名著には、印象的な一節がある。

 そんな一節をテーマにあわせて書評家が紹介する『週刊新潮』の名物連載、「読書会の付箋(ふせん)」。
 
 今回のテーマは「百年」です。選ばれた名著は…?

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「百年河清を俟つ」という言葉があります。このように「百年」は多くの場合、具体的な数字ではなく、長い長い時を表します。

 夏目漱石の『夢十夜』第一夜の女は、逝く間際に思い切った声でいいます。〈百年待っていて下さい〉と。〈自分〉は、日が昇り沈むのを数限りなく数えます。気がつくと〈自分〉の方に青い茎が伸び、見る間に頂の蕾が開きました。

 真白な百合が鼻の先で骨に徹える程匂った。

 植物学者の塚谷裕一は『漱石の白くない白百合』の中で、漱石の『それから』に登場する百合は、その描写から、映画にも使われた、香の弱い鉄砲百合ではない、山百合である―と断じ、話題になりました。

 日常生活の中に描かれる百合ですから、そういえるのです。しかし、塚谷は同時に『夢十夜』については違う―とも語っています。

〈『夢十夜』の「真白な百合」は有名であるが、これは最初に述べたように象徴であるから、何であるか詮索する必要はない。強いて言えば、「真白」で「自分の胸のあたり」で「茎の頂に」「細長い」蕾をつけることから、これこそ鉄砲百合であろう〉

 我々はこうして、非現実の白百合の香を、想像の中に感じつつ、最後の一文を読めるのです。

「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気が付いた。

新潮社 週刊新潮

2025年7月10日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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