明治時代にも和本は出版されていた

蔦屋重三郎の死から70年あまり後、徳川幕府は倒れ、江戸は明治と名を変えます。和本というと江戸時代のものというイメージがありますが、実は製造数自体は明治初年~20年代頃が最大だったと考えられています。「ご一新」と言われても、庶民はいきなり生活を変えられません。鉛筆も洋紙も高級品で、世間に行き渡るには20年以上の歳月が必要だったのです。

それでも文明開化が進み、活版印刷が普及して明治時代の後期になると、和本製造は急速に姿を消していきます。その背景には、交通事情の劇的な改善によって、東京の出版社が製造した本が数日のうちに全国各地に届けられるようになったことがありました。大部数時代の幕開けです。

明治維新から10年後の1878年、講談社創業者の野間清治が誕生。そして明治42(1909)年に「大日本雄辯会」を立ち上げた彼は、2年後、2つめの雑誌として『講談倶楽部』を創刊し、その雑誌を発行するためだけに大日本雄辯会とは別に「講談社」という会社を作ったのです。

『講談倶楽部』に掲載されたのは、講談・落語と浪花節の速記です。

『講談倶楽部』創刊号に掲載された、講談師・松林伯知(写真)の講談速記原稿 Photo/ 講談社資料センター

講談もまた江戸の庶民に大いに受け入れられた娯楽でした。蔦屋重三郎が長生きしていたら、講談本の誕生に関わっていたかもしれません。

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