反復性が強いリズムの中から“音を抜く”ことが与えた衝撃
ジャマイカにおけるダブの始まりはダブプレート製作時の事故に過ぎなかったのかもしれない。そこにキング・タビーが関わっていたかどうかも定かではない。だが、ボーカル・トラックがミュートされたダブプレートが人々を熱狂させるという事件が起こったときに、サウンド・システム・オーナーであり、レコーディング・エンジニアでもあったキング・タビーは、その先に開けた未来の音楽の可能性をつかみ取ったのだろう。
ダブ・ミックスにはさまざまな技法があるが、キング・タビーのそれの根幹をなすのはトラック・ミュートだった。リー・ペリーのダブがエフェクトや効果音に多くを負っていたのとは対照的だ。語源的にはダブ(dub)はオーバー・ダビングのダブであり、もともとは映画業界で映像に音声や効果音を足すことを指す言葉だった。ところが、音を足したり、加工したりすることよりも、音を抜くことに創造的な価値を見出したのがキング・タビーだった。
これは彼が純粋な電気技術者、逆から言えば、非音楽家的な存在であったこととも関係していそうだ。タビーは歌わないし、演奏もしない。作曲も編曲もしない。ただ、電気的な操作で、音を抜いたのだ。
しかし、“音を抜く”とはどういうことだろうか? “音を抜く”ことができるのは、そこに音が在ったからである。先に録音されていた音があり、その音が鳴らされることが予期されていたから、音を抜くことに意味が生まれたのだ。例えば、歩き慣れた通りを歩いていたら、ある一区画が更地になっていた。あるはずの建物がない。そういうときのショックに近いものを“音を抜く”という行為は生み出すと言ってもいいかもしれない。
ジャマイカのダブの面白さは、そういう実験的、前衛的とも言っていいアート・フォームが、サウンド・システムという場所で、民衆的なダンスの享楽とも結びついて、生み出されたことにある。その背景には、ジャマイカの音楽文化はライブよりもレコードに重点が置かれていたこと、反復性の強いリズムが好まれたことがあった。反復性の強いリズム・トラックがレコーディングされていたから、トラック・ミュートによるショックがダンサーたちをさらに興奮させるという現象が生まれたのだ。
JAGATARA『それから』セッションでダブ・スタイルをゴドウィン・ロギーに学ぶ
僕は1991年に出版した最初の単行本『音楽の未来に蘇るもの〜ポップ・ミュージックの進化と深化』の中でも、このことについて書いている。この本の最後の章はキング・タビーに捧げられ、ダブという手法の持つ意味を考察したものになっていた。30年以上が過ぎても、考えていることはほとんど変わっていないので、以下、少し引用してみよう。
「ダブというのは基本的に引き算の発想から始まっている。素材はすでにテープに録音されている。エンジニアはそこに新しい楽器を加えたりすることはできない。しかし、新しい楽器が加わる瞬間よりも、今まで反復されていた楽器がフッと抜ける瞬間の方が、人間はショックを受けるのだ。音を消すのも表現でありうる。キング・タビーはミュージシャンではなかったからこそ、そういう発想ができたのかもしれない」
『ポップミュージックのゆくえ〜音楽の未来に蘇るもの』
高橋健太郎
(2010年/アルテスパブリッシング)
『音楽の未来に蘇るもの〜ポップ・ミュージックの進化と深化』(1991年/太田出版)の増補新版。ポストパンク、ダブ、ワールド・ミュージック、ヒップホップ、ハウスといった音楽ジャンルをメディアの進化やテクノロジーから読み解く
当時はまだダブの研究書など世に出ていなかったし、インターネットもない時代だから、ジャマイカの音楽史、とりわけスタジオやエンジニアについての情報は断片的にしか集めることができなかった。そういう中で、僕がこんなことを書けたのは、直接的なインスパイアがあったからだ。その辺りの話も少し書いておこう。
1989年から1990年にかけて、僕はイギリスのレコーディング・エンジニア、ゴドウィン・ロギーと仕事する機会を得た。日本のJAGATARAのレコーディングだった。ゴドウィン・ロギーは1956年生まれで、僕と同い年だった。
ゴドウィンはカリブ海のグレナダで生まれ、幼少時に両親とともにイギリスに移り、サウス・ロンドンのカリビアン・コミュニティで育っている。10代の頃からジャー・シャカのサウンド・システムで雑用係のようなことをしていたらしい。ジャー・シャカは1960年代終わりから活動していたロンドンのサウンド・システム・オーナーで、1980年代にはレーベル・プロデューサーとなり、UKルーツと呼ばれるイギリス独自のレゲエ・ダブ文化を主導した。その影響力は後のダブステップを始めとするUKクラブ・ミュージックにも及んでいる。
『サウンド&レコーディング・マガジン』1990年9月号より、筆者によるゴドウィン・ロギーのインタビュー。「僕は存在感の確かなサウンドを作りたい」とリズム・セクションの重要性を語る
