当チャンネルでは戦国時代を主に合戦などを解説する動画をお届けいたします。
平面地図・立体地図などを利用し、戦国史の面白さ、奥深さ、その当時の武将の生きざまなどをお伝えできればと思っております。
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【徳川家康関連動画】
https://youtu.be/RCRe2wz43uw
https://youtu.be/x8KFxAvp7mA
https://youtu.be/99Lt6YHz5Vg
https://youtu.be/ZE6l9GnN_BU
【使用素材】
画像・動画:イラストAC様、写真AC様、シルエットAC様、動画AC様、Pixabay様
BGM、効果音:甘茶の音楽工房様、魔王魂様、OtoLogic様
SE:効果音ラボ、OtoLogic様
地図引用元:Google社「Google Earth」、国土地理院「地理院地図」等を加工して作成しております。
22 Comments
織田 信忠
どう見ても信忠だよねぇ
あれ? よしふじさん?
二次創作だったり古い大河だと狩衣に白粉姿で公家の様に振舞っている抜けたキャラにされがちな今川義元。でも優秀な家臣をまとめあげ「東海一の弓取り」と称される程優秀だった。それに今川氏自体足利将軍家の一門(斯波、吉良、今川)なのでそこら辺の中小豪族と違って家格が高い名門中の名門な大名でもある。
桶狭間山に布陣した部隊が丸根、鷲津砦を落として疲弊した部隊と信長が誤認して強襲した説を覆せるほどの説得性が感じられなかったのが残念。それ以外はよくできていると思った。
将棋打ちなら共感出来るかも信長のいくさ場での用兵術と駒の進め方😊情報網を駆使して東海一の弓取りに「王手っ!」信長カッコいい😊
信長が長生きしてれば自分の功績を飾らせるために昔の勝戦を詳細に残させただろうね
ただ現役バリバリでなくなってしまったから記録を残す余裕がなかった
勉強になりました。
信長は「運が良かった」と言われ、義元は「油断していた」と言われる
どっちにとっても不本意な通説が未だにまかり通ってるのはなんか悲しい
本能寺も手薄のとこ
襲われた
信長は若殿と呼ばれ始めた頃から裸馬に乗り自ら腰に火打石の袋と火薬の袋をぶら下
げ当時では珍しい鉄砲を担ぎ家来には , 又々当時には珍しい長槍を持たせ町中を行列
を成して行進し此れを視た人々からは、バカ殿,とかウツケとか,噂されていた。所謂
見た目より実用を重んじて、どうしたら戦に有利かを常に考え実践を模して家来や
村の子供達を二手に分けて戦わせたりしたという。此の行動が弟との比較と成り家
中を二分する事と成り。。。。色々有り。詰り策士だった。今川義元が攻めて来た
らどの様にしたら、数で劣る自軍に有利な条件に持ち込めるか。守るに不利な桶狭
間に疑われない様、誘い込むか。桶狭間で小休止するよう随分前から道の整備とか
やっていても不思議ではない。後の闘いを見れば常に最上の策を前以って用意して
勝ち戦に。長篠の戦で柵と鉄砲。大阪湾での鉄鋼船での勝利とか。知恵者じゃの~
説明をする地図が1つでないので理解が進みません。当時の地図を中心に使ってはどうでしょう。
現地を知ってるかたの説だと思いました
この説だと 納得できます
いろいろな考えかたがありますが 土地を知らないとわからないことがたくさんあるので 是非現地を歩いて見て欲しいです
ただ、生山は はえやま
釜ヶ谷は かまがたに
と 読みます
勉強になりました
ありがとうございました😊
17:56 👍
合戦時、織田信秀に大量に金を貸していた多治見木下氏の李(西浦)頼長こと織田信長は何と今川義元の本陣に居て、今川義元と織田信長は会盟の宴席を伴にしており、其処を、斯波平氏の織田信秀の実弟の柴田勝家が天白から急に奇襲した
桶狭間は造成されて住宅地になっており、今や跡形もないけど。信長は義元本陣の位置を知っていなければ、あの強襲策は取れなかった様に思うけどな。が、それ以上に今川の布陣のさせ方が甘過ぎると言うか、舐めすぎなんだよな。突発的な現象ってのも誰しも予想出来たはずで。それが一番理解できないんだよね。折角の数の利を生かせない。本体は動く必要も無かった。信長が上手かったのはそうだけど、今川の失策が主なんじゃないのかな。
清洲で無く、距離と生まれた古渡城か熱田神宮に居たと思います。
あんたは、全て見てきたのでしょうね!ハッキリと、言っておりますから!あなたは、一体何歳ですか?
落馬して落ちた(※馬から)
他の軍勢を全て道沿いに進軍しているのに、織田本隊だけ道なき道を自由に行軍したというのはアンフェアじゃないか?
やっぱ長坂道一直線でしょう。
信長の戦いって短兵急なイメージなので、松井隊を交わして別道を通るなんてしないんじゃないかと。
多分、消耗戦の押せ退け押せ退けを繰り返しながら前衛を崩した。
攻撃を繰り返す中で、義元本陣をキャッチして攻撃した。
だから言われるほど計算していたわけではないと考えます。
通説から論理的に考察している点が素晴らしいと思います。
たしかに、義元も決して凡将ではなかったかと。
それにしても、通信機器の無い時代に、ここまでやったものです。