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#始皇帝#ユダヤの歴史#茂木誠
 
						
			
43 Comments
あの、日本には🗾🇯🇵縄文時代から延々続く血筋と、中近東、大陸から流れて日本の山間地に住み着いて、帰化した血筋の、日本の戦後史には表には出ないですが、居るそうですよ。
家の死んだ爺様は、縄文時代か続く茨城県筑波山麓に住んでいた豪族の出身だったそうです。
とても血筋を大切にしていて、家の両親は見合い結婚なんですが、母方の先祖は群馬県藤岡市山間地の(豪族?)氏族の出身らしいです。
先生今まであった秦さんと似てるー 先生みながら想像しちまった
始皇帝は、法整備を整えたり、公共事業として万里の長城を築くなど発想からして中華人ではない。中原を平定後、泰山に上り、日本に来た徐福と天を仰いでいた(モーゼのまね)という逸話もあるように失われた十氏族の末裔かもしれない。イスラエルから来た歴史学者が、奈良や京都の古い寺院を訪れ、その寺院についているストゥーパには、特定の王族しか使ってはならない冠が付いていると、驚きの声を上げていた。あっちも、こっちも、、
秦の始皇を祭神とした大酒神社というのが京都太秦映画村近くにあります。
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フロイドが残した文で、戦国時代の支配層はユダヤ系の顔をしていたと有るそうです
今回、4回目最聴しております。昔、古ユダヤの時代ユダヤに於ける女性の地位はどうだったのでしょうか? 宗教的催事に関われていたのでしょうか❔ 関われて居なかったのであれば、戦利品としてコーカソイドの女性が秦の上層部に貢がれ子をなしはしたが、ユダヤ教の儀式が秦に反映されて無くても不思議な事では無い気がします。だとすると、日本に於ける五芒星や菊花紋や幕や等々のユダヤ教との類似点は何故か❔それらは、いつどこから日本にやって来たものか❔それとも、元々日本に存在したもので、偶々偶然の類似点なのだろうか❔等々疑問が出て来てワクワクします。
イスラエルの王ソロモンは王国を拡大していく過程で数百人ともいわれる他国人の妻を娶りました。その妻たちが、当時中東で広く行われていた高き所で儀式を行うということを行っていたのです。そしてその風習が、イスラエルにも流入しました。(聖書歴代誌下28章25、他多数)
従いまして、それを持って始皇帝がユダヤ人ではなかったとは言い切れないと思います。
いつも分かりやすいお話ありがとうございます。
宦官趙高と宰相李斯が結託し、始皇帝の遺言を書き換えて使者を送り、長子の扶蘇を自害させ、二人が傀儡にし易い胡亥を二世皇帝にした。
扶蘇の子、秦王子嬰が劉邦に降参して秦は滅びた。
秦の穆公の時代までは殉死が行われたが、その後、殉死を廃止した。
ユダヤ人というのは民族ではなく信仰を持つ人の集合体と思っていたのですが、古代史では民族として扱うのでしょうか。
失われた10支族、北イスラエルは元から偶像崇拝、他の神を拝む罪をする程トーラーから離れてましたからね、ユダヤ人(南ユダ)も熱心に律法を守る様になったのはバビロン捕囚から帰還後だし。
日本に渡来した秦氏一族は紀元後キリスト教徒になった人達だから血統的にはアブラハムの子孫、北イスラエル人だけどユダヤ人では無い。
昨日、古代オリエント博物館にリサーチ行きました。
もう20何年もイスラエル🇮🇱に発掘調査している研究員に直接質疑応答してもらいました。
あなたは日ユ同祖論をどう思うか?
はっきり言って迷惑だ!
日ユ同祖論支持者たちから電話や質問がたくさんくるらしい。
その人達は証拠が無いしダジャレばかりで話を聞かない。
しかも、高齢者が多い。
ツチノコ、ネッシー、UFO、秦氏❣️
つまり、ムー的エンタメ
寝屋川在住の秦氏の末裔より。
私自身のDNA鑑定以来したらユダヤ人のDNAは世界中に広がっているから意味ないとはっきり言われた!