ジャー・シャカ(1948?〜2023年)。8歳頃にジャマイカから渡英し、1960年代末からイギリス国内でサウンド・システムをスタート。晩年に至るまでルーツ・レゲエに根ざしたスタイルを貫徹した
Photo:Wwwhatsup CC BY 4.0
大学卒業後、アイランド・レコードに入社したゴドウィンはスティール・パルス、アスワドといった同世代のブリティッシュ・レゲエ・バンドのエンジニアを務めるようになり、1980年代にはレゲエ界のトップ・エンジニアの仲間入りをした。1981年にはグレゴリー・アイザックスのヒット・アルバム『Night Nurse』を手掛けている。1982年にはアイランドが世界市場に売り出したナイジェリアのキング・サニー・アデのアルバム『Juju Music』をフランス人プロデューサーのマルタン・メソニエとともに制作し、以後、ワールド・ミュージックの興隆にも大きな役割を果たした。アルジェリアのライ・ミュージックを世界に知らしめた1988年のシェブ・ハレドのアルバム『Kutché』もマルタン・メソニエとゴドウィン・ロギーのコンビの仕事だ。マルタンも1956年生まれで、僕はこの時期にパリで知り合い、大きな影響を受けた。現在も親交がある。
『Night Nurse』
Gregory Isaacs
(1982年/Island)
表題曲は自身最大のヒット曲となり、後にシンプリー・レッドがカバー。ルーツ・ラディックスの面々がタイトにバックを支える中、クール&ソフトにアイザックスの歌声が響く。ミックスはバハマのコンパス・ポイントで行われた
『Juju Music』
King Sunny Adé And His African Beats
(1982年/Island)
ナイジェリア・ヨルバ族の王家をルーツに持つシンガーで、国内では既に人気を得ていたところメソニエに見出され本作でアイランドから世界デビュー。ヨルバ族の音楽であるジュジュにシンセやリズム・マシンを融合
『Kutché』 Cheb Khaled & Safy Boutella
(1988年/Zone Music)
シェブ・ハレドは“ライの王”と呼ばれたアルジェリア伝統音楽の歌手。アレンジャーに同国出身でバークリー卒のサーフィ・ブテラを迎え、LINN Linn 9000とダラブッカなどの民族楽器が入り交じる仕上がり
マルタン・メソニエ。1970年代に、フランス国内でジャズ/ロック・ミュージシャンのコンサート招聘(しょうへい)やプロモートを開始。1980年代からフェラ・クティをはじめキング・サニー・アデ、パパ・ウェンバなどのプロデュース/マネージメントを手掛ける。その後はドキュメンタリー映像作品やサウンドトラック制作、DJなどさまざまな表現領域で活躍
Photo:Martin Meissonnier
CC BY-SA 4.0
ゴドウィンは1989年にJAGATARAのアルバム『それから』のミックスを手掛けた。同年、マリ出身のサリフ・ケイタの来日コンサートのオープニング・アクトを務めたことから、サリフのバンド・メンバーだったブリス・ワッシー(ds)らとJAGATARAのOTO(g)らの親交が始まり、パリで新しいレコーディング・プロジェクトをという話が急展開した。僕はOTOに誘われて、そこに関わることになり、同年秋にパリに赴いた。スタジオはパリ郊外のスタジオ・ダブー。エンジニアはゴドウィン・ロギーだった。
『それから』
JAGATARA
(1989年/BMGビクター)
江戸アケミ(vo)を中心とするファンク・ロックバンドのメジャー・デビュー作。筆者は同時期に制作に関わっていた。現在はソニー・ミュージックよりジャケットを変更しシングル曲も加えて再発
ゴドウィンとはスタジオ・ダブーで初めて会ったのだが、話してみると、僕は彼のライブ・エンジニアとしての仕事に触れてきたことが分かった。1982年に初めてジャマイカを訪れる直前に、ニューヨークでブラック・ウフルのコンサートを観たことがある。ブラック・ウフルは当時、アイランド・レコードがプッシュしていたレゲエのコーラス・グループで、リズム・セクションはスライ・ダンバー(ds)とロビー・シェイクスピア(b)のコンビだった。ゴドウィンはそのブラック・ウフルのツアーに同行していたのだ。翌1983年には僕はニューヨークでキング・サニー・アデを観ているが、そのライブ・エンジニアもゴドウィンだった。
『Red』
Black Uhuru
(1981年/Island)
1970年代から活動していたレゲエ・コーラス・グループ。本作はアイランドと契約後2作目のアルバムで、長年彼らを支えてきたスライ&ロビーによるタイトなリズムが特長。全英アルバム・チャート28位を記録した
