ジョーン・リッシュの失踪, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3885223 / CC BY SA 3.0

#失踪事件
#アメリカ合衆国の事件_(1945年-1989年)
#1961年のアメリカ合衆国
#マサチューセッツ州の歴史
#ミドルセックス郡_(マサチューセッツ州)
#1961年10月
ジョーン・リッシュの失踪とは1961年にアメリカ合衆国マサチューセッツ州で発生した、31歳の女性ジョーン・リッシュの行方不明事件である。
自殺、事故、失踪、殺人事件の自作自演など様々な説が唱えられたが、未解決のままである。
1961年10月24日の午後、マサチューセッツ州リンカーンの住宅に警察が到着し、家から外の敷地のところまで血が流れているという近隣からの通報に対する捜査が行われた。
この家に住む少女が遊びから帰ってきたのに、少女の母親であるジョーン・キャロリン・リッシュ(Joan Carolyn Risch、1930年5月12日生)の姿が見当たらないことにも、この通報を行った近所の住人は気がついていた。
この日以降に、あてもなくさまようように近隣の道路を歩くリッシュとおぼしき姿の目撃例も複数寄せられた。
警察が宅内を捜索すると、まだ2歳のリッシュの息子は部屋にいて無事であることがわかったが、キッチンからは彼女と同じ血液型の血痕が見つかった。
その他の物証とあわせて、警察ははじめリッシュが誘拐されたものと考えた。
しかしその後、リッシュは図書館から殺人や失踪に関する本を何冊も借りており、その中にはこの事件と似たシチュエーションを扱った本もあることがわかった。
そのためこの失踪は彼女の自作自演であり、おそらくはつまらない家庭生活から逃れたかったのではないかという推理も生まれた。
こうした計画を立てる動機となるような、彼女のつらい過去についても後から証拠が見つかった。
そのほかに、マサチューセッツ州道128号の建設地のそばで事故に遭ったのではないかという説も唱えられた。
ジョーン・キャロリン・バードは1930年にニューヨークのブルックリンで生まれた。
9歳のときには家族でニュージャージー州に引っ越したが、両親は後に不審火とされた火事がもとで亡くなった。
また後に報じられたところでは、彼女は子供のころに性的虐待を受けていたことを知人に明かしていた。
火事の後、ジョーンは自分を養子にとってくれた親戚のもとで生活するようになった。
姓はその養親からとってナトラスと名乗り、この名で社会保障番号も取得した。
1952年にはペンシルベニア州チェンバーズバーグのウィルソン・カレッジで英文学の学位をとった。
ジョーンは卒業後の仕事として出版社を選んだ。
一介の秘書としてキャリアをスタートして後に秘書課を監督する仕事につき、さらにはハーコート・ブレイス&ワールド社、後にトマス・ Y ・クロウェル社で編集助手となった。
1956年には友人の1人でありエリート会社員でもあったマーティン・リッシュと結婚したため、仕事を退職して育児に専念した。
コネチカット州リッジフィールドに住むようになり、1958年には長女のリリアンが、翌59年には長男のデイヴィッドが生まれた。
その後1961年4月にマサチューセッツ州リンカーンに引っ越し、特に苦労もなく地域コミュニティに溶け込んだ。
ジョーンは婦人有権者同盟活動に熱心になり、マーティンもフィッチバーグの製紙会社での仕事に邁進してキャリアを追求した。
ジョーンは、子供が大きくなったら教師になりたいと語っていた。
1961年10月24日の朝、マーティン・リッシュは早くから家を出て、ニューヨーク行きの8時の飛行機にのるため車でローガン空港へ向かった。
これは前々から予定にあった出張で、マンハッタンで一泊することになっていた。
彼が家を出発してすぐに、ジョーンは子供たちを起こして朝食を食べさせた。
それから息子のデイヴィッドを道路の向かいに住んでいるバーバラ・ベイカーに預け、予約しているベッドフォードの歯科医院に娘のリリアンと一緒に車で出かけた。
この歯科医はモートンという大学の友人に紹介されたところだった。
通院の予定を済ませると、ジョーンは娘と近くのデパートでちょっとした買い物をした。
支払いは現金であった。
出かけているあいだに、オールドベッドフォード・ロードにある自宅には、牛乳と郵便が配達されていた。
どちらのドライバーも、後の事情聴取では、家にいつもと変わったところはなかったと答えている。
母娘がベイカーのところからデイヴィッドを引き取って家に帰ると、だいたい11時15分頃であった。
それから間もなくクリーニング業者が訪問してきて、マーティンの…

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