秦氏の末裔は今に生きている。
何とか都市伝説に終止符を付けたい。
兵馬俑展に行きました。少し納得できました。ありがとうございました
親友のイスラエル人(ユダヤ人)に教わりました。ユダヤ人は血族では無く、ユダヤ教を信じる人は全てユダヤ人と呼ぶと。だから、典型的なユダヤ人の顔形はないとの事。テルアビブの飲食店に行くと、シャラポワみたいな複数の長身の美女がユダヤ人として働いていました。ソ連から逃げて来た一家の一員なのでしょう。😅
秦氏の系の遺伝子検査で
2000年前も追えます
義姉は2000年前のペルシャから来ているそうです
アルプスのアイスマンの系がどこにいるかも特定されました
過去動画を再度見ております。映画村の太秦(うずまさ)は秦氏が作ったと聞き及んでいます。ダイシン{大秦}ですからネストリウス派キリスト教の秦氏を暗示するものなのでしょうかねぇ。自省録を書いたローマのマルクス・アウレリウス・アントニウスは大秦王アントンと中国では呼ばれてましたねぇ。勉強になりました。
茂木先生、話の中でローマとペルシャ人の入れ替えは困りますね。
最大の課題は、最後の秦王・子嬰が即位してから劉邦軍が覇上に来るまでの間に、子嬰が残された王族達や側近の知識人達や神祇官達を反乱軍の手が届かない北方(当時の匈奴はかなりおとなしくなっていた時期だった)へ逃がせる余裕があったかどうかだと思う。
余裕があったら子嬰は彼らを逃がす選択肢をしたと思われる。当時の秦は反乱軍を率いる楚人の勢力にかなり深い恨みを買っていたのだから・・・
後に隋か唐の時代に京洛で大きな力を持っていた一族を中国人達は”秦人”と呼んでいた。
斉→秦
出雲王朝は小人族=コロボックル族(中等生命体)に支えられた王朝 出雲のオオクニヌシ=王建(斉の王)=漢字の発明者、蒼頡(ソウキツ)
出雲はベトナムから中国全土、朝鮮半島、モンゴル、日本全土にまたがる国(東西南北3000km四方)、バイカル湖=渤海まで出雲王朝
天照大御神とスサノウの尊の孫にニニギ命(秦の始皇帝)が生まれ、その子供(養子)に山幸彦ホホデミノミコト(モーゼ)がいます。その孫に神武天皇がいます。
ちなみに紀伊半島から中国に渡り、オオクニヌシ、秦の始皇帝のために万里の長城を作ったスクナヒコナ(中国名 徐福)も”コロポックル族です。
横穴や静岡のとろ遺跡も地下都市があります。北海道にも。
徐福は日本に逃げて来ました。万里の長城造り終えたら最後殺されるから不老長寿の薬を探しに行くっていって。
やっぱり大国主命は暴君だったのかもね。
秦氏は人種的には日本人に同化して顔つきが日本人(倭人)になってしまった。だからユダヤ人の顔つきは残っていない?そうかもしれないが、DNAの痕跡はどうなんだろうか。DNAの痕跡も消滅してしまったのだろうか。
始皇帝がユダヤ人である証拠の絵があるらしいです。
旧皇族 華頂宮チャンネルの華頂さんが言ってました。
贏洲とか贏は日本のことを指しています。
徐福も同じ贏という名字です。
飛鳥昭雄先生によると、同族だった可能性が高いと言っていました。
偽書と言われる古史古伝や正統竹内文書口伝などを知り、世界中の遺跡、文献、言語学、DNA、伝承、神話など研究すると正統竹内文書口伝、古史古伝が言っている通りだなと思うし、個人的には思ってます。
茂木誠先生、結び大学スタッフ皆様、始皇帝のお話し、楽しく拝聴させて頂き、有難う御座いました。日本には、古代より多くの、人びとが、渡来いていいると思いますが…(諸説有り)始皇帝や孔子やキリストやお釈迦様や他 多数(諸説有り)…ちなみに、始皇帝は、広島の、世界遺産の神社と、深い繋がりがあると…聞いたことが有ります…茂木誠先生、結び大学スタッフ皆様の益々ご発展とご健勝を、陸奥奥州の地より心より、お祈り申し上げます。失礼致しました✨🌞🌜🌍🗾😊🇯🇵
こいつは本を売ってもうけることしか考えない奴だと思うわ…
秦の始皇帝の頃のお話はたくさんあるな。
衛央と孫武、そして孟嘗君。
衛央は律令制を整えるときに国の性格を問い、王道帝道覇道の3つを説いて、始皇帝の先代王に方針を求め、覇道を国の性格に入れた律令制を整えた。
どこまで物語でどこまでが史実かわからないけど。
平成時代の天皇が
「私の祖先は百済から来たと伝えられています」と言ったという話を耳にしましたが、茂木先生のお話を聞いて納得出来ます。
とても勉強になります、ありがとうございます。
国民が明治以後の田布施発朝鮮系日本人で日本人と価値観考えがt違うお上の指示で戦うのがこりごりだから10% ユダヤ金融資本と国が組んでシナリオ通りの儲かる戦争の犠牲になるからと感じている 今も日本人から絞って資産を外資に売り韓国台湾より低下した生活水準にしたのは明治以後の田布施発朝鮮系日本人による政治
エイ政は白人。これは確定。
景教(キリスト教のネストリウス派)徒の yudaya人が祖であるとする説(日ユ同祖論)が佐伯好郎によって提唱されたが、「秦氏=yudaya人景教徒」説は、殆どが語呂合わせであり、説が発表された当時から現代まで一貫して否定され続けている。
▲△▽▼
質問 : 渡来人の秦氏は中央アジアの弓月国から来たそうですが、本当ですか?