スタジオ・ダブーでのセッションは夕刻から始まるナイト・セッションで、何夜も続いた。SSLコンソールの前に座ったゴドウィンの仕事ぶりを僕はずっと見ていた。当時の僕はまだレコーディングの機材やその使い方について、大して知識は持っていなかった。将来、自分がプライベート・スタジオを持って、レコーディング・エンジニアの仕事もするなど、夢にも思っていなかった。だが、ゴドウィンがコンソールを操作するさまを見守るのは、その動きを追っているだけでも、強烈な刺激になった。
録りの段階から、ゴドウィンの一挙一動はダブ・エンジニアのそれだった。楽器が少ない時点でもサウンドは格好良く、チェックのためのチャンネルのオン/オフなども音楽的なグルーブの中にある。ゴドウィンはパーカッショニストのようなリズム感でコンソールを操作し、鳴っている音は既にダブ作品のようになっている。仮ミックスを始めると、どんどんモニターする音が小さくなっていくのも面白かった。ガンジャをくゆらせながらミキシングに没入するときには、大音響は要らないのだ。
“これがダブ・スタイルだ”とゴドウィンは教えてくれた。そして、自分に最大の影響を与えたのはキング・タビーとリー・ペリーだと言っていた。その言葉を聞いたことは大きかった。それが契機になって、僕は気づいた。ダブはレゲエのサブジャンルにとどまるものではなく、マルチトラックで制作されるあらゆる音楽に浸透していくスタイルなのだということを。なぜかといえば、ダブは人の記憶に作用する音楽手法だからだ、という直感的な理解が生まれたのもそのときだった。
そこから僕のその後の人生があり、今、本誌にこういう文章を書いていると言ってもいい。ただ、その言葉を聞いた時点では、僕はその年の2月にキング・タビーが死亡していたことは把握していなかった。
バニー・リーが王冠を被せた“キング”によるリズム・トラックだけのダブ・アルバム
キング・タビーの話に戻ろう。タビーがトラック・ミュートを駆使したダブプレートを制作し、その上でU・ロイがトースティングするというスタイルが出来上がると、タビーのサウンド・システム、ホームタウン・ハイファイは大人気を博した。ほかのサウンド・システム・オーナーはダブプレートを作ってもらうためにタビーのスタジオに列を成した。かくして、タビーはジャマイカにおけるダブの中心人物となった。しかし、広く流通するレコード作品の中でキング・タビーの名前がクローズアップされるには少し時間がかかった。その間に1973年には何人かのプロデューサー/エンジニアがダブ・アルバムを世に出していた。
技術屋の親父然としたタビーに王冠を被せ、キング・タビーとしてレコード作品の主役にすることを仕掛けたのは、友人のバニー・リーだった。ティポー・エレガントも『キング・タビー ダブの創始者、そしてレゲエの中心にいた男』の中で、キング・タビー伝説の設計者はバニー・リーだとしている。タビーの初期の代表作とされる2枚のアルバムも、リーがプロデュースしたものだ。1枚は『The Roots Of Dub』、もう1枚は『Dub From The Roots』というタイトルで、どちらも1973年から1974年にかけてのタビーのダブ・ミックスを集めている。
『The Roots Of Dub』
King Tubby
(1975年/Total Sounds)
タビーによるインストゥルメンタル・ミックスをコンパイル。コーネル・キャンベルやジョニー・クラークらバニー・リーが手掛けた楽曲のトラックを使用し、原曲の雰囲気をたたえながらタイトなダブへと変容を見せる
『Dub From The Roots』
King Tubby
(1975年/Total Sounds)
『The Roots Of Dub』と同コンセプトだが、こちらの方がエフェクティブかつ大胆な仕上がり。“フライング・シンバル”の強調具合もより強力になっている
『The Roots Of Dub』や『Dub From The Roots』におけるタビーのダブは、基本的にインストゥルメンタルだ。オリジナル・バージョンの歌が消しきれず、ゴーストのように聴こえる瞬間はあるが、ダブ・ミックスされたリズム・トラックだけでアルバムを構成し、それをエンジニアの名義で売り出す。そういう商品である。2枚のアルバムを比較すると、『Dub From The Roots』の方が楽器によるメロディックな要素が多く残されている。『The Roots Of Dub』はドラムとベース以外の楽器はエフェクト処理の素材として鳴らされるくらいの曲が多い。タビーのダブ・アルバムの中でも最も荒々しいダブが聴ける一作でもある。
むき出しのリズム・トラックだけでも聴けるようなダブをタビーが生み出したことで、レゲエ・シーンではそれまで以上にドラムとベースへの注目が集まるようにもなった。同時期にジャマイカで流行した“フライング・シンバル”というスタイルもドラムに焦点を当てたものだ。フライング・シンバルの流行の始まりは1974年にバニー・リーが制作したジョニー・クラーク「None Shall Escape The Judgement」だとされる。ドラマーはアグロヴェイターズのカールトン・サンタ・デイヴィスだ。
