地下鉄サリン事件から30年 科捜研でサリン検出の研究員「想像していなかった」

死者14人・重軽傷者6000人以上の被害を出した「地下鉄サリン事件」から2025年3月20日で30年がたちました。地下鉄サリン事件はオウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚(2018年に死刑執行)の指示の下、教団の幹部らが東京都心の地下鉄車内5カ所で一斉に猛毒のサリンをまいた事件です。当時、警視庁のいわゆる「科捜研」に所属していて、事件現場に残された遺留品からサリンを検出した研究員の男性に話を聞くことができました。

埼玉医科大学で講師を務める大下敏隆さんは30年前、事件に関する薬物の分析などを行う警視庁の科学捜査研究所(科捜研)の研究員でした。サリン事件が起きた当日、現場でまかれた液体の成分を分析するよう連絡を受けましたが、最初は断片的な情報しかなく、現場の状況が分からないまま、とにかく試料が届くのを待ったといいます。

大下さんは当時を振り返り「『地下鉄の中からサンプリングした試料を持ち込むから、大下、分析する準備をしておけ』と上司に言われて、とりあえず分析装置を稼働させ、サンプルが到着するのを待った」「その段階ではまだそれほど困ったと思わず、来たらとりあえず装置にかけて。やれることはそれだけだなと、まだゆったりした気持ちでサンプルの到着を待っていた」といいます。

そんな大下さんの元に届いたのは、地下鉄の車両内でまかれた液体を拭き取った「モップ」でした。ビニール袋に何重にも包まれた状態でしたが、当時、袋を開ける際に防護服を着けるルールもなかったといいます。大下さんは「部屋の中では広げられないので屋上に持って行って、空気開放の中で開けるしかないかなと判断して屋上に上がった」と当時の状況を証言しました。開けた当時、異臭を感じたり“まずいぞ”と感じるような第一印象はあったかと記者が尋ねると「それを感じる余裕はなかった。ただ、さすがにこわごわビニール袋を開けたが、できることは、自分の方にガスが向かないよう、風向きを気にすることぐらいだった」と語りました。

大下さんはモップに付着した液体を慎重に抽出し、分析器にかけ、登録されたデータと照らし合わせました。大下さんは記者に「ここに、当時分析した分析装置から出力された結果がある」と示した上で「コンピューターが『一番類似している』と判断したデータの物質は一体何なのかと見てみると『サリン』という名称が表示されていた。そこで、サリンだという現実を突き付けられた。実際に今、地下鉄で何が起きているのかということを、その瞬間に理解して驚いた」と語りました。

14人が死亡し、6000人以上が重軽傷を負った未曽有の被害を生んだ液体はサリンでした。それは、薬物の分析を専門とする大下さんでもまさに想定外の事態でした。

当時の認識として「(サリンは)化学兵器として開発された毒ガス、かなり危険なものに違いないだろう、ぐらいの知識しかなかった」「想像していなかったので本当にびっくりしたとしかいいようがない。まだ、事の重大さがそこまで認識できていなかった」と証言しました。

あの事件から30年がたった今、大下さんは「万が一に備える意識が薄れている」と警鐘を鳴らします。大下さんは「今、感じていることは、どんどん昔の話になってきてしまっている」といいます。そして「次に絶対起きないという保障はない。それに対して、例えば30年、50年、100年に1度しか起きないような化学テロに対して、どれだけ普段、備えをしておけるのかというのは気になるところ。発生直後は『分析施設を整える』という動きはあったようだが、その後、発生がないので、だんだんと意識が薄れていったようなことは感じる」と危機感を示しました。

23 Comments

  1. 元自衛官(陸将補)の「池田整治氏」によると、松本サリン事件直後?の時点での 事件現場の土壌のサンプルと、それ以前から異臭事案があった上九一色村の土壌を、自衛隊の化学科部隊でサンプリングしたら、ピッタリと合ったそうです。

    そして 陸幕化学室 から 警察庁 に情報提供したそうですが、当然すぐに強制捜査が入ってもおかしくないのに、警察の上層部?なんかから「待った」が掛かって、その時点で強制捜査が出来なかったそうです。


    「地下鉄サリン事件」「オウム真理教のサティアンの強制捜査」に 自衛官の立場として携わった「福山隆氏(元自衛隊陸将)」と「池田整治氏(元自衛隊陸将補)」との対談のものは、当事者として貴重なものだと思います。

  2. サリンを検出出来たのに、上司にストップ掛けられて、悔しかったでしょうね。

  3. 科捜研の上司 警察トップのせいで2次被害が広がったのは言うまでもない また松本でもサリンが使われてたのにその経験が生かされてなかったのも問題 当時 松本サリンの時 簡単にバケツでも作れるとか抜かしてた専門家がいて家主の方が犯罪者の様に扱われていたが 化学兵器がバケツで作れんのかよと思ったが そんな訳もなくあのコメントしてた人の様な無能無知な人を平気で使うのもオールドメディアが昔から変わらないところ

