し」の他に、「音の大小」もアルバムの中では扱われている。無音室のなかでは自分の体の音がうるさいというが、音が “小さい” ことと音が “大きい” ことの差異は思っているよりもないのではないか。そんな疑問への試行は楽曲内のダイナミズムだけでなく、アルバムの流れにもあらわれている。DCハードコア、スロウ・コアを思わせる “George Ruth” から、ボサノヴァのリズムとつぶさな歌声を取り入れた “Embrace Me” への流れ。“Same Corner” の終盤、テンポが加速しながらサックスとコンガが入り乱れ、そして断ち切られたあと、数秒あいてホワイトノイズのような空間の音からシンバルが表出する “Changed” への切り替えもそうだ。それは一見唐突なようで、シームレスにつながっている、という相反する感覚を呼び起こす。

 音楽の概念的な部分への挑戦が細やかになされた楽曲たちは、聴き手にあらゆる発見を促す。現に自分が、フィードバック・ノイズにラ・モンテ・ヤングを見出したように。音楽を聴くものにとって、こうした発見の連続がさらなる聴取の足掛かりになる。それこそが聴くことの創造性なのではないだろうか。『Bout Foreverness』はそうして、聴き手に届くことで完成していく作品なのだろう。

 ここまで述べてきたように、作品性の高い今作だが、ライヴでは毎度異なるアレンジがなされており、さながら生き物のように変化中だ。それはポスト・プロダクションに入れ込み始めた前作でも同様だったが、当時はライヴのために構築し直すようなありかただったのが、いまは毎度そのときその場に導かれるように変化させているように思う。ベースの本村拓磨が都内で活動しているからそうせざるを得ない、ということももちろんあるだろうけど。“About Foreverness” はアルバムでは部分的だったパブ・ロックのノリが前面に押し出されてコステロさながらだし、“George Ruth” はサッドコアたる湿っけは抑えられカラッと演奏される。単にいまのモードというところもあるだろうけれど、フロアの反応をみて次の曲を急に変えるという10年間で自分が見たことがなかったことも、サラッとやりのける。とにかくその場に身を委ね、どこまであがっていけるかを、セッション的な要素を含めて試みているようだ。

 NOT WONKは、音を鳴らす場所自体にもテーゼを掲げて活動してきた。昨年、今年と開催されるFAHDAYは活動拠点である苫小牧の市民会館とその周辺一帯を使っておこなわれる。表現の交換市と銘打たれたこのビッグ・パーティは、苫小牧の飲食店やクラブ、ライヴハウスとともに立ち上げられ、各地から様々な表現者をよび開催される。そして、このパーティでいうところの交換されうる表現にはきっと、表現者と呼ばれるひと以外の存在も含まれているだろう。その場に居合わせるということの影響力は案外甚大だ。とくに音を聴く場においては、誰かの話し声や咳払い、表情など、動きすべてが物理的にも間接的にも、音に影響していく。そんな相互作用にも、このバンドは立ち向かい、手触りを確かめているように思えてならない。

TUDA

Write A Comment

Pin
Exit mobile version