『Sings In Fine Style』
Johhny Clarke
(1975年/Clocktower)
1955年生まれのクラークは1973年にデビュー。翌年、バニー・リーがプロデュースした「None Shall Escape The Judgement」がヒットを放つ。このアルバムは同曲を含めた米デビュー盤とも言えるもの
カールトン・サンタ・デイヴィス(1953年〜)。ソウル・シンジケートやアグロヴェイターズなどでの活動後、1980年代にはボブ・マーリー&ウェイラーズやピーター・トッシュ・バンドにも参加。アイザック・ヘイズ、カルロス・サンタナ、チャカ・カーン、P!NKなどのレコーディングにも参加している
https://www.facebook.com/carlton.s.davis/
裏打ちのオープン・ハイハットが鳴らし続けられる“フライング・シンバル”は、デイヴィスによればフィラデルフィア・ソウルのセッション・ドラマー、アール・ヤングのスタイルをレゲエに取り入れたもので、自分が創始者というわけではない。スライ・ダンバーもやっていたと語っている。スライは“あれはアール・ヤングの真似ではない。1968年にデューク・リードが制作したジョヤ・ランディス「Moonlight Lover」でも使われていた、スカタライツの時代からあったパターンだ”としている。
バニー・リーが流行させた“フライング・シンバル”はキング・タビーの『Dub From The Roots』や『The Roots Of Dub』の中にもたくさん聴こえる。音数少ないリズム・トラックの中から、タビーらしいフィルター処理されたオープン・ハイハットが浮かび上がってくる。
“キング・タビー”ブランドを支えた弟子のエンジニアたち
この2枚のアルバムは全曲がタビー自身によるダブ・ミックスだとされている。皮肉なことに、バニー・リーの戦略が功を奏し、キング・タビーというダブ・マスターの名前が高まっていく中で、タビー自身はミキシング・ボードに触らなくなっていった。1975年頃にはタビーのスタジオではほとんどのミックスは、弟子のフィリップ・スマートに任されていたという。
フィリップ・スマートは1976年にニューヨークに移住して、ロング・アイランドにHC&Fスタジオを建設。米国のレゲエ・シーンの活性化に大きな役割を果たした。代わって、タビーのスタジオに加わったのがプリンス・ジャミーだ。本名をロイド・ウッドロウ・ジェームスというジャミーはウォーターハウス地区で育った電気技術者で、1960年代からタビーとは親しい友人関係にあった。1970年代には一時、カナダに移住していたが、1976年にジャマイカに戻って、タビーのスタジオで働きはじめた。ジャミーは同時に自身のジャミーズ・レーベルもスタートさせた。そのジャミーズから1977年にデビューしたのが、先述のブラック・ウフルだった。
『At King Tubby’s』
Phillip Smart Meets The Aggrovators
(2015年/Jamaican Recordings)
1970年代にフィリップ・スマートがタビーズ・スタジオで手掛けたダブ・ミックスをコンパイルしたアルバム
プリンス・ジャミーは1980年頃までタビーのスタジオで働いた。その後はオーヴァートン・ブラウンがそれを引き継いだ。ブラウンも電気技師系のエンジニアで、コクソンのスタジオでも働いた経験を持っていたが、タビーに移った後、サイエンティストという名のダブ・エンジニアとして知られるようになった。現在までにキング・タビーの名前でリリースされたダブ・アルバムは何十枚もあるが、キング・タビーはブランド・ネームのようなものであり、タビー本人がミックスしているとは限らない。実は弟子たちの仕事の方が多いというのは、現在では定説である。
『Introducing Scientist: The Best Dub Album In The World』
Scientist
(1980年/JB Music)
サイエンティストのデビュー・アルバム。スライ&ロビーやルーツ・ラディックスの演奏を元に、タビーのマナーに則りつつ、複数のリズムが入り交じるような独自のアイディアを展開
高橋健太郎
音楽評論家として1970年代から健筆を奮う。著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ』、小説『ヘッドフォン・ガール』(アルテスパブリッシング)、『スタジオの音が聴こえる』(DU BOOKS)。インディーズ・レーベルMEMORY LAB主宰として、プロデュース/エンジニアリングなども手掛けている。音楽配信サイトOTOTOY創設メンバー。X(旧Twitter)は@kentarotakahash
Photo:Takashi Yashima
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