回答 : 本当の訳がありませんが、この話は日猶同祖論の派生形である「ユダヤ人日本渡来説」信奉者に根強い人気があります。書籍もいろいろ出ていますし、ネットにも情報がいっぱい出てきますので、信じている方々もいっぱいおられます。しかし、ちょっと調べると、根拠薄弱な情報を寄せ集めて成り立っているだけなのでバカバカしくなるぐらいです。
信奉者たちが使う根拠は、応神天皇の時代に百済から一族を率いて渡来したという「弓月君」という人物の存在で、これは『日本書紀』(720年)に記述があります。また『新撰姓氏録』(815年)にも融通王、別名夕月君が応神天皇の時代に渡来したとあります。この夕月君は渡来人グループである秦氏のリーダーと目される人物です。
次に信奉者たちはこの夕月君は中央アジアから来たという説を展開します。資治通鑑という中国の歴史書に夕月国という国の存在が書かれており、夕月君は夕月国から来たのであるとします。
さらに、当時の中央アジアにはユダヤ人が住み着いている街があったという話を加えることで「秦氏は yudaya人だった」説が完成します。以下、順々に考えていきましょう。
夕月君自体は実在性が疑われている人物ですが、かなり古い時代に、「秦氏」を名乗る氏族グループが渡来していたことは多分確かでしょう。ただし、応神天皇の時代とされているので正確な年代は分かりません。応神天皇は日本書紀で111歳、古事記で130歳まで生きたことになっており、実在性も疑われている天皇です。古事記や日本書紀の記述を鵜呑みにするならば、3世紀から4世紀にかけて生きたことになっており、そうであるならば卑弥呼と同時代人ということになります。応神天皇は中国の史書にに出てくる倭王讃ではないかとも言われており、そうなると5世紀前半の人となります。6世紀の継体天皇の時代以降は歴史記述ははっきりしておりますので、応神天皇は5世紀以前の人でしょう。従って「秦氏」の渡来人グループが日本にやってきたのは5世紀以前の話と考えるのが順当なところです。
秦氏のリーダーと目される夕月君は百済からやってきたと『日本書紀』記します。『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔であるとのこと。おそらくは、秦氏がそう称していたのでしょう。この二書には中央アジアの出であることを匂わせるような記述は一切ありません。
ところが、佐伯好郎という人が1908年の論文で夕月君は、中央アジアの夕月国から来たのだという説を立てます。佐伯は言語学者で、景教の研究で有名な人です。ついでに書けば最初期の日猶同祖論者でもあります。
しかし、弓月国なんて国は中央アジアには存在していません。どの歴史書にも現れません。ネットで検索して出てくる「中央アジアにあった夕月国」の話はすべて秦氏ーyudaya人説信奉者の方々によるものです。信奉者の方々は決まって資治通鑑に夕月国のことが書いてあると主張しており、おそらくは佐伯がそう言いだしたのでしょう。
現在のwikipediaでは「1908年の論文「太秦を論ず」で発表された「秦氏=yudaya人異教徒」説は、古代日本の渡来人系有力氏族・秦氏の本拠地であった京都・太秦の地名・遺跡などを根拠としながらもほとんど語呂合わせ的なものであり、当時の歴史学界ではほとんど相手にされなかった(現在も否定されている)」とされています。「弓月君は弓月国から来た」というのも「夕月」という同じ名前からの連想によるもので、それ以上の根拠を持ちません。そもそも夕月「国」は資治通鑑に登場しません。
資治通鑑とは1065年に編纂が始まって1084年に完成した評価の高い歴史書です。しかし「弓月」という言葉が出てくるのは以下の2箇所のみです。
永徽二年(辛亥,公元六五一年)七月,西突厥沙缽羅可汗寇庭州,攻陷金嶺城及蒲類縣,殺略數千人。詔左武候大將軍梁建方、右驍衛大將軍契苾何力為弓月道行軍總管,右驍衛將軍高德逸、右武候將軍薛孤吳仁為副,發秦、成、岐、雍府兵三萬人及回紇五萬騎以討之。
