今回は関ヶ原の戦いについての動画になります!
今まで通説とされていた歴史情報が最近の研究によって、少しずつ変わってきています。
その中の一説を今回はご紹介いたします!

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当チャンネルでは戦国時代を主に合戦などを解説する動画をお届けいたします。
平面地図・立体地図などを利用し、戦国史の面白さ、奥深さ、その当時の武将の生きざまなどをお伝えできればと思っております。

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【徳川家康関連動画】
https://youtu.be/RCRe2wz43uw 
https://youtu.be/x8KFxAvp7mA 
https://youtu.be/99Lt6YHz5Vg 
https://youtu.be/ZE6l9GnN_BU 




【使用素材】
画像・動画:イラストAC様、写真AC様、シルエットAC様、動画AC様、Pixabay様
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SE:効果音ラボ、OtoLogic様

地図引用元:Google社「Google Earth」、国土地理院「地理院地図」等を加工して作成しております。
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45 Comments

  1. 西軍は運悪く。みんな捕まっちまったよな。。。
    お陰で領地は引き渡しになっちゃった。もっと時間稼がないと。

  2. 吉川が調略されたのが痛すぎる。根回しという点で石田三成は遅れをとったな

  3. なるほど・・・最新の布陣の位置なら2時間で勝負が決したのも納得・・ 島津の退口ももう前方にしか退路がない追い込まれ状態だったんですね・・これも納得いく説明でした
    すでに乱戦状態に陥っていたとは・・ いい解説で勉強になりました!

  4. 14:47 ~/22:53 ~ ホンマに・・・見る価値のある部分。時間のない人向け。‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼

  5. 25:08 なるほど・・・歴史は・・・勝者によって・・・つくられる・・・か。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬

  6. 歴史好きは漢字の読みや発音した時の語感とかの気持ち良さも含めて歴代好きだからその辺のご考慮もお願いしたいですね

  7. *「(9月)15日、(家康が)濃州赤坂に至り着馬したところ、夜半に敵が関ヶ原へ大垣より回り、先陣において合戦を企てた。この日は雨が降り霧が深く、行く先ははっきりわからなかった。伊勢筋へ回っていた西国衆2万5000はこうづ(海津市南濃町上野河戸)、駒野(海津市南濃町駒野)に居陣した。関ヶ原に石田三成、宇喜多秀家、大谷吉継、島津義弘、小西行長が今まさに陣を敷こうとしたところへ、小早川秀秋が家康の味方に属したので、敵は敗北し、数百を討ち取った。この時、脇坂安治、小川祐滋らは俄かに家康に属した」(『当代記』)
    *「(9月15日の家康の出陣の後)、関ヶ原表にてことごとく追い討ち(追撃)を命じた」(慶長5年9月19日付大関資増宛浅野長政書状)。
    *「去る14日、(家康は)赤坂に着き、15日巳の刻、(家康は)関ヶ原へ出陣して一戦に及んだ。石田三成、島津義弘、宇喜多秀家、小西行長の4名は14日夜5ツ時分に大垣(城)の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ一緒に押し寄せた。この地の衆(尾張衆)、井伊直政、福島正則が先手となり、その他(の諸将が)全て次々と続き、敵が切所(要害のこと)を守っているところへ出陣して、戦いを交えた時、小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠、祐滋父子の4人が家康に御味方して、裏切りをした。このため、敵は敗軍になり、追い討ちにより際限なく(西軍の兵を)討ち取った。(西軍の武将で討ち取った)大将分は大谷吉継、島津忠恒、島左近、島津豊久、戸田勝成、平塚為広、この他を討ち取った」(慶長5年9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状)
    *「彼(家康のこと)は敵(三成のこと)と戦闘を開始したが、始まったと思う間もなく、これまで奉行たちの味方と考えられていた何人かが内府様(家康)の軍勢のほうに移っていった。彼らの中には、太閤様(秀吉)の奥方の甥であり、太閤様から筑前の国をもらっていた中納言(小早川秀秋)がいた。奉行たちの軍勢の中には、間もなく裏切り行為のため叫喚が起こり、陣列の混乱が叫喚に続いた。こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利を収めた」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)。
    *「美濃堺の柏原において、家康の先勢である福田正則・細川忠興・加藤嘉明が合戦を行なったとのことで、大「」の軍勢が敗北し、大谷吉継は討ち死にした。これは小早川秀秋の反逆によるもので、巳の刻であった」(『舜旧記』慶長5年9月15日条)