  4. 科捜研も命がけだわ
    もし、匂いもしない純度が高いモノをばら撒かれていたら更に被害は出たそうです。

  5. 地下鉄サリン事件から30年。

    石原慎太郎氏(故人)の四男はオウム真理教の幹部で教団の曼陀羅を描いたと言われているが、これは真実か?ちなみに石原慎太郎氏はこれに対して反論していない。
    なお同教団が起こした地下鉄サリン事件では14人が死亡、6300人が負傷し、また、松本サリン事件では7人が死亡、600人が負傷している。
    さらに、同教団は創価学会名誉会長(当時)池田大作氏を
    サリンを使って二度にわたり襲撃し、暗殺に失敗している。これは世界史上まれにみるテロ事件である。仮に石原慎太郎氏の四男がオウム真理教の幹部だったとしたら、石原氏の道義的責任は万死に値する。

  6. 松本サリン事件を経験してデータは蓄積されてるのに、何時間も薬物がサリンとわからないわけがない。公安のスパイによってサリンを使う日時を当局は知っていたはずだ。地下鉄サリン事件は日本軍の真珠湾攻撃と同じ図式と考えればわかりやすいだろ。

  7. もとのオウムの人みたいですね 今の人は騙せませんよオウルドメディアさん😂

  8. 光の輪、統一教会等の新興宗教なんか全て潰れてしまえ。佛教や基督教等の歴史的宗教以外は全て弾圧されろ。何が信教の自由だ。

  9. このモップは恐らくですが私の大先輩の駅員が別の駅から応援に行って運悪くサリンを拭き取ってしまったモップです。その方は殉職されました。ご冥福をお祈りいたします。

  10. 叔父が当日いつもの通り地下鉄日比谷線日比谷駅を使って通勤していたので、今思い出しても震えが来ます。
    携帯もない時代、ただただ身内たちは数に限りある公衆電話からの本人の連絡を待つしかなく、叔母が泣きながら「お姉ちゃん(私の母)どうしよう?」と我が家に駆け込んできたのを覚えてます。(一本乗り過ごした為に、助かりました)
    暗中模索の中、対処に当たってくださった駅員さんたち、救助隊の方々、聖路加病院の方々、科捜研の方々、有難うございました。