永淳元年(壬午,公元六八二年)夏,四月,甲子朔,日有食之。 (中略) 阿史那車薄圍弓月城,安西都護王方翼引軍救之,破虜眾於伊麗水,斬首千餘級。
両方とも西突厥と唐の戦争がらみの話の中に出てくる地名であり、「弓月城」とあるので「夕月」という街か城塞はあったのでしょう。しかし7世紀についてのこの2箇所の記述だけから5世紀以前の「弓月国」の存在は引き出せません。そもそも資治通鑑以外の歴史書に「弓月」の地名は出てきません(少なくとも、そういう情報を見たことが私はありません)し、現在の歴史教科書に「夕月国」が中央アジアにあったと書いているものはありません。夕月国とは「秦氏はyudaya人だった」論者の頭にのみ存在する架空の国家です。
ということで、当時の中央アジアにyudaya人が住んでいようとも、そもそも夕月国が存在せず、名前が一緒だからというだけの理由で朝鮮半島の百済国にいたグループが中央アジアから来たというのは、あまりにも根拠が薄いのです。ましてや夕月君の実在性自体が疑われていますので、根拠はさらに薄くなります。
なお、「秦氏=yudaya人論」には様々なバリエーションがありますが、夕月君が真の始皇帝の末裔を称していたということを使って、「秦の始皇帝の末裔というのは誤りで、紀元4世紀の華北を支配した五胡十六国時代の前秦の王族の末裔であろう」とするものがあります。前秦は五胡の一つである氐族が興した王朝であり、元々は甘粛省から来たとされています。甘粛省の西隣りにはタリム盆地があり、その先が中央アジアです。これなら、夕月国という架空の国家を引き合いに出さなくとも「秦氏=yudaya人論」が展開できるとあって、その筋の方々には人気の説ですが、前秦がyudaya教国家であったというような話はどこにもありません。たとえ、五胡の氐族にyudaya人の血が流れていようとも、ユダヤ教の伝統が途絶えていれば、その子孫が日本に渡ろうともユダヤ文化の何かが日本に伝わることは何一つあり得ません。
そして、「秦氏=yudaya人論」の誰一人として前秦がユダヤ教国家だったと立証しようとする人がいません。そういう、いい加減な話なのです。
▲△▽▼
西域では昔からメソポタミア系の牧畜民が小麦栽培をしていて、黄河文明の小麦はメソポタミア系の牧畜民から伝わった。
yu daya 人は元々メソポタミアに居た民族で、旧約聖書の内容は殆どメソポタミアの伝承を受け売りしただけだ。
中国の yu daya的なものは実際にはメソポタミアから伝わったものなんだよ。
弥生人と chousen人は元々黄河の隣の満洲南部に居た民族だから、メソポタミアから伝わったものが沢山あるんだよ。
ヤマト言葉とヘブライ語の類似は語呂合わせ
日本語の単語と他言語の単語との類似は、朝鮮語、ベトナム語等の多くの言語について報告されていて、日本語とヘブライ語の単語は格別に類似しているわけではない(澤田洋太郎『日本語形成の謎に迫る』)。
音読みは、古代のChinaの言葉です。だから日ユ同祖論の比較対象が音読みであった場合、日ユ同祖論ではなくて、中ユ同祖論になります。
yudaya 人が指摘する似たような言葉は似てるだけで、歴史的に言葉が違うことが挙げられます。歴史を調べていけば、同祖論とするにはかなり怪しい状態になります。
Chinaの言葉は漢字ですが、その読み方は印欧祖語からの引用が多く含まれます。これは文化が西からChinaに入って来たためです。青銅器時代も鉄器時代も、西から来て、黄河文明などへ伝播しました。この時、言葉がなければ文明は伝わりません。故に、漢語自体がすでに印欧祖語やカナン語のコピーになっています。
https://note.com/yamato_izumo/n/n4d69cbd41fe2
インド人は白人であり インドへ行かなかった人たちが支那の近くにいたんじゃないだろうか