    これらより、関ヶ原はほとんど瞬間的に決着がついたと思われます

  8. 全く関係あるかわからないですが
    19歳ぐらいの時に関ヶ原合戦跡地みたいな所心霊スポットのノリで行ったら友達がガチで乗り移られてマジでノリで行く所ではないと思いました

  9. 問鉄砲はともかく多数の記述があるようであり、事実でないにしては出典が豊富すぎ、それ自体はあった可能性があります。
    つまり小早川秀秋は完全に東軍とは言い難かったとも思えますし、初めから参戦していた事も疑わしいと思います。

  10. 秀忠が関ヶ原勝利を聞いたのは甲斐だったというのは?

  11. ディズニー+で配信されているドラマシリーズ"Shogun"で、最終話で詳しく描かれると思われていた関ケ原をサラッとしかやらなかったのはある意味正解かもな~

  12. 地図で見てみると、小早川は最初から東軍だったという説が正しかったと思う。
    家康が毛利勢に背後を見せていたということは、毛利は攻めないという確信もあったのだろう

  13. 松平ただきちはないだろう😅
    それにさらっと言ってるが、秀忠軍は上田を通ってないじゃん。それはどうなの。

  14. 南宮山に布陣していた部隊って、本気で戦おうと思っていたのなら、伊勢街道のほうに降りる事は出来なかったのかな。。。

  15. 問鉄砲は火縄銃の射程で可能なものなのか疑問です。火縄銃は有効射程50メートル程度(10年以上訓練を詰んだものが10発中10発当てられるくらいの距離)と言われています。200メートル以上飛ばすことも可能ですが、威力精度共にまともな性能ではありません。200メートル以上離れて問鉄砲されても自陣側に発砲されたものなのか判断するのは難しいように感じます。問鉄砲は互いに十分目視できる距離で撃たれなければ厳しいはずです。しかし小早川は山中に陣を構えており、ますます相手からの発砲が自身に向けられているものであると判断するのは至難の業です。陣の位置も明らかに異質な配置で、曖昧な態度ばかりであることから既に裏切りは想定していたと考えても不思議ではありません。

    強いて言えば石田が大阪城方面へ退却できるような位置取りをしなかったのは本当に謎ですね。小早川の裏切りの可能性にうっすら気づいて陣を遠目の山中に配置したのであれば、味方が挟み撃ちにならないような退路を取って然るべきところを北に逃げたのが謎です。もしかすると小早川は山中を西へ向かい側面から西軍本陣を北へ誘導するように回り込んだのではないかと勘ぐってしまいます。

  16. 島津って朝鮮出兵ではすごかったといわれているが、全然大したことないじゃないか。
    鬼島津だったら、島津だけで東軍を壊滅できるはずだよな。

  17. 毛利勢が桃配山の徳川本陣を後ろから突いていれば勝っていただろうし、最初から戦う気無かったんだろうね。

  18. 西軍の関ケ原への陣地移動は伊勢街道をからですよ。
    関ケ原の戦いの敗因は、前田利長及び福島正則を味方にできなかったことが初期段階の失敗、最大の失敗は岐阜城が陥落したことです。これ以降西軍側の動揺が激しくなり、小早川及び毛利も東軍側に傾いていきました。西軍側が大垣城を捨てた要因は岐阜城の支城がすべて東軍側に寝返りが原因です。濃尾平野に東軍に引き込み包囲作戦をすることが崩れたから。

  19. 小早川の西軍攻めと毛利、吉川の不戦はどう頑張っても西軍敗戦は確定して
    いた、
    毛利輝元が出陣せずに石田三成を噛ませ犬にしたのは輝元の愚将の証明。

  20. 家康を知らないのか?秀吉なんて宗教団体いたから市民だぞ?武士もやめて、周りは井伊しかいない。俺は日本では坂上田村麻呂だがな?

  21. 隣は平の清盛じゃないですか!403かよ!オウムかよ!脱走した猿に似てるぞ!俺なんか、人間なのに代理だし。俺は女の妲己だったが、難しい。

  22. 土地福原で邸くれよかよ。追い回すなよ。つらいだろ?家とか努力家しか手に入らない。札が高くて支払いが怖い!

