早見和真著『ラストインタビュー 藤島ジュリー景子との47時間』は、ジャニーズ事務所の二代目社長、藤島ジュリー景子氏と小説家・早見氏との対話を収めた話題の書だ。この本を識者たちはどう読んだか。(全2回記事の2回目)
 第2回目は石戸諭氏によるレビューをお届けする。

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 一般論としてある事件で、一方的な批判に加担せず「批判された側」から何が見えているのかを知るのは大切なことだ。そして、ノンフィクションの評価の一つは外野から何か論じるより先に、当事者へ直接取材をして「声」を取ることで得られる。
 本書も評価基準は満たしていることに疑いの余地はない。なんといっても、旧ジャニーズ事務所の創業者である故ジャニー喜多川の性加害問題で対応にあたった二代目社長・藤島ジュリー景子氏の単独インタビュー記である。
 ジュリー氏は、ジャニーの姉であり芸能界で辣腕を振るった故藤島メリー泰子の一人娘で、自らもTOKIOや嵐を手がけてトップアイドルに育てた当代一流の芸能マネジャーだ。そんな彼女が経営者として知り得た事実をどう語るのか。
 “大スクープ”をものしたのは雑誌ライター経験もある小説家、早見和真だ。彼が聞き手と構成を務めたことで、本書は他のメディアと一線を画す最大の特徴を生み出した。彼らは単に著者と被取材者という関係にない。早見とジュリーは共通の“利益”を抱えていること。ここに特徴が宿る。
 たとえば早見の小説が原作となったドラマ作品で重要な役柄を演じたのは、ジュリーが手塩に掛けて育てた嵐の櫻井翔であり、ジュリーも早見の作品を好んで読んできたと語る。
 本書でも語られているようにアイドルである櫻井が報道キャスターに挑戦すること自体が新しいフィールドを切り開く行為だった。ところが一連の旧ジャニーズ問題報道で、ニュース番組のキャスターでありながら沈黙する時間が多かったという致命的とも言える不都合な弱点は深く批判されることはない。櫻井起用の根幹にかかわる問題を深めたところで互いに損のほうが大きいことは明白だ。
 なんといっても早見は冒頭からジュリーの発言について「検証しない」と明記しており、宣言通り本書の多くは鉤括弧のみで構成された形で二人の会話は進む。
 早見は好きな旧ジャニーズたちの曲を饒舌に語り、彼らのパフォーマンスを高く賞賛する。賞賛の対象はジュリーにも向かう。取材対象への敬意、あるいはインタビューを円滑に進めるための感想をはるかに超えて、彼女の名誉回復を図りたいという意図は本書で徹底されている。
 鉤括弧による会話で構成するノンフィクションと言えば沢木耕太郎が藤圭子を描いた『流星ひとつ』が真っ先に想起されるが、あの一冊に記録されたのはともに若くして一つの成功を収めた書き手と歌手の対等な緊張関係だ。互いに惹かれつつも、彼らの会話は時に激しく火花が散るようにぶつかり合う。新しいノンフィクションの方法を提示するだけでなく、文章としても妥協の余地がない。
 早見とジュリーの関係にそこまで緊張感はない。時に厳しい質問があったとジュリーが語ったり、大した理由もないジュリーの「書かないでほしい」という要請を早見が取りあわずに書きますと告げたりするやりとりはある。一連のやりとりも、彼女はこの程度の質問を厳しいと思いながら経営をやっていくことができたほどに追及の「甘い」取材にしか対応してこなかったということが示唆された、以上の意味は感じなかった。あるいは「書かないでほしい」と言えば、様々な忖度のなかで聞いてもらえたということくらいか。
 現代的に言えば、メリーがジュリー氏にとって毒親であることはよくわかった。加害者として歴史に記録されるジャニーとジュリー氏との間に深い関係がないことも同様だ。娘夫婦による旧事務所の乗っ取りを勝手に恐れたメリーがジュリー氏、ジュリー氏の元夫に探偵をつけて、行動を監視していたことには驚かされた。普通の親子ならばまずしないことをメリーは平然とやってのけ、実の娘であっても容赦なく潰しにかかっている。
 ジュリー氏に「毒親の被害者」としての一面はある。だが、他方で彼女はジャニーとメリーが築き上げた構造の中で、一つの派閥を率いて芸能界で地位を築いた権力者だ。この点こそかなり重要な事実である。
 一連の性加害についてジュリー氏は「文春と旧ジャニーズ事務所との裁判が決着した段階で、文春以外のメディアはもっと報じてほしかった」といった趣旨の発言をして、メディア批判を展開する。いくつかの点は同意するが、あまりに軽い批判というのが私の評価だ。
 メディアは旧ジャニーズ問題で情けない失敗を繰り返したが、人気アイドルのキャスティングを武器に、スキャンダルを報じないよう有形無形の圧力をメディア側にかけていたのは他ならぬメリーを筆頭にした旧ジャニーズ事務所だった。仮に本人にその気がなかったとしても、メディア側にはジュリー氏の背後にメリーらの影はちらつく。彼女はジャニーとメリーの“資産”を文字通り承継しただけでなく、旧ジャニーズ事務所が築いた構造のなかで自らが手がけたタレントたちを売り込む権力をも同時に得て、成功したのだ。
 本書にはジュリー氏の経営、実際の収益の話がほぼない。親が嫌ならば拒否を徹底して継がなければいいのに、事業と同時に権力をも承継し、社長という立場で収入を得ていた。メディアにスキャンダルを報じてほしかったというのならば、自ら社長としての権限でメリーらが築き上げた圧力システムを壊して、先代の罪を独自に調査し、メディアに情報を出せばよかった。だが、そんな形では権力も責任も行使していない。創業者が巧みに築き上げたシステムの上に乗っかり、アイドル事業で収益を得てきた自らの権力に対して葛藤や疑いが感じられない、あるいは薄い責任感でインタビューは進む。
 たとえば嵐のファンには小説家が人間を知るためにインタビューをするのだから検証は必要ないという理屈も通るし、現役アイドルへの思いを語った言葉に感涙必至だろう。ファン以外にもメリーの毒親エピソードは幾許かの同情を呼ぶだろう。だが、それで終わりだ。
 大したファンではない私には、彼女の地位の社会的意義を考えれば、ジャーナリズムの規律に基づく検証こそが求められるという思いが本書を読んで強くなった。最大の疑問は社会の役に立ちたいと語るジュリー氏が「ラスト」を宣言したことにある。堂々と他のメディアから検証前提のインタビューに応じることは「社会の役に立つ」。だが、彼女は自らの手でその可能性を放棄した。
 そしてラストを宣言することで結果的に、批判は言いたい人には言わせておけばいい、ファンは喜ぶのだから批判は平然と無視してコミュニケーションに応じないという構造を生み出した。それはいかにもメリー的であり、旧ジャニーズ事務所的な責任の取り方だと記すのは言葉が過ぎるだろうか?

新潮社

2025年7月19日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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