空海・最澄が唐で買った聖書は今もあるのだろうか
キングダム読んでるとシックリくるw騰があの顔なのも理解しました。
キリスト教の一派ネストリウス派は、コンスタンティノポリス総主教ネストリウスにより説かれ、431年、エフェソス公会議において異端として排斥されました。中国へは、唐の太宗の時代(在位626~649年)にペルシア人司祭阿羅本(アラボン)らによって伝えられ、景教と呼ばれました。景教とは中国語で光の信仰という意味であり、景教教会を唐の時代、大秦寺という名称で建造されました。
9世紀は空海らが遣唐使として唐の長安に留学した時代です(空海は804年に長安で密教を学び、806年に帰国)。そのころ、長安ではユダヤ教の名残が強くあったキリスト教ネストリウス派(景教)が大秦寺を中心に広がっていました。空海も留学時にこのネストリウス派に触れたのではないかといわれています。
845年、武宗によって外来宗教が取り締まられ、ネストリウス派は衰微していきます。おそらく、このときにネストリウス派教徒たちは長安を離れたのではないかと思います。ちょうど838年に円仁らが遣唐使として派遣され、847年に帰国しています。ネストリウス派教徒は遣唐使を通じて知った日本に円仁らの帰国便で渡来したのではないでしょうか。
あるいはもっと早く日本にネストリウス派教徒は渡来していたかもしれません。もともとペルシア人の宣教師がシルクロードを通って長安にまで布教に来たのが中国におけるネストリウス派の始まりであるといわれているぐらいですから、非常に布教熱は高く熱心な一派でした。そんな彼らが長安にとどまったまま100年,200年と過ごしていたようには思われません。おそらくさらに東へと布教したことでしょう。そのルートは単純に地政学的に考えて朝鮮半島から日本へというパターンが考えられます。
たとえば、秦氏の祖先は、720年に完成された『日本書紀』には百済系渡来氏族であるといわれており、弓月君が百済の127県の人民(19万人)を率いて帰化したとの所伝があります。中国にネストリウス派が伝来した時期を考えると、少なくとも720年以前に秦氏を名乗るネストリウス派教徒が日本にわたってきたという説も不可能なことはありません。
渡来したネストリウス派教徒は京都太秦に落着き、帰化したことでしょう。彼らは先進の文化文物を所有しており、朝廷から重んじられたことでしょう。彼らは長安にあった本拠寺の名称の大秦寺から一字をとり、秦(はた)という氏を天皇から賜り、各地に神殿(教会堂)を建設し、そこを信仰生活の拠点としたように思います。太秦を中心に教勢は拡大し、今日の秦氏関連の神社が各地に残っているのではないでしょうか。
ヨーロッパでは14世紀に疫病(ペスト)が流行しました。その時にある地区だけペストによる死者が出なかったということがありました。その地区はユダヤ人街でした。その理由はユダヤ人は宗教儀礼としてのみならず、生活の中で手を洗うことや沐浴が浸透しており、この衛生観念がペストの罹患を防いだのではないかといわれています。同様のことがヨーロッパに先んじて日本で9世紀に起こっていたのではないでしょうか。
朝廷は疫病の流行により863年に神泉苑で初の御霊会を行いました。しかし、その後も疫病の流行が続いたために御霊会を行って無病息災を祈念しました。そのような社会状況の中で869年に御霊会を執り行ったのが祇園祭の起源であるといわれています。京で疫病がはやったこの時期に衛生観念の発達していたこのキリスト教徒たちは当時の日本社会に衛生習慣を浸透させ、防疫に寄与したのではないかと思います。そしてこの出来事を記念して始まったのが祇園祭なのではないでしょうか。尤も、この祭りの起源は旧約聖書であり、ネストリウス派キリスト教徒がユダヤ教徒から受け継いでいた宗教儀式だったのでしょう。