  23. 「徳川家康の命を受けて」
    直江兼続は上杉家の家老で陪臣、五大老から直接命令される立場ではないのでこの表現は無理があります。
    ちなみに徳川家康と上杉景勝は五大老で同格、家来でもありません。
    そもそも命令できるかどうかも怪しいです。唯一秀頼の名代でしか名目がありません。
    「上杉家との交渉」
    直江兼続は上杉景勝の家臣なので交渉というのもおかしいし、主君景勝の代わりに徳川家康と交渉しているのが正しいです。
    「堀田直政」
    誰ですかそれ?
    堀直政の間違いでしょう。
    なお「直江状」は後世の創作で偽書というのが定説です。

  24. 年貢米の件はさておくとしても、国替えされた挙句秀吉の葬式やらなにやらで景勝は領地を治めるどころじゃなかったのは確かだからなあ。正直同情してる。

  25. 天下分け目の戦いと言われるのに、21歳の若造、小早川秀秋の1万3000人が、勝敗を決するとは、情けない😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮😮

  26. 大谷軍は小早川軍の突撃をも跳ね返していたそうですね 脇坂らの寝返りが壊滅の決め手になったそうです 大谷軍少ないのに恐ろしや

  27. まさかとは思いますが、AIだったら仕方がないのですが、徳川家康の4男は、松平忠吉「ただよし」です。他の武士名が読めているのに、何故なのでしょうか?

  28. 大谷吉継は、藤堂隊と京極隊を相手に互角に持ち込み、小早川の大軍を2・3度ほど撃退したと言う。

  29. 逆になんでこの状態から島津が逃げれるんだ……w首オイテケ一族最強、、

  30. 狭いから思ったように布陣できず、展開もできず。行ったら分かる。
    三成が大垣城出た理由は、大垣城が手狭だからとあるが、島津側の資料には食料が不足していたと。小早川秀秋は毛利秀元等と別れたあとの行動ははっきりしないが、一時佐和山付近にいたようで、西から急に現れて松尾山寺を占領。ここには西国殿が入る予定である戦略上大切な場所。
    三成は兵站確保のため、14日まで一緒にいた大谷隊を先行させたが、小早川らの攻撃を受け壊滅、退路を遮断され、反転して戦ったと思える。だから、東軍が圧倒した。吉川の輝元へ書状に始めから勝負にならんとある。実際は、三成の戦略ミスなんだろうね

  31. 毛利軍は吉川軍と合わせて訳2万5千と言われ、動いてもそうそうやられたとは思われません。
    宇喜多秀家軍が天満山に布陣していた事は通説と変わらないという事ですね。

  32. 史実は事実なり 江戸時代以降の資料はウソっぱち マジで勉強になります❤❤❤

  33. 最近の新通説が面白いのは、関ヶ原は偶発戦で、ほぼ旧豊臣家臣団の戦い担ってるよねってところ、ある意味、家康は敵味方を見極める最良の戦いだった。
    個人的には、家康が桃配山まで出張ってきていない説は説得力高いと思う、家康からしたら毛利勢は内通しているとはいえ、
    小早川、吉川の動き次第では危険すぎる絶体絶命の布陣になるので、伏見城か関ヶ原後方に布陣して
    旧豊臣家臣勢同士が戦って勝手に消耗してくれればそれでもよし、
    仮に関ヶ原で三成らが勝利し、再度美濃へ進出してきたら野戦においては絶対の自信がある家康、秀忠率いる純度が高い徳川本体とも言える3万近い部隊が残っているので、
    次は家康が全面指揮できるALL徳川の戦いになる。逆にいえば、福島や黒田など旧豊臣家臣団への気遣いが無用になる。
    その時、毛利や東北の伊達らの動きも気になるが、徳川本体が打ち破られた訳では無いので、一定の求心力は残っていただろう。

  34. 小早川より総大将のくせに本戦に来なかった毛利輝元の方がやばい結局その後どっちにも味方してたのがバレて大幅減封くらってるし何がしたかったんや

  35. 関ヶ原闘いなんて無かったよ🪖全部メイクストーリー💄

  36. 関ケ原は小早川秀秋の裏切りと言われているが
    吉川広家の裏切りが原因だ

    猛将毛利秀元、長宗我部、吉川、安国寺合わせて3万
    しかも西軍の大将である毛利家が裏切ったのだから西軍が勝てるわけがない

    この毛利勢を参戦させなかった吉川広家の裏切りで毛利家の安国寺叡恵に至っては斬首された。

    繰り返し言うが、関ケ原の裏切り者は小早川秀秋ではない

    最も愚かな裏切り者、吉川広家だ。

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