7月14日に発売された私の新著『零戦搭乗員と私の「戦後80年」』(講談社ビーシー/講談社)は、戦後50年の1995年から戦後80年の今年まで、30年にわたり、零戦搭乗員をはじめ旧軍人、遺族など500名以上のインタビューを重ねてきた軌跡を、「私」を一人称としてまとめたノンフィクションだ。いわば、「私小説」ならぬ「私ノンフィクション」である。
取材がこれで一段落したわけではないけれど、一つのテーマを30年追い続けるということは意外に例のないこと。その間に取材した人のほとんどが鬼籍に入り、これまでの本では紹介しきれなかった人間的な一面を残しておきたかった。
零戦取材のために独立
元零戦搭乗員の取材を始めて2年が経った。
その間も私は、フライデーの専属カメラマンとして企画取材をこなしながら、毎日1通を自らのノルマとして、元搭乗員に手紙やハガキを出し続け、取材にOKがもらえるとカメラ機材をかつぎ、身銭を切ってどこにでも出かけてはインタビューを重ねた。
そして企画書を書き、写真をファイルし、何人分かの短い原稿を書いてみた。そもそものきっかけであった「戦後50年」は過ぎたが、そんなことはもうどうでもよくなっていた。「節目の年」も過ぎてしまえばただの過去だし、取材を重ねるうちにこの人たちのことをもっと知りたい思うようになっていたのだ。
私の専門は写真だから、最初は記者と組んで文章を書いてもらおうと考えたが、それだとどうしても「私が感じた人物像」とはニュアンスが違ってしまう。だから、下手でも文章は自分で書くことにした。
専属カメラマンであることがネックとなって零戦搭乗員の取材との両立が難しくなり、専属を辞しフリーになったのは平成9(1997)年5月のことである。フリーになってもフライデーの仕事は回してもらえる……はずが、やはり、専属でいた頃と比べると仕事量は数分の一にしかならない。週刊誌の仕事は週給で、毎週ギャラが出るから、貯えの習慣などもとよりついていない。私はたちまち生活に窮することになった。零戦搭乗員の取材に時間的制約はなくなったが、同時にそれは、ほかに食っていく手段をつねに探さなければならないことでもあった。
スコラという出版社の伊藤明弘さんから突然、電話があったのは、平成9(1997)年7月16日、午後4時頃のことだ。零戦のムック本を出そうとしているが、知人に相談したところ、いままでとは違う切り口で零戦搭乗員の取材をしている私を紹介されたのだという。
伊藤さんが相談した知人というのは、当時潮書房(現・潮書房光人新社)のミリタリー雑誌「丸」で写真部長をしていた菊池征男氏。私は直接の面識はなかったが、菊池氏の息子でいまは軍事ジャーナリストとして活躍している雅之さんが当時フライデーで私の後輩だったことで、息子から私のことを聞いていたのだという。加えて、「戦後五十年」の頃、たまたま小町定さんの事務所で知り合った、潮書房の単行本部門である光人社の編集者・坂梨誠司氏の後押しもあったようだ。
これまで書籍化のあてなど全くないまま必死で取材を続けてきたが、急に視界が開けたような気がして、私はその日のうちに青山にあったスコラ社へ赴いた。
伊藤氏にファイルを見せる。
「いいですね、これ、うちで出しましょう」
即決だった。
「A4で132ページ、オールカラーでやります。タイトルは世紀末が近いので『零戦の20世紀』とさせてください。重版はしませんが、12000部刷って原稿料は300万円。ただし、うちはこの本を8月中に出したい。原稿は400字詰め換算で450枚。それを8月7日までに仕上げてください」
部数と原稿料はともかく、原稿450枚をほぼ3週間で仕上げろ、というのである。だが、このチャンスを逃せば書籍化がまた遠のいてしまう。やってやろうじゃないか、と私は決意した。こうして私は、3週間で450枚の原稿を手書きで書き上げた。
『零戦の20世紀』の登場人物
『零戦の20世紀』が発売されたのは、平成9年8月31日のことだった。同じ日、海の向こうではイギリス王室のダイアナ元妃が交通事故で亡くなった。
『零戦の20世紀』が発売された日、海の向こうではダイアナ元妃が亡くなった。ちょうど銀座で書店回りをしているとき、4丁目交差点和光前で号外が配られ、人々が殺到していた(撮影/神立尚紀)
さて、『零戦の20世紀』の登場人物は、青木與、生田乃木次(日本初の敵機撃墜)、鈴木實、進藤三郎、羽切松雄、原田要、角田和男、岩井勉、小町定、大原亮治の十名。うち二人が、本の刊行前に亡くなっている。青木與さんと羽切松雄さんだ。
昭和8年の「源田サーカス」。飛行服姿左から青木與、源田實大尉、間瀬平一郎。
「源田サーカス」の一員だった青木與さん(元一空曹)。戦前に海軍を離れたが、伝説の名パイロットだった(撮影/神立尚紀)
青木與さんは、零戦で戦ったわけではないが、現代のブルーインパルスの元祖ともいえる編隊アクロバット飛行チーム「源田サーカス」の一員として活躍した伝説の戦闘機乗りだ。志賀淑雄さんが「源田サーカス」を見てパイロットを志したように、多くの後身に与えた影響は計り知れない。