のちにこのキリスト教徒らのうち一部は徳島に移住したのではないでしょうか。おそらく布教目的あるいは政争関連かもしれません。そのため徳島のある地域には秦(はた)姓が多く、秦氏関連の神社があるということなのではないでしょうか。ネストリウス派キリスト教はユダヤ教の影響が強かったため、当時の教会堂(神殿)=今日の秦氏関連の神社にメノラー(七枝の燭台)が徴として残っているということのように思います。(9年前の私のブログ記事より)
中華人民共和国共産党は、もし証拠が見つかっても認めたくは無いだろうなぁ。寧ろ証拠隠滅しそうで怖い。
アメリカが何故イスラエルを支持するのか調べていると、日ユ同祖論に行き当たりました。
明治からある思想で、スコットランドの宣教師がいいだしたと。
他の国でも、そういう説はあると茂木先生も別の動画で言われていました。
宣教師は、明治政府の中枢に入り一緒になって仕事をしてきたそうで、明治政府がユダヤ人に寛容だったのは、この話の影響もあるのかとも思います。
この宣教師は、キリスト教系ならどうして日ユ同祖論を言い出したのかも疑問で、何を信仰していたのなかと思いました。
いずれにしろ、古代にユダヤ人が来たのであれば、持てる技術で上級市民である可能性が高く、比較的多くの子孫を残す可能性があるように思います?
そのDNAは少なからずとも残っていそうな気がするのですが、どうなのでしょうか。
アメリカ政府の様子を見ているとユダヤ人の影響は確実で、国をも動かしてしまう事は、日ユ同祖論を歴史上のミステリーとして単純に面白がっていて良いのかと、疑問に感じます。
古来から人々は交わり、知識や知恵も交流し、多くの記録物なども貴重な物としてやり取りされていた思います。
そう考えると、日本でもいろいろな者や物が、様々に影響して成り立っているので、いろいろな民族や文化に影響を受けているのは、なんら不思議なことでも特別な繋がりでもないようにも感じます。
それでも、こういう説はいろいろ想像すると面白いですけどね。
秦の始皇帝のDNAはすでにわかっていました。
(たぶん、数年前からわかっていたみたいです。なので茂木先生の発言はすでに1年前でもたぶん、科学的に間違いです。先生はご多忙なので、調査漏れもあるのでしょう。)
秦始皇帝 Y染色体は、ハプログループO2a2b1a1a(O-M133) だそうです。Oってわりと中国なら何割もいる、「中国人らしい」DNAパターンです。
(日本の弥生人系の子孫も大きい意味では、O系はけっこういます。2桁目が違うパターンはありますので、始皇帝と違うけど、チャイナ系が先祖の人です。)
日本に来た秦氏についても秦河勝がわかっています。Y染色体 ハプログループO2a2b1a1a(O-M133)らしいです。
始皇帝と秦氏は、まったくパターンが同じですので、親せきでOKです。(これは伝説でそういうのがあったけど、正しかったわけです。)
一方、ユダヤ人は、ハプログループ Eグループ。E1b1b1b2c V42 です。
EグループとOグループでは、あまりにも違うので、関係ありません。だいたい、1段目のグループから違うので、ものすごく遠いってことです。
日ユ同祖論は、大間違いなので、ひっかからないようにしてください。ユダヤ人にも失礼。日本人にも失礼です。
イスラエル人と仲良くなりたいなら、個別に親交すればいいだけです。
嘘のDNA情報で友達になろうとかは、倫理上、よろしくないですよね。以上です。
漫画キングダム以降 始皇帝知らない人派 かなり少なくなったと思います‼️‼️
茂木さんの研究は独創的で興味深いのですが、もうユダヤの研究はヤメて欲しい。なんの興味もない人多いと思います、そもそも日本人とユダヤ人は極端な違いがあるし、DNAに至っては完全不一致が証明されています。歴史にしても日本よりも遥かに新しく後輩です
陰気臭い民族だと認識してます、スピリチュアルの世界では全く無関係の民族になってます。彼らの得意な陰謀に引っかかる心配の種が増えるだけだと思いますが、