  11. この地下鉄サリン事件は兄が被害に遭遇しかけ、外科医をしている父が患者さんの治療と病院の総指揮を一手に引き受ける事になって家に約2周間半戻れなくなったほどの大騒ぎだったので強烈に覚えている。
    当時、実家の兄が千代田線の西日暮里駅の目の前にある男子校のバスケ部の部長をやっていて地下鉄サリン事件の当日の朝7時頃に「同級生2人と同じ千代田線の日比谷駅と代々木上原で待ち合わせてバスケ部の朝練に参加する約束しているから。」と言って登校していった。
    その1時間後、別の都内の女子校に登校する準備を終えた私がテレビのニュースを見ながら朝食を食べたり母が食後のコーヒーを飲んだり普段と同じように過ごしていたら、急にテレビのアナウンサーが「速報です。ついさっき8時頃、千代田線の我孫子発代々木上原行きの電車内で大規模な爆発事故が起き、二重橋から日比谷駅の間の区間で地下鉄車内で急病人が多数発生。」と言った。
    後にあまりの現場の被害状況が大規模で混乱していた為に出た誤報と分かるが、あの瞬間に知れた情報はそれしか無かったので隣の椅子に座っていた母はコーヒーカップを片手から取り落とし、一気に顔が蒼白になり、次に幽霊にでも遭遇したように真っ白になり、悲鳴のような声で「こんなの嘘よ!まなぶ(兄)が死んじゃう!」と叫んでぶるぶると震える両手で食卓に手をつき立とうとして失敗し、大きく転びかけたのを横にいた私が咄嗟に手を伸ばして支えた。
    8時ちょうど頃に日比谷駅に着く、我孫子発代々木上原行きの千代田線の電車。
    それはいつも兄がバスケ部の朝練に参加する時に使っているとしょっちゅう言っていたいつもの電車の時間帯だった。
    アナウンサーがニュースを読み上げる中、母の両手両足は異常なくらい震えて同時に脱力もしていて立ち上がれず、それでいて母の視線は怖いぐらいテレビにくぎ付けで、うわ言のように青い顔とゾッとするぐらい暗い声で「嘘よ、嘘よ、嘘よ…」と繰り返して横にいる私の存在など気付いていないように見えるぐらい鬼気迫った感じで怖かった。
    その時に電話が鳴って思わず私が受話器を取った。
    電話をかけてきた相手は兄の学校の同級生で同じバスケ部の生徒の保護者。
    電話のスピーカー機能をONにすると兄の同級生のお母さんはやはり鬼気迫った悲鳴のような、はっきりと涙声と分かる声で「もしもし、原くんのお母さまですか?いつもお世話になっていますバスケ部の〇〇の母ですけども、ニュースを見て、居ても立ってもいられなくて。何か現実のように思えなくて今ちょっと混乱しているんですけど、原さんのお家に学君からお電話は来ていませんか?うちの子の携帯電話に連絡してみたんですけど繋がらないんです。うちの子、今日は学君と日比谷駅で、もう1人〇〇君と代々木上原で待ち合わせをしているからと早めに家を出ていったので、あの電車に乗っているかも知れなくて、ニュースで見て信じられなくて…バスケ部の部長さんをしている学君のお家なら学校から1番に連絡があるかと思って、こうしてお電話を…あの、うちの子について何かご存知ですか?学校から何か連絡は?何か、何かうちの子についてご存知ないですか。とにかく一刻も早くあの子の安否を知りたいんです。あの子が爆発事故に遭ったなんて信じたくなくて、お願いです、何かご存知ないですか。」と言った。
    母は今度は呻くように固い声で「分からないです。」とその保護者のお母さんに答えた。
    それから、一瞬で老けたような無表情でテレビのニュース画面をもう1度見て「分からない。私にも分かりません、何も。何が起きているのか、アナウンサーが何を言っているのか、分からない。分からないんですよ…だってさっき私は学校に行くっていうあの子を駅に送って来たばかりなんだから。ついさっきまで一緒にいたんです。それなのに、爆発事故ってどういうこと?何も分からないわ。ですから、ごめんなさいね。申し訳ないですけど私も今は何が何だか。」と言って黙った。
    結局、私が母に代わって「すいません、母がちょっと普通の様子じゃないのでこれでお電話失礼させて頂きます」と断って電話を切った。
    結局、2時間だか3時間した後、電波の混線が解消されて「何となく3人揃って8時より1本早めの電車に乗っていて僅かな時間差で無事に学校に着いてすぐバスケしていたから何も気付いてなかった。体育館に顧問の先生が駆け込んで来て初めて事件を知って驚いたしゾッとした」と兄から電話がかかってきたり学校の先生からも保護者への連絡が始まった事で母は安心したのか表情が一気に普段通りになってヘナヘナ電話台の前に座り込んで「無事だったんならどうにかしてもっと早く連絡しなさいよぉ…!死んじゃったかと思ったんだから!」とべそべそ泣いていた。
    ただ、兄からのその電話が家に来るまでの2~3時間の間の母の様子は幽霊みたいにフラフラして生気がない表情で椅子に固まっていて本当に怖かったので、一緒にいた私からするとかなりトラウマだった。
    さらにその数時間後に勤務先の病院から夜勤明けで帰って来る予定だった父から「被害者の患者さん達の症状を見ていると劇薬のサリンの可能性がある。しばらく家に帰れんし、そもそもこの状態の患者さん達を放って帰るようなら医者を目指していない。もし俺がサリンの除染に失敗して患者さんと同じように重症になったら、すまんが子供達の将来と家の事、後の事は全て頼む。これはもう医者や看護師達がどうなるかは運次第だ。この野戦病院と化した現場で俺は死ぬかも知れん。」と数分間しかない電話がかかってきた時も記憶に強烈に残っているけど、父の声が完全に死を覚悟している感じですごかったな。
    その時には母ももういつも以上にキリッとした顔をしていて静かにハッキリした声で「学の事ではさすがに心構えしてなくて動転したけど、あなたに関してはこういう場合も医者の妻になった時から覚悟しています。家の事や子供達の事は考える必要ないから。あなたは医者なのだから患者さんを治療する事を最優先するのが当然だわ。」と言っていたけど。

  12. 私の父が毎朝乗っている同時刻同車両で起きた事件でした。
    当日は自宅に私1人。テレビ付けたら大変な事になっており、父が乗っている電車かもとパニックになりました。

    外出中の母に電話し支離滅裂になりながらも話したところ「落ち着いて。お父さん今日急な出張が入り都内ではないから大丈夫」と。
    安心して涙が出た事を覚えています。
    この時点では同じくらいの時間の電車だろうという認識だったのですが、その後(翌朝か数日後か)父が新聞記事を読みながら「嘘だろ…」と言ったまま俯いて黙ってしまい。
    毎朝電車で隣に座っていた方が亡くなった被害者として掲載されていると。
    毎朝毎時刻同じ場所に座っていた父は、同様に必ず隣に座るその方といつしか会釈をするようになっていたのだそうです。
    その方の名をこんな形で知るなんて…と。
    ここで初めて同じくらいの時間どころか、出張がなければ父も当該車両に乗っていた事を知り、大きなショックを受けました。

    もし父が乗っていたら?と想像し、乗っていなくてよかったと思うと同時に、その想像した事が起きた人が実際にいるのにそう思う事への罪悪感もありました。
    父も落ち込んでいましたから、「お父さん、よかったね」とは言えなかった。ただ無言で父を見つめていました。

    この話を上記の理由からなかなか人に言えず、その後も家族でも話題にあまりしませんでした。
    今でも軽々しく言えないと言う気持ちは同じなのですが、この方のお話を聞き、色々と思い出しここに書かせていただきました。

    二度とこんなこと起きないように祈るばかりです。

Write A Comment

Pin