累計240万部超「八咫烏シリーズ」の著者・阿部智里さんによるファンタジー長編『皇后の碧』(新潮社)が刊行されました。
少女ナオミは、風の精霊を統べる皇帝シリウスから「私の寵姫の座を狙ってみないか?」と突然誘われます。皇帝の後宮には皇后と愛妾がすでにおり、彼の胸には皇后の瞳の色に似ている緑の宝石が連なる首飾り「皇后の碧」が常に輝いていました。訝りつつ己が選ばれた理由を探るうち、ナオミは後宮が大きな秘密を抱えていることに気づいていきますが……。
謎が謎を呼ぶ本作の序章部分を、試し読みとして公開します。
序章
北方の冬は、まるで世界が氷漬けになったかのようになる。
幼い頃、ナオミは冬の間は家から出ることを許されなかった。
「お前はお母さんに似て体が軽いから、扉を開けた途端に吹き飛ばされてしまうよ。外に出る時は、必ずお父さんと一緒だ。分かったね」
土の精霊らしく、巌のような肉体を持った父は、冗談交じりにナオミに言って聞かせた。母は「流石に飛ばされはしませんよ」と呆れた顔をしていたが、ナオミは父の教えをちゃんと守った。
父が、本気で自分を心配しているとよく分かっていたからだ。
だからこそ、手足をめいっぱい伸ばして駆け回れる春は、ナオミにとって待ち遠しくてたまらないものだった。
長く大地を凍らせていた雪が融けると同時に、眠りについていた花々は一斉に目を覚ます。
出仕先と家の間を雪を掻き分けるようにして行き来していた父は、扉を開け、光と花で満たされた庭を見る度に「良い季節になった」と呟いたのだった。
よく手をかけて育てられた花からは、時折、信じられないほど優美な小妖精が生まれることがある。
その日、大きな喇叭水仙から飛び出してきた小妖精は、暁の雲のようにきらめいていた。
無心になって追いかけているうちに、ナオミは湖を挟んだ家の対岸までやって来てしまっていた。
澄んだ青空のもと、木々の先の芽は灰緑に輝き、冷たい空気の中には幾万もの花の香りがあった。湖の向こうの我が家から、母が外へ出て来るのが見えた。
──今日はお城に香草を持っていくつもりだと言っていたから、手伝いに戻ろうか。
そう思って踵を返そうとした瞬間、全く何の前触れもなく、頭上に黒い影が差した。
分厚い雲が太陽を遮ったのかと思う間もあればこそ、耳が痛くなるような咆哮と共に、熱気と大風が押し寄せてきたのだった。
何が起こったかまるで分からなかった。悲鳴を上げる暇すらない。
地面に転がり、次に顔を起こした時、ナオミの全てであった我が家は、母のいたはずの庭もろとも火柱の中に消えていた。
呆然と見上げた青い空には、とてつもなく巨大な何かがいた。
巨体を覆う鱗は、熾火のような光を放っている。飛行の邪魔にならぬよう、腹に添えるように折りたたまれた脚には、いかにも恐ろしげな鉤爪があった。蝙蝠の翼のようでいて、それよりずっと力強い翼が、黒雲の中の稲妻のような血管を透かしている。
こんな時にもかかわらず、ナオミはそのおぞましさに見惚れてしまった。
顔こそ確認出来なかったが、初めて見たそれが何かを、ナオミは本能的に悟っていた。
火竜(ドラゴン)だ。
上空を覆い尽くすほど大きな火竜が、父がいるはずの城のほうへとまっすぐに飛んでいく。なすすべもなく見送るしかなかったナオミの背筋を、ああ、父とはきっともう会えないだろうという、冷たい予感だけが走った。
いくらもしないうちに、笑い声のような火竜の唸り声と共に、精霊達の絶叫が聞こえ始めた。若芽や花々の匂いを掻き消すような、燃えてはいけない何かが燃える悪臭と共に、立ち尽くすナオミのもとに逃げ惑う精霊達が押し寄せて来たのだ。
怯え、泣き喚き、支え合いながら走って行く者もいれば、ナオミを突き飛ばすように逃げていく者もいた。「早くお逃げ」と、すれ違いざまに幼いナオミに声をかけてくれる者もいたし、大火傷を負って、自ら湖の中に飛び込む者もいた。
湖の中に飛び込んだ彼らは、そのまま二度と陸に上がっては来なかった。
火はあっけなく燃え広がり、ナオミも、怯えた精霊達に押し流されるようにして、生まれ育った湖の畔を去らざるを得なかったのだった。
焼け出されたナオミ達が這う這うの体で辿り着いたのは、はるか昔に放棄された、古い城跡であった。
荒れ果て、崩れかけた岩壁の中に多くの精霊が身を寄せ合ったものの、全員が途方に暮れていた。
土の精は、肉の体を尊ぶものだ。
その体を維持するために、日頃から食物を己の糧とする者が多い。食料もなく、傷を癒すための薬もまじないも使えないままでは、すぐに限界が訪れるのは目に見えていた。実際、いくらもしないうちに、城跡は腐りゆく肉の臭いでいっぱいになってしまった。
力尽き、苔の生えた岩壁に背中を預けたナオミの横にも、同じような状態の精霊達がずらりと並んで座り込んでいた。
火傷を負い、動けなくなった母親の腕の中で泣く赤ん坊の声だけが響いている。
自分でも不思議なことに、その時のナオミには、母が焼き殺された悲しみもなければ、父と生き別れてしまったことへの焦燥感もなかった。
心を動かすだけの力が残っていなかっただけかもしれない。
ぼんやりと目を開いてはいたものの、頭の働きは鈍くなっていたのだろう。周囲がざわめいているのにも、すぐには気付くことが出来なかった。
「そこの君」
それはこの場に全く似つかわしくない、あまりに優しい声であった。
「こちらをご覧なさい」
再度、今度は勘違いのしようがないほど近くで声をかけられ、ナオミは目を瞬いた。
かすむ視界の中心にうつる影が、ゆっくりと、ナオミのすぐ前に膝をつく。
ようやくはっきりと焦点を結んだ姿に、ナオミは小さく息を呑んでしまった。
それは、とても美しい精霊だった。
神々を模した彫刻を思わせる白皙は、﨟たけた女のよう。なめらかな素肌には、こめかみから頭部にかけて、青から緑へと光沢の変わる羽毛と冠羽が生えている。その背中には豪奢な翼があり、尾羽はあまりに長く、地面に引きずりそうなほどである。
翼ある者──風の精霊だ。
しかも、相当に高位な精霊であるに違いない。
「君は、とても美しい瞳をしているね」
まっすぐに目と目が合う。
「まるで、萌え出たばかりの若葉のようだ」
彼の精霊はきらびやかに微笑んだ。
だが、ナオミは笑い返すことは出来なかった。恥じらったのではない。そうするだけの体力すらなかったのだ。
それに気付いた彼は、痛ましそうに眉根を寄せた。
「おいで」
答えも待たず、彼は汚れたナオミの体をそっと抱き上げる。
「ここは、君のような子がいるべきところじゃない」
彼の胸元からは、優しくて甘い、花のような香りがした。
──それが、忘れたくとも忘れられない、ナオミと孔雀王ノアとの出会いであった。
